第32話 羽より軽い噂
第1部:辺境領と教会編
第6章:ハーピー便と広がる噂
ラダーナ村にトレオの商人が来たのは、リィナが手紙を運んできてから数日後のことだった。
冬前の商人は、いつもより荷が多い。
塩、針、縄、布、釘、油、小さな薬草束。どれも村では足りなくなるものばかりで、荷車の軋む音が村道に入ってくると、ラダーナの家々から何人かが顔を出した。
子どもは塩袋より飴玉を探し、大人は布の厚みと縄の強さを見る。いつもの冬前の光景だ。けれど村の年長の男だけは、荷台の端に積まれた塩袋を見て、少し口元を固くした。
「塩を、いつもより少し多めに頼みたい」
商人は荷台の横で帳面を開きながら、片眉を上げた。
「冬前ですからねえ。塩はいくらあっても困りませんから」
「うちも入用でな」
「それは毎年でしょう。で、どれほど?」
年長の男は、すぐには答えなかった。
村の者が何人か、少し離れてこちらを見ている。誰も大きな声では言わないが、先日、空から来たハーピーのことを、みんな忘れていなかった。丁寧な手紙。塩の相談。羽を立てて「塩よ!」と騒いだ、痩せた若いハーピー。
「中袋で、三十ほど。次に合わせられるか」
商人の筆が止まった。
「三十。いつもより少し多いですね」
「隣村にも少し入用があってな」
「ミストル村ですか」
その名が出ると、近くにいた村人が少しだけ肩を動かした。商人はそれを見逃さなかったが、何も聞かない顔をした。商売人は、聞くべきことと聞かない方がよいことを、だいたい匂いで分ける。
「中袋三十なら、次に合わせられますよ。手持ちはそこまでありませんが、トレオへ戻れば集められます。冬前ですし、少し値は張りますが」
「値は、こちらで相談する」
「ありがたい話です」
商人は帳面に数字を書きつけた。塩は冬前によく売れる。村が少し多く買うこと自体はおかしくない。ただ、その行き先がミストル村だと聞くと、帳面の数字とは別のものが頭の中で動いた。
魔狼がいるらしい村。
ゴブリンが柵を作るらしい村。
ハーピーが手紙を持ってくる村。
塩は重い。噂は軽い。
商人はにこりと笑い、帳面を閉じた。
「次の便で持ってきましょう。ラダーナまでなら問題ありません」
「ラダーナまで、か」
「灰石橋を越えるのは勘弁してくださいよ。あれは荷馬車では無理です。人が一人で渡るだけならともかく、塩を積んだ荷車で渡れと言われたら、私の荷も馬も橋も泣きます」
年長の男は、苦い顔でうなずいた。
「分かっておる」
灰石橋は、渡れないわけではない。晴れた日なら、人が一人ずつ、足元を見ながら渡ることはできる。軽い荷を背負った者なら、慎重に行けば何とかなる。だが、荷馬車は無理だった。馬を引いて渡るのも危ない。霜が降りた朝や雨の後、雪解けの水が増えた時などは、ただ歩くだけでも嫌になる。
だから、塩はラダーナに届く。
そこから先が、問題だった。
*
知らせを持ってミストル村へ向かったのは、前にも村の用件で灰石橋を渡ったことのある男だった。
彼は手紙だけを懐に入れ、軽い棒を持ち、朝の冷えがまだ石に残るうちに村を出た。塩袋は持っていない。持てないわけではない。けれど、持たない方がいい。灰石橋は、何も持たない時でも足元を見る橋で、塩を背負って何度も渡る場所ではなかった。
橋の手前まで来ると、男は一度足を止めた。灰色の石が、川の上に古い背骨のようにかかっている。欄干はところどころ欠け、苔が湿った色をしていた。
昔はもっと立派だったのだろうが、今は人が一人ずつ渡るのがやっとだ。男は棒で石を軽く叩き、音を聞き、靴の裏の泥を落としてから、一歩目を置いた。
風が吹くと、橋の上は少し冷える。
それでも、渡れないわけではない。
渡れないわけではないから、余計に厄介だった。
ミストル村に着いたころには、男の肩は少しこわばっていた。村の入口で声をかけると、バルドが出てきて、ミナも森番小屋の方から下りてきた。トマは薪を運んでいた手を止め、リィナは薪小屋の入口から顔を出した。
「塩!?」
薪小屋の入口から、リィナが一番に身を乗り出した。
男はびくっとして、手紙を落としかけた。
「塩ではない。知らせだ」
「塩じゃないの?」
「塩は、次にトレオの商人が持ってくる。ラダーナまでだ」
「ラダーナまで?」
ミナの視線が、男の懐へ向いた。男は手紙を取り出し、バルドへ差し出す。その間も、森の方をちらちら見ていた。炭焼き跡の大人ゴブリンたち、森側に見える金色の目、水路のぷる。見ないふりをするには、少し数が多い。
バルドは手紙を読み終えると、深く息を吐いた。
「中袋で三十ほど、次の商人に合わせられるそうじゃ。だが、ラダーナ村止まり。灰石橋を荷馬車で越えるのは無理、と」
「橋、やっぱりだめ?」
ミナの目は、手紙の文字から上がっていた。
「だめというより、怖い」
使いの男は、灰石橋の方角を思い出すように肩をこわばらせた。
「人なら渡れる日もある。手紙なら、こうして持って来られる。けれど塩袋をいくつも背負って何往復もするのは危ない。荷馬車はもっと無理だ。馬が足を滑らせたら、橋も馬も荷も終わる」
「じゃあ、塩はラダーナまで」
「そうなる」
ミナは少し黙った。見ていたのは、橋ではなく、頭の中の塩壺だった。底の方で小さく鳴る塩。干し肉にする肉。漬けたい根菜。冬の粥。大人ゴブリンたちに出す分。リィナが働いた時の分。
塩は欲しい。
でも、橋は危ない。
「一袋なら」
リィナの羽が、少しだけ得意そうに持ち上がった。
「一袋なら、あたしが運べるし」
トマの手が、薪を抱えたまま止まった。
「手紙とは違うぞ」
「小袋より、ちょっと重いくらいでしょ」
「中袋だ」
「中ってことは、そんなに大きくないってことでしょ」
「そういう意味じゃない」
ミナはリィナの羽を見た。昨日は飛ばせていない。休ませてある。今日は羽の動きも悪くない。けれど、ラダーナまでの往復に、塩の中袋が加わるとなると話は別だった。行けること、戻れること、持って戻れることは、それぞれ違う。
「今日はまだ行かない」
「えー!」
「取りに来る日が決まったって知らせ。塩が来たわけじゃない」
「じゃあ、その日に行く?」
「その日の風を見る。リィナのお腹を見る。羽を見る。袋の重さを見る」
「見るものが多い!」
「多いよ」
バルドは手紙をたたみ、折り目を指で押さえた。
「ラダーナに三十袋用意できても、ミストルへ一度で運べるわけではないぞ」
「分かってる」
ミナはリィナの羽と、男の持ってきた手紙を順に見た。
「運べても、一袋。無理ならやめる」
リィナの羽が少ししぼんだ。
「一袋くらい、運べるってば」
「運べるか見る」
「また見る」
「塩は手紙より重い。落としたら困る。開けても困る。なめても困る」
「なめないし!」
「お腹が空いたら分からない」
「なめないってば!」
横で聞いていたトマの口元が、少しだけ引きつった。
「そこを言われるの、ちょっと分かる」
「トマまで!」
リィナは怒ったが、誰も完全には笑わなかった。塩袋は大事だった。リィナもそれは分かっているのか、怒りながらも、手紙より重い、という言葉だけは頭の中で何度か転がしているようだった。
*
約束の日、朝の空は薄く晴れていた。
ミナは夜明け前に水桶のふちを触り、霜のつき方を見て、森の方の風を聞いた。風は弱い。雲も走っていない。雨の匂いはない。ラダーナへ飛ぶには悪くない日だったが、塩袋を持って戻るにはどうなのか、そこまでは空を見ただけでは分からない。
薪小屋の入口で、リィナはもう起きていた。古い毛布を肩にひっかけたまま、片足で立ち、羽を広げたり畳んだりしている。強がっている時ほど動きが大きいので、ミナは少し近づいて羽の先を見る。
「羽、痛くない?」
「痛くない」
「昨日は休んだ?」
「休んだ。寝た。お腹は空いた」
「空きすぎ?」
「飛べるくらい」
「戻れるくらい?」
リィナはむっとした顔をしたが、すぐには答えなかった。前なら勢いで「戻れる!」と言っただろう。少し考えてから、羽の先を小さく動かす。
「……戻れるくらい」
「塩を持って?」
「持って戻れるくらい」
「強く空いたら?」
「戻る」
「疲れたら?」
「……戻る」
「無理なら?」
「やめる」
「塩をなめない」
「なめない!」
ミナはうなずいた。完全に安心はしない。でも、行かせるなら今日だった。
バルドとガルムも来ていた。
トマは古い布を細く裂いて、リィナが袋を抱えやすいように紐を作っている。塩袋がどのくらいの大きさか分からないので、長さは少し余らせてあった。
キキは木札の外で、リィナの羽とミナの手元を交互に見ている。炭焼き跡の大人ゴブリンたちも、何かあると分かるのか、朝の作業を少しゆっくりにしていた。
「今日はラダーナまで。トレオへは行かない」
リィナは鼻を鳴らした。
「トレオは遠いって分かってるし」
「塩は一袋だけ」
「分かってる」
「残りを見ても、欲張らない」
「欲張らない」
「ラダーナの人の言うことを聞く」
「聞く」
「商人さんについて行かない」
「行かない」
「塩袋を開けない」
「開けない」
「なめない」
「だから、なめない!」
ルシェラが森番小屋の戸口に立ち、愉快そうに腕を組んだ。
「空の者が塩を抱き、隣村より戻るか。食と冬を結ぶ羽よ」
「怖い人が言うと、袋が重くなる」
リィナは羽を少しすぼめた。
ミナもすぐ続けた。
「結ばない。今日は一袋だけ」
「一袋から始まるものもある」
「始めない。見るだけ」
トマが布紐を結びながら、声を落とした。
「見るだけで済んだこと、あんまりないけどな」
ミナは聞こえなかったふりをした。
リィナは布紐を受け取り、胸元にかける練習をした。手紙や小袋の時とは違う。今度はラダーナで実物に合わせて結ぶことになる。ミナは最後にリィナの羽の付け根と足先を見て、息を吐いた。
「行って、受け取って、一袋だけ持って戻る。戻るまでが仕事。戻ったら食べる」
「そこ大事」
「でも、疲れてたら先に羽を見る」
「そこは大事じゃない」
「大事」
リィナは不満そうにしたが、羽を広げた。朝の風が軽く動く。
「行ってくる!」
地面を蹴り、薪小屋の屋根を越え、村道の方へ上がっていく。手紙の時より少し低く飛び出したのは、たぶん体力を残すためだった。本人がそれを考えているかどうかは分からないが、ミナはその飛び方を見た。
「少し、覚えてる」
「だといいがな」
ガルムの目は、まだ空に向いていた。
「帰りが本番だ」
*
ラダーナ村の広場には、すでにトレオの商人の荷車があった。
塩の中袋は布で巻かれ、縄で口を縛られて、荷台の端に積まれている。三十という数は、並ぶとそれなりに多い。ラダーナ村の者たちは、全部が自分たちのものではないと分かっていて、少し複雑な顔をしていた。冬前の塩は、見るだけで安心し、同時に足りない気持ちになる。
商人は荷台の横で、ラダーナの年長の男に帳面を見せていた。
「頼まれた分はそろえましたよ。中袋三十。値はこの前の通りで」
「助かった」
「こちらも商売ですから。それで、ミストル村の分はどう運ぶんです? 灰石橋は、やはり荷車では無理でしょう」
年長の男が答える前に、広場の子どもが空を指差した。
「来た!」
商人はつられて空を見上げた。
羽が見えた。
鳥ではない。人の上半身に、羽。痩せた若いハーピーが、村道の上を外れないように飛んでくる。広場の端に降りる時、一度羽で風を抑え、足先を地面につけた。前に来た時より、少しだけ慣れている。
「ふー」
リィナは息を吐いて、それから胸を張った。
「塩、取りに来た!」
商人の口が、半分開いたまま止まった。
「……ハーピーが?」
「そう。ミストルから。今日は一袋だけ。なめない。開けない。落とさない。戻るまでが仕事。戻ったらご飯」
「情報が多いな」
商人の手が、帳面の上で止まった。
ラダーナの年長の男は、少し疲れたような顔でうなずく。
「その娘だ。手紙を持ってきたハーピーでもある」
「ああ、塩を急かしたという、あの」
「急かしてない! ちゃんと言っただけ!」
リィナの羽が立つ。
「ミナが塩ないって言ってたから、何とかしてって言ったの!」
商人は年長の男を見る。
年長の男は、目をそらした。
「まあ、そういうことだ」
商人は荷台の塩袋を見て、それからリィナを見た。商売として考えれば、塩を買う客が増えるのは悪くない話だ。けれど、空からハーピーが来て一袋ずつ運ぶとなると、商売だけではない匂いがする。怖い。だが、面白い。儲かるかもしれない。少なくとも、トレオに戻れば話になる。
「一袋だけ、でしたね」
「一袋だけだ」
年長の男は、荷台の塩袋を指先で示した。
「残りはラダーナで預かる。ミストルへ一気に渡すわけではない。あちらの森番の娘も、そう言っている」
「ミナはね、見るのが多いから」
リィナは、指を折るように羽先を動かした。
「風を見る。お腹を見る。羽を見る。塩を見る。ご飯を見る」
「最後は違うのでは」
「大事」
リィナは真面目だった。
ラダーナの者たちは、荷台から中袋を一つ下ろした。両手で抱えられる大きさではある。大人の男なら運べる。けれど、痩せたリィナが抱えるには、見た目よりずっと重そうだった。
布の口はしっかり結ばれている。湿らないよう、外側にもう一枚古布が巻かれていた。
リィナは得意そうに手を出した。
「余裕」
袋が腕に乗った瞬間、リィナの羽が止まった。
「……」
商人が小さく笑いそうになり、こらえた。年長の男も、顔には出さないようにした。
「重いか」
「重くない」
リィナは袋を抱え直し、すぐに胸を張ろうとした。
「ちょっと、塩がたくさん入ってるだけ」
「それを重いと言う」
「言わない」
ラダーナの女が布紐を持ち、リィナの腕と胸元へ慎重に回した。羽の動きを邪魔しないように、だが袋が落ちないように。リィナはむすっとしていたが、今度は勝手に動かなかった。袋が少し揺れるだけで、体の重さが変わるのが分かったからだ。
「無理なら置いていけ」
年長の男の視線が、リィナの羽と塩袋の間を行き来した。
「一度に運べぬなら、それでもよい。残りはこちらで預かる」
「運ぶし」
「落とすなよ」
「落とさない」
「開けるなよ」
「開けない」
商人がつい口を挟んだ。
「なめるなよ」
リィナがぎろりと見た。
「なめない!」
「言われているんですね」
「言われてるけど、なめない!」
ラダーナの者たちは、少しだけ笑った。怖さが消えたわけではない。ハーピーが塩袋を抱えている光景は、やはり普通ではない。それでも、袋の重さに固まり、なめないと言い張るリィナは、前に「塩よ!」と叫んだ時より、少しだけ分かりやすかった。
リィナは羽を広げた。
いつもより、少しゆっくり。
地面を蹴る。
体が浮いた。
浮いたが、すぐにいつもの高さには上がらなかった。塩袋が胸元でぐっと重く、羽の動きを引っ張る。リィナは一度足先を地面に戻しかけ、歯を食いしばり、もう一度羽を打った。
今度は上がった。
広場の端を越え、屋根の上へ出る。
「行ける!」
声はいつもより少し高かった。
商人は、その姿を見上げていた。
ハーピーが、塩を持って飛んでいる。
ラダーナ村の広場から、ミストル村へ。
灰石橋を渡らずに。
「これは……」
商人は帳面を閉じる。
「話になりますね」
年長の男の顔が、すぐ商人へ向いた。
「大げさに言うな」
「商人は見たものを話すだけですよ」
「なら、見たままにしろ。ラダーナが塩を預かり、ミストルのハーピーが一袋だけ運んだ。それだけだ」
商人はにこりと笑った。
「ええ。それだけです」
商人の笑い方を、年長の男はあまり信用しなかった。
*
塩袋は重かった。
リィナはラダーナ村を離れてすぐ、それを認めかけた。認めかけただけで、まだ認めてはいない。認めたら、地面に落ちそうな気がしたからだ。
手紙は軽かった。木片と小石の小袋も、まだ軽かった。けれど塩の中袋は、抱えたまま飛ぶと、体の真ん中にずっと石がぶら下がっているようだった。風が横から来ると袋が少し遅れて揺れ、そのたびに羽の角度を直さなければならない。高く上がれば楽になる気もしたが、高く上がるまでがしんどい。
「重くない」
リィナは誰もいない空へ向かって、わざと声に出した。
少し進む。
「重くない」
もう少し進む。
「……しんどい」
言ってしまった。
誰も聞いていない。だから、まだ負けではない。
村道は下に続いている。ラダーナの畑が遠ざかり、低い丘を越え、古い標識のある方へ向かう。赤い実が見えた。寄らない。鳥が飛んだ。追わない。塩袋が胸元でずれる。慌てて抱え直す。
「開けない。なめない。落とさない。戻るまでが仕事」
言うたび、少しミナの声に似た。
今はそれでよかった。ミナの声に似ていると、落とさずにいられる気がした。
標識の先で、風が変わった。前にも知っている場所だ。横から来る風。草地が開けて、羽の先が持っていかれるところ。手紙なら少し直すだけで済んだ。小袋なら抱え直せばよかった。
塩袋は違う。
「うわ」
リィナの体が少し斜めになる。塩袋が反対側へ引っ張る。羽を強く打つと、肩がきしむように痛い。痛いというほどではない。痛いと言ったら、ミナに飛ばせてもらえなくなる。だから痛くはない。ただ、塩がちゃんと入っているだけだ。たぶん。
「しんどいー!」
今度は大きな声になった。
下に誰もいないから、やっぱり負けではない。
それでも、落とさない。
道を見失わない。
森の上へは入らない。
灰石橋のあたりが遠くに見えた。細い古い橋だ。空から見ると、石の線みたいに見える。あれを荷馬車が渡れないから、自分が塩を持っている。そう思うと、少しだけ胸が張れた。
少しだけだ。
袋が重いから、胸を張りすぎると落ちる。
ミストル村が見えた時、リィナは本当にほっとした。森番小屋。薪小屋。水路。炭焼き跡。木札。いつもの場所が、今日はいつもより近くあってほしかった。実際には、なかなか近づかない。
下で誰かが空を見上げた。
ミナだ。
リィナは格好よく降りることを、最初からあきらめた。塩袋を抱えたまま、ゆっくり高度を落とす。薪小屋の前ではなく、少し広い地面を選ぶ。足先が土についた瞬間、体が前へ持っていかれた。
一歩。
二歩。
三歩目で、ミナが支えた。
「戻った」
リィナの声は大きくなかった。
「戻ったね」
ミナはまず袋を支えた。次にリィナの腕を見た。羽を見る。足を見る。顔を見る。
「落としてない」
「うん」
「開けてない」
「うん」
「なめてない」
「うん」
「しんどくない」
「今、しんどそう」
「……ちょっとだけ」
ミナはそれ以上言わせず、トマを呼んだ。トマとガルムが塩袋を受け取る。男二人で持てば、たいしたことはない。けれど、リィナが抱えて空を飛ぶには十分重かった。
「これを持って飛んだのか」
トマの目が、受け取った塩袋とリィナの羽を行き来した。
リィナは胸を張ろうとして、少しだけ失敗した。
「すごいハーピーだから」
「今日は、まあ、すごい」
「もっと褒めていいところ」
「ちゃんと戻ったのは偉い」
リィナは少しだけ目を丸くした。
「ほんと?」
「うん。でも、今日はもう飛ばない」
「えー」
「羽が下がってる。腕も固い。息も荒い」
「見すぎ」
「見るよ」
バルドが塩袋の口を確認した。布は破れていない。湿ってもいない。縄も緩んでいない。塩の粒が漏れていないのを見て、村長の顔がほんの少しだけ緩む。
「無事じゃな」
その一言で、周りにいた村人たちの息が少し抜けた。
塩袋は村人に預けられ、その一部は森番小屋へ分けられた。ミナは棚の軽い塩壺を下ろし、分けてもらった塩の袋を開ける前に手を洗った。リィナが横からのぞこうとするので、トマがそっと肩を押さえる。
「見るだけ」
「なめないし」
「顔が近い」
「匂いだけ」
「それが危ない」
ミナは袋の口を少しだけ開けた。
白い塩が見えた。
たくさんではない。村全体の冬を丸ごと安心させる量ではない。干し肉も漬物も、全部好きなだけ作れる量ではない。それでも、壺の底で音だけしていた昨日より、ずっと違う。
ミナは木の匙で塩をすくい、壺へ移した。
さら。
昨日より、大きな音がした。
もう一匙。
さら。
塩壺が少しずつ重くなる。ミナは持ち上げ、両手で確かめた。まだ軽い。けれど、昨日とは違う。底だけではない重さが、壺の中にある。
「重い」
リィナの目は、塩壺に向いていた。
「袋が?」
「壺が」
「うん。少し重くなった」
ミナは蓋を閉めた。
「でも、これで安心じゃない。大事に使う。干し肉も全部は無理。漬物も少しずつ。リィナのご飯も、今日だけ増やす」
「今日だけ!?」
「今日は塩袋を運んだから」
「じゃあ明日も運べば」
「明日の風を見る。羽を見る。お腹を見る。今日の疲れを見る」
「また見る!」
「それに、今日はもう飛ばない」
リィナは不満そうにしたが、椅子代わりの切り株に腰を下ろすと、すぐに羽の先が下がった。本人が思うより、体は正直だった。
バルドは中袋の残りを見て、眉間にしわを寄せた。
「これで全部ではないのだな」
「ラダーナに残りがあるって」
トマは中袋の方へ目をやった。
「三十袋くらいって話だったから、残りは二十九か」
リィナの動きが止まった。
「……二十九?」
「今日一袋持ってきたからな」
「二十九、残ってるの?」
「全部うちのものじゃないかもしれないし、日に分けてだろうけど」
リィナは塩袋を見た。
それから、自分の腕を見た。
羽を見た。
「二十九……」
ミナはリィナの羽が動く前に口を開いた。
「一日に何回も飛ばない」
「言われる前に分かったし」
「明日も飛べるとは限らない」
「それも、ちょっと分かったし」
「疲れたら休む」
「分かったってば」
リィナはむすっとしたが、さっきより反論の勢いはない。
ルシェラは塩壺を見て、満足そうに目を細めた。
「塩が入った。冬の命が少し戻ったな」
「少しね」
ミナは塩壺の蓋に手を置いたまま、すぐに戻した。
「全部じゃない」
「空の者に役ができ、隣村に塩が積まれ、商人がそれを見る。よい」
「よくない。リィナは疲れてる。塩はまだ足りない。橋は危ないまま」
「だからこそ、よい」
「大きくしないで」
リィナは切り株の上で、疲れた顔のままうなずいた。
「怖い人、塩より話を重くする」
「リィナは塩を軽く見すぎ」
リィナの羽が、すぐに少し立った。
「今は見てない! ちゃんと重かった!」
「うん。ちゃんと重かったね」
「そこは褒めるところ?」
「重さが分かったのは、いい」
「褒め方が重い」
トマが笑いかけて、塩袋を見てから、少し真面目な顔に戻った。
「でも、助かったな。これで肉を少しは残せる」
「うん。全部は無理。でも少しは」
「漬物も少し増やせるか」
「根菜を見てから」
「また見る」
「見るよ」
ミナは塩壺を棚へ戻した。昨日より、置いた時の音が少しだけ低い。
それだけで、村の中の空気が少し変わった。
塩がある。
たくさんではない。
でも、ある。
木札の外で、キキが小さく手を動かした。
「リィナ、戻る」
「戻ったよ」
「塩、戻る」
「塩も戻った」
「仕事、食べる」
「食べる!」
リィナの返事だけ、急に元気になった。
ミナは朝より少し濃い汁を用意した。麦を少し、根菜の端を少し、黒パンの欠片を一つ。それから、肉の端を昨日よりほんの少し大きく入れる。塩は入れすぎない。新しく来たからといって、使い方を急に変えるわけにはいかなかった。
薪小屋の前の石に椀を置くと、リィナはすぐ手を伸ばしかけて、少しだけ止まった。
「食べていい?」
「うん。塩袋を落とさず戻った分」
「なめなかった分も?」
「それも」
「開けなかった分も?」
「それも」
「しんどいって言った分は?」
「大事」
リィナは椀を抱えた。
「じゃあ、しんどかった」
「今日はもう飛ばない」
「言わなきゃよかった」
「言わないと次は飛ばせない」
「むー」
それでもリィナは汁を飲んだ。いつもよりゆっくりだった。塩袋を持った腕が疲れているのか、椀を持ち替える時に羽が小さく揺れる。ミナはそれを見た。
見るものは増えた。
塩壺。
リィナの羽。
明日の風。
灰石橋。
今日の椀。
ミナは、どれも一度には片づかないことを知っていた。
*
ラダーナ村では、商人が荷車の積み直しをしていた。
塩の中袋は、まだ二十九袋残っている。全部がすぐミストル村へ行くわけではない。ラダーナで預かり、日を分け、風を見て、リィナが運べる時に一袋ずつ動く。それだけの話だと、年長の男は何度も念を押していた。
商人は縄を締めながら、素直そうにうなずいた。
「ええ。一袋ずつ。無理はさせない。灰石橋が危ないから、空から持っていく。分かっています」
「分かっているならよい」
「ただ、珍しい話ではありますね」
「珍しいだけだ」
「もちろん」
商人の口元には、商売人らしい笑みが残っていた。
荷車の縄を締めながら、空を一度見上げる。もうハーピーの姿はない。だが、商人の頭の中では、あの痩せた羽が塩袋を抱えて飛ぶ姿が、まだはっきり残っていた。
トレオへ戻れば、商人宿がある。馬車置き場がある。小さな礼拝所も、冒険者が集まる酒場もある。冬前の塩の話はどこにでもある。けれど、塩をハーピーが取りに来た話は、どこにでもあるものではない。
魔狼。
ゴブリン。
ハーピー。
ラダーナに積まれた塩。
灰石橋を越えず、空で運ばれる袋。
商人は荷台の端を叩いて、馬を進ませた。
塩袋は重い。
噂は、羽より軽い。
ラダーナ村の年長の男は、その背中を見送りながら、嫌な予感に眉を寄せた。
商人の荷車は、ゆっくりとトレオの方へ向かっていった。




