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森番の娘は魔王様?!〜魔物にご飯と仕事をあげていたら、辺境村が魔王領扱いされました〜  作者: 志摩 伊純


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第33話 冬を越えて春が来た

第1部:辺境領と教会編

第7章:オークと倉庫づくり


 屋根の端から、水が落ちていた。


 ぽた、ぽた、と不規則な音がして、軒下の土に小さな穴を作っている。


 雪はもう白いままではなく、端から灰色に痩せ、踏まれたところは泥と混ざっていた。森番小屋のまわりも、まだ青いとは言えない。けれど、黒枝の森の奥から吹く風は、少しだけ冬の芯を失っている。


 ミナは戸口でその匂いを吸い、目を細めた。


「春の匂いがする」


 炉のそばで、ルシェラが顔を上げた。


「春なら、肉も増えるか」


「まず薪」


 ミナの目は、軒下に積んだ薪へ戻っていた。


「火がつかないと、肉も焼けないでしょ」


「小娘、春の喜びが薄いぞ」


「薪が湿ってるから」


 ミナは軒下へ出て、積んである薪に触れた。表面は乾いているように見えても、下の方は湿りを吸っている。冬のあいだ何度も位置を替え、布をかけ、雪を払った。それでも、春になると隠れていた水が出てくる。木は正直で、濡れたものはしっかり重くなる。


 次に、塩壺を見た。


 棚から下ろすと、壺は空ではなかった。底で小さく鳴るだけだった冬の初めとは違う。リィナが晴れた日にラダーナから運び、大事に大事に、少しずつ回した塩が残っている。


 けれど、重いとは言えない。


 ミナは壺を両手で持ったまま揺らし、中身の音を聞いた。


「空じゃない」


 薪小屋の方で、羽が動いた。


「でしょ!」


 リィナが顔を出した。春になっても朝はまだ寒いらしく、古い毛布を肩にかけている。ただ、羽だけは誇らしげにふくらんでいた。


「あたしが運んだからね! 塩! ラダーナから! 風が弱い日に! すごいハーピーだから!」


「助かったよ」


 ミナは壺を棚に戻した。


 リィナの顔が明るくなる。


「もっと言っていいよ」


「リィナは頑張ったけど、まだ足りないかも」


「まだ足りないの?」


「春の漬物も考えないと。干し肉も、次の冬も」


「もう次の冬!?」


 リィナの羽が跳ねる。森番小屋の戸口へ薪を持ってきたトマも、少しだけ顔をしかめた。


「春になったところだぞ」


「冬を越したら、次の冬の準備が始まるんだよ」


 ミナは豆袋を持ち上げ、底の軽さを確かめた。


 固くなった黒パンは残っている。干し肉も、去年の同じ時期よりは少し多い。けれど、どれも余っているとは言いにくい。


 春になれば食べ物が勝手に増えるわけではない。畑を起こし、種をまき、水路を直し、傷んだところを直してから、ようやく次の実りを待てる。


「春って、忙しいんだね」


 薪小屋の柱にもたれたまま、リィナが首を傾げる。


「冬も忙しかった」


 トマは持ってきた薪を戸口の横へ置いた。


「じゃあ、いつ暇なの」


 ミナとトマは少し考えた。


「……寝る時?」


「それは暇じゃなくて寝てるだけだろ」


 リィナは毛布を抱えて、不満そうに薪小屋の柱へ寄りかかった。


「でも、塩は運んだし。あたし、働いたし。春のご飯、多めでもよくない?」


「今日は薪置き場を見る」


「褒める時間、短くない?」


「春の仕事が多い」


 トマの口元が少し緩んだ。


「その返し、ちょっとひどいな」


「でも本当」


 ミナは塩壺、薪、豆袋、干し肉の位置を順に見た。冬は越した。けれど、冬が去ったあとに残るものは、喜びだけではない。濡れた薪、緩んだ紐、曲がった柵、湿った床、割れかけの桶。雪が隠していたものが、春の温かさで見えるようになっていた。



 村の家々からも、人が少しずつ外へ出ていた。


 戸を開ける音がする。炉の煙が、冬より少し薄く空へ伸びる。子どもが外へ走り出そうとして、ぬかるみに足を取られ、母親に襟を掴まれる。老人は屋根の下の水を避け、杖で土をつついてから一歩ずつ進んでいた。冬のあいだ戸口に押し込まれていた暮らしが、少しだけ外へこぼれ出している。


「春まで来たな」


 戸口のあたりから、誰かの声がこぼれた。


「まだ寒いけどな」


「雪は緩んだ」


「肉があったのが大きかった」


「塩もな。十分じゃないが、あった」


「桶が割れずにもったのも助かった。あの緑の連中、手先はいい」


 そこで、声は少し小さくなった。


 木札の外の炭焼き跡では、大人ゴブリンたちが朝から道具置き場を開けていた。冬のあいだに増えた木箱、直した桶、古い釘をより分けた小皿、縄の切れ端を入れた籠。どれも粗いが、どれも役に立っている。村人の一人が、割れかけた桶を木札の外側の石に置き、少し離れて立った。


 大人ゴブリンの一体が、それを拾う。


 村人の肩が、少しだけ強張った。


 ゴブリンは桶の割れ目を見て、別のゴブリンに短く声をかけた。手つきは早い。木片を当て、縄を通し、隙間に薄い板を噛ませる。キキは近くで見ていて、時々、短い人間語を挟んだ。


「そこ、だめ」

「水、もれる」

「トマ、うるさい。でも悪くない」


「俺、今何も言ってないぞ」


 キキは顔を上げた。


「いつも」


「いつもで言われるのか」


 リィナがすぐ羽をふくらませる。


「トマって細かくて、うるさいもんね!」


 キキは少し考えた。


「リィナ、もっと、うるさい」


「なんでよ!」


 大人ゴブリンの一体が、桶の縄を締めながら短く笑ったような音を出した。村人はそれを見てまた少し身構えたが、桶を受け取る時には、小さく頭を下げた。


「……助かった」


 ミナはその距離を見た。


 近づきすぎてはいない。手渡しではなく、置いて、下がって、取る。言葉は少ない。目も合わせすぎない。それでも、冬の初めよりはずっとましだった。怖さは残っている。けれど、壊れた桶を直してもらうことは、もう異常なことではなくなりつつある。


「渡す時は、置いて下がって」


 ミナは木札の線を指した。


「直してくれたら、ありがとう」


 キキが小さくうなずく。


「ミナの大事。村の人。だめしない」


「うん。だめしない」


 リィナが横から身を乗り出した。


「キキ、言葉増えたね」


「リィナ、うるさい」


「そこは増えなくていい!」


 ミナは少し笑いそうになったが、木札の縄が湿っていることに気づいて、すぐ表情を戻した。笑うより先に、縄を替える必要がある。



 森側では、金色の目が動いていた。


 ロウたちは冬のあいだ、何度も肉を置いた。大きい獣の脚、骨つきの肉、時にはミナが見ても何の獣かすぐ分からない塊。全部がありがたい。全部が困る。解体し、血を流さない場所を選び、塩をどう使うか決め、村に分ける順番を決める必要があった。


 それでも、肉は冬を越す力になった。


 夜に外周を回る金色の目も、獣害を減らした。家畜小屋の近くに野獣が寄りにくくなったのも事実だった。だが、村人はそれを安心とは呼ばない。ロウの黒い体が森の縁から一歩動くだけで、近くの子どもは親の後ろへ隠れ、大人も話を止める。


「ロウ、そこより手前はだめ」


 ミナが森側の線を指すと、ロウの耳が動いた。


 森側の湿った土に、肉を置いていた石がある。冬のあいだに場所を何度か変えた。水路へ血が流れないように。村道へ近すぎないように。大人ゴブリンたちの場所とも混ざらないように。ロウたちは完全にミナの言葉を聞いているわけではない。けれど、線を覚え始めているようには見えた。


 ロウは少しだけ横へ動き、肉を置く石の手前で止まった。


「そこ」


 ミナは石の手前を指した。


 ロウはそれ以上近づかなかった。


 村人の一人が、遠くから息を吐く。


「助かった」


「でも怖いな」


「怖いよね」


 ミナは否定しなかった。


 そこへ、ルシェラが何気ない顔で歩いてきた。とけた雪で少し湿った裾を気にする様子もなく、森側を見ている。ロウの耳が、リィナの羽より早く反応した。


「ルシェラ」


 ミナの視線が、ルシェラの足元へ向いた。


「ロウを追いかけないの」


 ルシェラは目を細める。


「追いかけてなどおらぬ」


「肉を置いた後、森の方まで走らせたって聞いた」


「鍛えてやっただけだ」


「追いかけたんでしょ」


「少し」


「もう」


 リィナが薪小屋の方から顔を出した。


「もし、あたしも追われてたら泣くかも」


 キキも木札の外でうなずく。


「ロウ、しゅん」


 ルシェラは心底納得できない顔をした。


「魔狼がしゅんとするな」


 森側で、ロウがわずかに顔を背けたように見えた。


 ミナは腕を組む。


「肉を置いた後は、放っておいて。怖がるから」


「怖がるのは村人ではないのか」


「ロウたちも」


「ふむ」


「お願いね」


 ルシェラはしばらくミナを見たあと、つまらなさそうに息を吐いた。


「春は退屈だな」


「退屈なら鍋を洗って」


「それは退屈ではなく苦行だ」


「追いかけられるロウたちの方が苦行」


 リィナが小声でこぼすと、ルシェラはそちらを見た。リィナはすぐ薪小屋の柱の陰へ半分隠れる。


 春になっても、怖いものは怖いままだった。



 共同倉庫の扉を開けると、湿った匂いが出てきた。


 バルドは眉間に深いしわを寄せ、ガルムは床を見た。トマは入口の柱を手で押し、ミナは中に置かれた袋と木箱の位置を目で数えた。冬のあいだ、ここには本当に何でも押し込まれていた。塩を包んだ布、干し肉の束、修理用の縄、釘、古い板、予備の木札、濡らしたくない布、凍らせたくない小さな壺。


 春になって、無理が見えた。


 壁の下の方が湿っている。屋根の端から入ったらしい水の跡がある。床板の一枚は少し浮き、奥の木箱は下の角が黒くなりかけていた。今すぐ崩れるわけではない。けれど、このまま次の冬まで、見なかったことにはできない。


「湿ってる」


 ミナは壁の下を見たままだった。


「見れば分かる」


 バルドの眉間のしわが、さらに深くなった。


「見たくなかったがな」


「塩袋をここに積み続けるのは危ない」


「肉の干し場の道具も増えたしな」


 トマの視線が奥へ移る。


「ゴブリンたちに棚を直してもらえば、少しは入るか?」


「細かいところは頼める」


 ミナは棚板と木箱の間を見ながら、うなずいた。


 大人ゴブリンたちは木の扱いがうまい。桶や箱、木札や簡単な棚なら直せる。曲がった釘を抜き、古い板を合わせることもできる。けれど、この倉庫の奥にある濡れた丸太の土台や、壁際に沈んだ大きな石は違う。


「でも、あれは無理」


 ミナは倉庫の奥を指した。


 雪解けの水で地面が緩み、土台の片側が少し沈んでいる。支えにしていた太い丸太を動かさなければ、下を乾かすことも、石を直すこともできない。丸太は濡れて重い。男が二人で持っても、足元がぬかるめば危ない。


 ガルムが膝をついて、床の隙間を見た。


「動かすなら、人数がいる」


「今、村の手は畑にも水路にもいる」


 バルドの杖先が、倉庫の外へ向いた。


「外周柵も見ねばならん。薪置き場も傾いておる。全部に人は回せん」


 トマは頭をかいた。


「ゴブリンたちは細かい修理なら助かる。でも重い丸太を運ぶには小さい。リィナは論外。キキも論外。ロウにくわえてもらうわけにもいかないよな」


「ロウは運搬係じゃない」


 ミナはすぐ首を振った。


「怖いし、袋も木も噛むかもしれない」


「ルシェラは?」


 その名前が出た瞬間、ミナとバルドとガルムが、ほぼ同時に黙った。


 外では、ルシェラが濡れた枝を片手で折っていた。折るというより、木の方が諦めたような音を立てている。


「力はある」


 ガルムの目は、濡れた枝から離れなかった。


「加減がない」


 ミナも外のルシェラを見たまま、うなずいた。


「倉庫を直す前に、倉庫が減るかもしれない」


「減る方に賭けるな、わしは」


 バルドの声が、倉庫の湿った床にぼそりと落ちた。


 トマは笑いかけたが、倉庫の湿った壁を見てすぐ真面目に戻った。


「力仕事が任せられる男手がもっとあればな」


 その言葉は、倉庫の中に少し残った。


 ミナは返事をしなかった。すぐにどうこうできる話ではない。人手が足りない。重いものが動かせない。無理に動かせば怪我をするかもしれない。怪我人が出れば、春の仕事はもっと遅れる。


「まず、倒れそうなところから」


 ミナは倉庫の入口へ目を戻した。


「薪置き場。倉庫の入口。外周柵。水が入るところ。無理に動かさない。できるところから見る」


「全部じゃないのか」


 リィナが入口からのぞいていた。


「全部を一度には直せないよ」


「春の仕事、多い」


「多いよ」


 トマが小さく肩をすくめた。


「ゴブリンに修理させ、魔狼に見張らせ、ハーピーに塩を運ばせて、今度は倉庫を広げようとしてる村か……」


「倉庫を直すだけだよ」


 ミナは床の湿ったところから目を離さなかった。


「薪が濡れたら困るし、塩が湿ったら困る。肉がだめになっても困る。それだけ」


「それだけ、なんだけど、実際の働き手がなあ」


「無理はしない。怪我したら、もっと困るから」


「そこは本当にな」


 ミナは床板の浮いたところに木札を置いた。今は動かさない。けれど、忘れないために。



 倉庫を出たあと、ミナたちは外周柵の方へ回った。


 雪解けの水で、柵の根元は思ったより緩んでいた。木札の紐も湿り、鳴子の一つは音が鈍い。炭焼き跡の方へ続く外縁の柵は、大人ゴブリンたちが冬のあいだに何度も直したおかげで倒れてはいないが、場所が少し狭くなっている。道具置き場が増え、木箱が増え、修理待ちの桶が増えたせいだ。


「ここも広げたいな」


 トマが柵の端を見たまま、眉を上げる。


「広げるってほどじゃないけど……」


 ミナは湿った地面を指した。


「水が溜まらないように、置き場をずらしたいかも」


「それを広げるって言うんじゃないのか」


「ずらす」


「はいはい」


 キキが近くの木札を指差した。


「ミナ、これ、なおす?」


「直す。紐を替える」


「キキ、釘、うまい」


「釘はトマと一緒に。手を打たないように」


「トマ、うるさい。でも悪くない」


「それ、今日二回目だぞ」


「悪くない、二回」


 リィナが後ろで笑った。


 ロウたちは森側で見ていた。金色の目は静かだが、鋭い。村人たちはその目にまだ完全には慣れていない。ミナはロウへ視線を向け、森側の線を指した。


「今日は見てるだけだよ」


 ロウの耳が動く。


 それ以上は動かない。


 ガルムが外周柵の支柱を押すと、湿った土の中で根元がわずかに揺れた。獣に押されたわけでも、何かが踏み荒らしたわけでもない。ただ、冬のあいだ凍っていた土が緩み、雪解けの水が根元へ入り、支えていた泥を少しずつやわらかくしていた。


「こっちもゆるいな」


 ガルムの手が、支柱に残ったままわずかに力を抜く。


「倒れる?」


 リィナの羽が少し縮んだ。


「今すぐではない。だが、放っておけば傾く」


 ミナは支柱の根元を見た。木札を吊った紐は湿って重くなり、鳴子の縄も少し伸びている。鳴子を指で軽く動かすと、からん、ではなく、こもった音がした。


「鳴りが悪い」


「乾かすか?」


 トマは濡れた鳴子をのぞき込んだ。


「乾かす。替えられる紐は替える。支柱は、少しずらす。水がたまるところには置かない」


「結局、ずらすものが多いな」


「多いね」


 ミナは素直に認めた。


 キキが湿った紐をつまもうとして、ミナに手を止められる。


「それは私が外してから。濡れてると、急に切れることがあるから」


「切れる、だめ」


「うん。鳴子が落ちると困る」


「音、だいじ」


「大事」


 リィナが羽を軽く震わせた。


「音が悪いなら、あたしが代わりに鳴けばいいんじゃない?」


 トマが即座に顔を向ける。


「じゃあ、夜までそこで見張るか?」


「やだ!」


「だろうな」


「鳴子、直そう! ちゃんと直そう!」


 キキが小さくうなずく。


「リィナ、見張り、むり」


「むりじゃないけど、やらないの!」


「リィナ、鳴子より、うるさい」


「なんですって!」


 そのやり取りに、近くの村人が少しだけ笑った。すぐにロウの方を見て笑いを引っ込めたが、さっきより肩の力は抜けていた。春の仕事は多い。怖いものも多い。それでも、目の前の紐を替え、支柱を直し、鳴子を乾かすくらいなら、手は動く。


 ミナは役割を決めた。


 トマとキキは木札の紐を見る。大人ゴブリンたちは、木箱と道具置き場を少し後ろへずらす。村人たちは濡れた藁と古布を干す。ガルムは森側を見ながら、支柱を抜く時だけ手を貸す。リィナは飛ばない。飛ばない代わりに、乾いた紐を運ぶ。


「飛ばないの?」


「今日は近いところだけ。足で運ぶ」


「ハーピーなのに」


「この前も塩を運んだでしょ」


「疲れは抜けてるよ!」


「羽を見る」


「また見る!」


 ミナは答えず、濡れた鳴子を外した。中に入っていた小石が湿って、鳴りが鈍くなっている。乾かせば使える。紐を替えれば、もう少しよく鳴る。全部を新しく作り直す余裕はない。けれど、少し直せば、まだ使える。


 春の仕事は、そういうものばかりだった。


 一度で終わらない。


 全部は直らない。


 それでも、今日できることはある。


 ミナは乾いた紐を受け取り、木札の穴へ通した。指先に湿った木の冷たさが残る。結び目を一つ作り、もう一つ重ねる。風で揺れても落ちないように。けれど、必要なら外せるように。


「まず、ここ」


 ミナは紐の結び目を押さえた。


「今日はこの列の木札と鳴子。薪置き場は午後。倉庫の床は明日見る」


「明日も見るの?」


 リィナの羽がまた揺れた。


「見る」


「春、ずっと見るじゃん」


「春だからね」


 トマが支柱を押さえながら、苦笑した。


「春が来たってより、仕事が来たな」


「春は来たよ」


 ミナは結び目を引いた。


 からん、と鳴子が小さく鳴った。


 まだ少し鈍い。


 でも、さっきより音は通った。


 ミナはその音を聞いて、うなずいた。


「うん。少しは戻った」


「鳴子が?」


「鳴子も。春の仕事も」


「仕事は戻らなくてよかった」


 リィナがぼそっとこぼす。


 キキが真面目にうなずいた。


「仕事、戻る。ごはん、いる」


「それはそう」


 リィナの返事だけは早かった。


 ロウは森側で、相変わらず線の向こうにいた。大人ゴブリンたちは道具置き場をずらし、村人たちは濡れた布を広げ、トマは支柱を押さえ、バルドは遠くから全部を見ていた。


 外から見れば、魔物と人が春の外縁を広げているように見えるのかもしれない。


 ミナには、湿った紐と鈍い鳴子と、午後までに動かしたい薪置き場しか見えていなかった。


「次、こっち」


 ミナは隣の木札を持ち上げた。


 春は来た。


 春の仕事も来た。


 直すところは、まだまだ多い。


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