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森番の娘は魔王様?!〜魔物にご飯と仕事をあげていたら、辺境村が魔王領扱いされました〜  作者: 志摩 伊純


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第32話 羽より軽い噂

第1部:辺境領と教会編

第6章:ハーピー便と広がる噂


 ラダーナ村にトレオの商人が来たのは、リィナが手紙を運んできてから数日後のことだった。


 冬前の商人は、いつもより荷が多い。


 塩、針、縄、布、釘、油、小さな薬草束。どれも村では足りなくなるものばかりで、荷車の軋む音が村道に入ってくると、ラダーナの家々から何人かが顔を出した。


 子どもは塩袋より飴玉を探し、大人は布の厚みと縄の強さを見る。いつもの冬前の光景だ。けれど村の年長の男だけは、荷台の端に積まれた塩袋を見て、少し口元を固くした。


「塩を、いつもより少し多めに頼みたい」


 商人は荷台の横で帳面を開きながら、片眉を上げた。


「冬前ですからねえ。塩はいくらあっても困りませんから」


「うちも入用でな」


「それは毎年でしょう。で、どれほど?」


 年長の男は、すぐには答えなかった。


 村の者が何人か、少し離れてこちらを見ている。誰も大きな声では言わないが、先日、空から来たハーピーのことを、みんな忘れていなかった。丁寧な手紙。塩の相談。羽を立てて「塩よ!」と騒いだ、痩せた若いハーピー。


「中袋で、三十ほど。次に合わせられるか」


 商人の筆が止まった。


「三十。いつもより少し多いですね」


「隣村にも少し入用があってな」


「ミストル村ですか」


 その名が出ると、近くにいた村人が少しだけ肩を動かした。商人はそれを見逃さなかったが、何も聞かない顔をした。商売人は、聞くべきことと聞かない方がよいことを、だいたい匂いで分ける。


「中袋三十なら、次に合わせられますよ。手持ちはそこまでありませんが、トレオへ戻れば集められます。冬前ですし、少し値は張りますが」


「値は、こちらで相談する」


「ありがたい話です」


 商人は帳面に数字を書きつけた。塩は冬前によく売れる。村が少し多く買うこと自体はおかしくない。ただ、その行き先がミストル村だと聞くと、帳面の数字とは別のものが頭の中で動いた。


 魔狼がいるらしい村。


 ゴブリンが柵を作るらしい村。


 ハーピーが手紙を持ってくる村。


 塩は重い。噂は軽い。


 商人はにこりと笑い、帳面を閉じた。


「次の便で持ってきましょう。ラダーナまでなら問題ありません」


「ラダーナまで、か」


「灰石橋を越えるのは勘弁してくださいよ。あれは荷馬車では無理です。人が一人で渡るだけならともかく、塩を積んだ荷車で渡れと言われたら、私の荷も馬も橋も泣きます」


 年長の男は、苦い顔でうなずいた。


「分かっておる」


 灰石橋は、渡れないわけではない。晴れた日なら、人が一人ずつ、足元を見ながら渡ることはできる。軽い荷を背負った者なら、慎重に行けば何とかなる。だが、荷馬車は無理だった。馬を引いて渡るのも危ない。霜が降りた朝や雨の後、雪解けの水が増えた時などは、ただ歩くだけでも嫌になる。


 だから、塩はラダーナに届く。


 そこから先が、問題だった。



 知らせを持ってミストル村へ向かったのは、前にも村の用件で灰石橋を渡ったことのある男だった。


 彼は手紙だけを懐に入れ、軽い棒を持ち、朝の冷えがまだ石に残るうちに村を出た。塩袋は持っていない。持てないわけではない。けれど、持たない方がいい。灰石橋は、何も持たない時でも足元を見る橋で、塩を背負って何度も渡る場所ではなかった。


 橋の手前まで来ると、男は一度足を止めた。灰色の石が、川の上に古い背骨のようにかかっている。欄干はところどころ欠け、苔が湿った色をしていた。


 昔はもっと立派だったのだろうが、今は人が一人ずつ渡るのがやっとだ。男は棒で石を軽く叩き、音を聞き、靴の裏の泥を落としてから、一歩目を置いた。


 風が吹くと、橋の上は少し冷える。


 それでも、渡れないわけではない。


 渡れないわけではないから、余計に厄介だった。


 ミストル村に着いたころには、男の肩は少しこわばっていた。村の入口で声をかけると、バルドが出てきて、ミナも森番小屋の方から下りてきた。トマは薪を運んでいた手を止め、リィナは薪小屋の入口から顔を出した。


「塩!?」


 薪小屋の入口から、リィナが一番に身を乗り出した。


 男はびくっとして、手紙を落としかけた。


「塩ではない。知らせだ」


「塩じゃないの?」


「塩は、次にトレオの商人が持ってくる。ラダーナまでだ」


「ラダーナまで?」


 ミナの視線が、男の懐へ向いた。男は手紙を取り出し、バルドへ差し出す。その間も、森の方をちらちら見ていた。炭焼き跡の大人ゴブリンたち、森側に見える金色の目、水路のぷる。見ないふりをするには、少し数が多い。


 バルドは手紙を読み終えると、深く息を吐いた。


「中袋で三十ほど、次の商人に合わせられるそうじゃ。だが、ラダーナ村止まり。灰石橋を荷馬車で越えるのは無理、と」


「橋、やっぱりだめ?」


 ミナの目は、手紙の文字から上がっていた。


「だめというより、怖い」


 使いの男は、灰石橋の方角を思い出すように肩をこわばらせた。


「人なら渡れる日もある。手紙なら、こうして持って来られる。けれど塩袋をいくつも背負って何往復もするのは危ない。荷馬車はもっと無理だ。馬が足を滑らせたら、橋も馬も荷も終わる」


「じゃあ、塩はラダーナまで」


「そうなる」


 ミナは少し黙った。見ていたのは、橋ではなく、頭の中の塩壺だった。底の方で小さく鳴る塩。干し肉にする肉。漬けたい根菜。冬の粥。大人ゴブリンたちに出す分。リィナが働いた時の分。


 塩は欲しい。


 でも、橋は危ない。


「一袋なら」


 リィナの羽が、少しだけ得意そうに持ち上がった。


「一袋なら、あたしが運べるし」


 トマの手が、薪を抱えたまま止まった。


「手紙とは違うぞ」


「小袋より、ちょっと重いくらいでしょ」


「中袋だ」


「中ってことは、そんなに大きくないってことでしょ」


「そういう意味じゃない」


 ミナはリィナの羽を見た。昨日は飛ばせていない。休ませてある。今日は羽の動きも悪くない。けれど、ラダーナまでの往復に、塩の中袋が加わるとなると話は別だった。行けること、戻れること、持って戻れることは、それぞれ違う。


「今日はまだ行かない」


「えー!」


「取りに来る日が決まったって知らせ。塩が来たわけじゃない」


「じゃあ、その日に行く?」


「その日の風を見る。リィナのお腹を見る。羽を見る。袋の重さを見る」


「見るものが多い!」


「多いよ」


 バルドは手紙をたたみ、折り目を指で押さえた。


「ラダーナに三十袋用意できても、ミストルへ一度で運べるわけではないぞ」


「分かってる」


 ミナはリィナの羽と、男の持ってきた手紙を順に見た。


「運べても、一袋。無理ならやめる」


 リィナの羽が少ししぼんだ。


「一袋くらい、運べるってば」


「運べるか見る」


「また見る」


「塩は手紙より重い。落としたら困る。開けても困る。なめても困る」


「なめないし!」


「お腹が空いたら分からない」


「なめないってば!」


 横で聞いていたトマの口元が、少しだけ引きつった。


「そこを言われるの、ちょっと分かる」


「トマまで!」


 リィナは怒ったが、誰も完全には笑わなかった。塩袋は大事だった。リィナもそれは分かっているのか、怒りながらも、手紙より重い、という言葉だけは頭の中で何度か転がしているようだった。



 約束の日、朝の空は薄く晴れていた。


 ミナは夜明け前に水桶のふちを触り、霜のつき方を見て、森の方の風を聞いた。風は弱い。雲も走っていない。雨の匂いはない。ラダーナへ飛ぶには悪くない日だったが、塩袋を持って戻るにはどうなのか、そこまでは空を見ただけでは分からない。


 薪小屋の入口で、リィナはもう起きていた。古い毛布を肩にひっかけたまま、片足で立ち、羽を広げたり畳んだりしている。強がっている時ほど動きが大きいので、ミナは少し近づいて羽の先を見る。


「羽、痛くない?」


「痛くない」


「昨日は休んだ?」


「休んだ。寝た。お腹は空いた」


「空きすぎ?」


「飛べるくらい」


「戻れるくらい?」


 リィナはむっとした顔をしたが、すぐには答えなかった。前なら勢いで「戻れる!」と言っただろう。少し考えてから、羽の先を小さく動かす。


「……戻れるくらい」


「塩を持って?」


「持って戻れるくらい」


「強く空いたら?」


「戻る」


「疲れたら?」


「……戻る」


「無理なら?」


「やめる」


「塩をなめない」


「なめない!」


 ミナはうなずいた。完全に安心はしない。でも、行かせるなら今日だった。


 バルドとガルムも来ていた。


 トマは古い布を細く裂いて、リィナが袋を抱えやすいように紐を作っている。塩袋がどのくらいの大きさか分からないので、長さは少し余らせてあった。


 キキは木札の外で、リィナの羽とミナの手元を交互に見ている。炭焼き跡の大人ゴブリンたちも、何かあると分かるのか、朝の作業を少しゆっくりにしていた。


「今日はラダーナまで。トレオへは行かない」


 リィナは鼻を鳴らした。


「トレオは遠いって分かってるし」


「塩は一袋だけ」


「分かってる」


「残りを見ても、欲張らない」


「欲張らない」


「ラダーナの人の言うことを聞く」


「聞く」


「商人さんについて行かない」


「行かない」


「塩袋を開けない」


「開けない」


「なめない」


「だから、なめない!」


 ルシェラが森番小屋の戸口に立ち、愉快そうに腕を組んだ。


「空の者が塩を抱き、隣村より戻るか。食と冬を結ぶ羽よ」


「怖い人が言うと、袋が重くなる」


 リィナは羽を少しすぼめた。


 ミナもすぐ続けた。


「結ばない。今日は一袋だけ」


「一袋から始まるものもある」


「始めない。見るだけ」


 トマが布紐を結びながら、声を落とした。


「見るだけで済んだこと、あんまりないけどな」


 ミナは聞こえなかったふりをした。


 リィナは布紐を受け取り、胸元にかける練習をした。手紙や小袋の時とは違う。今度はラダーナで実物に合わせて結ぶことになる。ミナは最後にリィナの羽の付け根と足先を見て、息を吐いた。


「行って、受け取って、一袋だけ持って戻る。戻るまでが仕事。戻ったら食べる」


「そこ大事」


「でも、疲れてたら先に羽を見る」


「そこは大事じゃない」


「大事」


 リィナは不満そうにしたが、羽を広げた。朝の風が軽く動く。


「行ってくる!」


 地面を蹴り、薪小屋の屋根を越え、村道の方へ上がっていく。手紙の時より少し低く飛び出したのは、たぶん体力を残すためだった。本人がそれを考えているかどうかは分からないが、ミナはその飛び方を見た。


「少し、覚えてる」


「だといいがな」


 ガルムの目は、まだ空に向いていた。


「帰りが本番だ」



 ラダーナ村の広場には、すでにトレオの商人の荷車があった。


 塩の中袋は布で巻かれ、縄で口を縛られて、荷台の端に積まれている。三十という数は、並ぶとそれなりに多い。ラダーナ村の者たちは、全部が自分たちのものではないと分かっていて、少し複雑な顔をしていた。冬前の塩は、見るだけで安心し、同時に足りない気持ちになる。


 商人は荷台の横で、ラダーナの年長の男に帳面を見せていた。


「頼まれた分はそろえましたよ。中袋三十。値はこの前の通りで」


「助かった」


「こちらも商売ですから。それで、ミストル村の分はどう運ぶんです? 灰石橋は、やはり荷車では無理でしょう」


 年長の男が答える前に、広場の子どもが空を指差した。


「来た!」


 商人はつられて空を見上げた。


 羽が見えた。


 鳥ではない。人の上半身に、羽。痩せた若いハーピーが、村道の上を外れないように飛んでくる。広場の端に降りる時、一度羽で風を抑え、足先を地面につけた。前に来た時より、少しだけ慣れている。


「ふー」


 リィナは息を吐いて、それから胸を張った。


「塩、取りに来た!」


 商人の口が、半分開いたまま止まった。


「……ハーピーが?」


「そう。ミストルから。今日は一袋だけ。なめない。開けない。落とさない。戻るまでが仕事。戻ったらご飯」


「情報が多いな」


 商人の手が、帳面の上で止まった。


 ラダーナの年長の男は、少し疲れたような顔でうなずく。


「その娘だ。手紙を持ってきたハーピーでもある」


「ああ、塩を急かしたという、あの」


「急かしてない! ちゃんと言っただけ!」


 リィナの羽が立つ。


「ミナが塩ないって言ってたから、何とかしてって言ったの!」


 商人は年長の男を見る。


 年長の男は、目をそらした。


「まあ、そういうことだ」


 商人は荷台の塩袋を見て、それからリィナを見た。商売として考えれば、塩を買う客が増えるのは悪くない話だ。けれど、空からハーピーが来て一袋ずつ運ぶとなると、商売だけではない匂いがする。怖い。だが、面白い。儲かるかもしれない。少なくとも、トレオに戻れば話になる。


「一袋だけ、でしたね」


「一袋だけだ」


 年長の男は、荷台の塩袋を指先で示した。


「残りはラダーナで預かる。ミストルへ一気に渡すわけではない。あちらの森番の娘も、そう言っている」


「ミナはね、見るのが多いから」


 リィナは、指を折るように羽先を動かした。


「風を見る。お腹を見る。羽を見る。塩を見る。ご飯を見る」


「最後は違うのでは」


「大事」


 リィナは真面目だった。


 ラダーナの者たちは、荷台から中袋を一つ下ろした。両手で抱えられる大きさではある。大人の男なら運べる。けれど、痩せたリィナが抱えるには、見た目よりずっと重そうだった。


 布の口はしっかり結ばれている。湿らないよう、外側にもう一枚古布が巻かれていた。


 リィナは得意そうに手を出した。


「余裕」


 袋が腕に乗った瞬間、リィナの羽が止まった。


「……」


 商人が小さく笑いそうになり、こらえた。年長の男も、顔には出さないようにした。


「重いか」


「重くない」


 リィナは袋を抱え直し、すぐに胸を張ろうとした。


「ちょっと、塩がたくさん入ってるだけ」


「それを重いと言う」


「言わない」


 ラダーナの女が布紐を持ち、リィナの腕と胸元へ慎重に回した。羽の動きを邪魔しないように、だが袋が落ちないように。リィナはむすっとしていたが、今度は勝手に動かなかった。袋が少し揺れるだけで、体の重さが変わるのが分かったからだ。


「無理なら置いていけ」


 年長の男の視線が、リィナの羽と塩袋の間を行き来した。


「一度に運べぬなら、それでもよい。残りはこちらで預かる」


「運ぶし」


「落とすなよ」


「落とさない」


「開けるなよ」


「開けない」


 商人がつい口を挟んだ。


「なめるなよ」


 リィナがぎろりと見た。


「なめない!」


「言われているんですね」


「言われてるけど、なめない!」


 ラダーナの者たちは、少しだけ笑った。怖さが消えたわけではない。ハーピーが塩袋を抱えている光景は、やはり普通ではない。それでも、袋の重さに固まり、なめないと言い張るリィナは、前に「塩よ!」と叫んだ時より、少しだけ分かりやすかった。


 リィナは羽を広げた。


 いつもより、少しゆっくり。


 地面を蹴る。


 体が浮いた。


 浮いたが、すぐにいつもの高さには上がらなかった。塩袋が胸元でぐっと重く、羽の動きを引っ張る。リィナは一度足先を地面に戻しかけ、歯を食いしばり、もう一度羽を打った。


 今度は上がった。


 広場の端を越え、屋根の上へ出る。


「行ける!」


 声はいつもより少し高かった。


 商人は、その姿を見上げていた。


 ハーピーが、塩を持って飛んでいる。


 ラダーナ村の広場から、ミストル村へ。


 灰石橋を渡らずに。


「これは……」


 商人は帳面を閉じる。


「話になりますね」


 年長の男の顔が、すぐ商人へ向いた。


「大げさに言うな」


「商人は見たものを話すだけですよ」


「なら、見たままにしろ。ラダーナが塩を預かり、ミストルのハーピーが一袋だけ運んだ。それだけだ」


 商人はにこりと笑った。


「ええ。それだけです」


 商人の笑い方を、年長の男はあまり信用しなかった。



 塩袋は重かった。


 リィナはラダーナ村を離れてすぐ、それを認めかけた。認めかけただけで、まだ認めてはいない。認めたら、地面に落ちそうな気がしたからだ。


 手紙は軽かった。木片と小石の小袋も、まだ軽かった。けれど塩の中袋は、抱えたまま飛ぶと、体の真ん中にずっと石がぶら下がっているようだった。風が横から来ると袋が少し遅れて揺れ、そのたびに羽の角度を直さなければならない。高く上がれば楽になる気もしたが、高く上がるまでがしんどい。


「重くない」


 リィナは誰もいない空へ向かって、わざと声に出した。


 少し進む。


「重くない」


 もう少し進む。


「……しんどい」


 言ってしまった。


 誰も聞いていない。だから、まだ負けではない。


 村道は下に続いている。ラダーナの畑が遠ざかり、低い丘を越え、古い標識のある方へ向かう。赤い実が見えた。寄らない。鳥が飛んだ。追わない。塩袋が胸元でずれる。慌てて抱え直す。


「開けない。なめない。落とさない。戻るまでが仕事」


 言うたび、少しミナの声に似た。


 今はそれでよかった。ミナの声に似ていると、落とさずにいられる気がした。


 標識の先で、風が変わった。前にも知っている場所だ。横から来る風。草地が開けて、羽の先が持っていかれるところ。手紙なら少し直すだけで済んだ。小袋なら抱え直せばよかった。


 塩袋は違う。


「うわ」


 リィナの体が少し斜めになる。塩袋が反対側へ引っ張る。羽を強く打つと、肩がきしむように痛い。痛いというほどではない。痛いと言ったら、ミナに飛ばせてもらえなくなる。だから痛くはない。ただ、塩がちゃんと入っているだけだ。たぶん。


「しんどいー!」


 今度は大きな声になった。


 下に誰もいないから、やっぱり負けではない。


 それでも、落とさない。


 道を見失わない。


 森の上へは入らない。


 灰石橋のあたりが遠くに見えた。細い古い橋だ。空から見ると、石の線みたいに見える。あれを荷馬車が渡れないから、自分が塩を持っている。そう思うと、少しだけ胸が張れた。


 少しだけだ。


 袋が重いから、胸を張りすぎると落ちる。


 ミストル村が見えた時、リィナは本当にほっとした。森番小屋。薪小屋。水路。炭焼き跡。木札。いつもの場所が、今日はいつもより近くあってほしかった。実際には、なかなか近づかない。


 下で誰かが空を見上げた。


 ミナだ。


 リィナは格好よく降りることを、最初からあきらめた。塩袋を抱えたまま、ゆっくり高度を落とす。薪小屋の前ではなく、少し広い地面を選ぶ。足先が土についた瞬間、体が前へ持っていかれた。


 一歩。


 二歩。


 三歩目で、ミナが支えた。


「戻った」


 リィナの声は大きくなかった。


「戻ったね」


 ミナはまず袋を支えた。次にリィナの腕を見た。羽を見る。足を見る。顔を見る。


「落としてない」


「うん」


「開けてない」


「うん」


「なめてない」


「うん」


「しんどくない」


「今、しんどそう」


「……ちょっとだけ」


 ミナはそれ以上言わせず、トマを呼んだ。トマとガルムが塩袋を受け取る。男二人で持てば、たいしたことはない。けれど、リィナが抱えて空を飛ぶには十分重かった。


「これを持って飛んだのか」


 トマの目が、受け取った塩袋とリィナの羽を行き来した。


 リィナは胸を張ろうとして、少しだけ失敗した。


「すごいハーピーだから」


「今日は、まあ、すごい」


「もっと褒めていいところ」


「ちゃんと戻ったのは偉い」


 リィナは少しだけ目を丸くした。


「ほんと?」


「うん。でも、今日はもう飛ばない」


「えー」


「羽が下がってる。腕も固い。息も荒い」


「見すぎ」


「見るよ」


 バルドが塩袋の口を確認した。布は破れていない。湿ってもいない。縄も緩んでいない。塩の粒が漏れていないのを見て、村長の顔がほんの少しだけ緩む。


「無事じゃな」


 その一言で、周りにいた村人たちの息が少し抜けた。


 塩袋は村人に預けられ、その一部は森番小屋へ分けられた。ミナは棚の軽い塩壺を下ろし、分けてもらった塩の袋を開ける前に手を洗った。リィナが横からのぞこうとするので、トマがそっと肩を押さえる。


「見るだけ」


「なめないし」


「顔が近い」


「匂いだけ」


「それが危ない」


 ミナは袋の口を少しだけ開けた。


 白い塩が見えた。


 たくさんではない。村全体の冬を丸ごと安心させる量ではない。干し肉も漬物も、全部好きなだけ作れる量ではない。それでも、壺の底で音だけしていた昨日より、ずっと違う。


 ミナは木の匙で塩をすくい、壺へ移した。


 さら。


 昨日より、大きな音がした。


 もう一匙。


 さら。


 塩壺が少しずつ重くなる。ミナは持ち上げ、両手で確かめた。まだ軽い。けれど、昨日とは違う。底だけではない重さが、壺の中にある。


「重い」


 リィナの目は、塩壺に向いていた。


「袋が?」


「壺が」


「うん。少し重くなった」


 ミナは蓋を閉めた。


「でも、これで安心じゃない。大事に使う。干し肉も全部は無理。漬物も少しずつ。リィナのご飯も、今日だけ増やす」


「今日だけ!?」


「今日は塩袋を運んだから」


「じゃあ明日も運べば」


「明日の風を見る。羽を見る。お腹を見る。今日の疲れを見る」


「また見る!」


「それに、今日はもう飛ばない」


 リィナは不満そうにしたが、椅子代わりの切り株に腰を下ろすと、すぐに羽の先が下がった。本人が思うより、体は正直だった。


 バルドは中袋の残りを見て、眉間にしわを寄せた。


「これで全部ではないのだな」


「ラダーナに残りがあるって」


 トマは中袋の方へ目をやった。


「三十袋くらいって話だったから、残りは二十九か」


 リィナの動きが止まった。


「……二十九?」


「今日一袋持ってきたからな」


「二十九、残ってるの?」


「全部うちのものじゃないかもしれないし、日に分けてだろうけど」


 リィナは塩袋を見た。


 それから、自分の腕を見た。


 羽を見た。


「二十九……」


 ミナはリィナの羽が動く前に口を開いた。


「一日に何回も飛ばない」


「言われる前に分かったし」


「明日も飛べるとは限らない」


「それも、ちょっと分かったし」


「疲れたら休む」


「分かったってば」


 リィナはむすっとしたが、さっきより反論の勢いはない。


 ルシェラは塩壺を見て、満足そうに目を細めた。


「塩が入った。冬の命が少し戻ったな」


「少しね」


 ミナは塩壺の蓋に手を置いたまま、すぐに戻した。


「全部じゃない」


「空の者に役ができ、隣村に塩が積まれ、商人がそれを見る。よい」


「よくない。リィナは疲れてる。塩はまだ足りない。橋は危ないまま」


「だからこそ、よい」


「大きくしないで」


 リィナは切り株の上で、疲れた顔のままうなずいた。


「怖い人、塩より話を重くする」


「リィナは塩を軽く見すぎ」


 リィナの羽が、すぐに少し立った。


「今は見てない! ちゃんと重かった!」


「うん。ちゃんと重かったね」


「そこは褒めるところ?」


「重さが分かったのは、いい」


「褒め方が重い」


 トマが笑いかけて、塩袋を見てから、少し真面目な顔に戻った。


「でも、助かったな。これで肉を少しは残せる」


「うん。全部は無理。でも少しは」


「漬物も少し増やせるか」


「根菜を見てから」


「また見る」


「見るよ」


 ミナは塩壺を棚へ戻した。昨日より、置いた時の音が少しだけ低い。


 それだけで、村の中の空気が少し変わった。


 塩がある。


 たくさんではない。


 でも、ある。


 木札の外で、キキが小さく手を動かした。


「リィナ、戻る」


「戻ったよ」


「塩、戻る」


「塩も戻った」


「仕事、食べる」


「食べる!」


 リィナの返事だけ、急に元気になった。


 ミナは朝より少し濃い汁を用意した。麦を少し、根菜の端を少し、黒パンの欠片を一つ。それから、肉の端を昨日よりほんの少し大きく入れる。塩は入れすぎない。新しく来たからといって、使い方を急に変えるわけにはいかなかった。


 薪小屋の前の石に椀を置くと、リィナはすぐ手を伸ばしかけて、少しだけ止まった。


「食べていい?」


「うん。塩袋を落とさず戻った分」


「なめなかった分も?」


「それも」


「開けなかった分も?」


「それも」


「しんどいって言った分は?」


「大事」


 リィナは椀を抱えた。


「じゃあ、しんどかった」


「今日はもう飛ばない」


「言わなきゃよかった」


「言わないと次は飛ばせない」


「むー」


 それでもリィナは汁を飲んだ。いつもよりゆっくりだった。塩袋を持った腕が疲れているのか、椀を持ち替える時に羽が小さく揺れる。ミナはそれを見た。


 見るものは増えた。


 塩壺。


 リィナの羽。


 明日の風。


 灰石橋。


 今日の椀。


 ミナは、どれも一度には片づかないことを知っていた。



 ラダーナ村では、商人が荷車の積み直しをしていた。


 塩の中袋は、まだ二十九袋残っている。全部がすぐミストル村へ行くわけではない。ラダーナで預かり、日を分け、風を見て、リィナが運べる時に一袋ずつ動く。それだけの話だと、年長の男は何度も念を押していた。


 商人は縄を締めながら、素直そうにうなずいた。


「ええ。一袋ずつ。無理はさせない。灰石橋が危ないから、空から持っていく。分かっています」


「分かっているならよい」


「ただ、珍しい話ではありますね」


「珍しいだけだ」


「もちろん」


 商人の口元には、商売人らしい笑みが残っていた。


 荷車の縄を締めながら、空を一度見上げる。もうハーピーの姿はない。だが、商人の頭の中では、あの痩せた羽が塩袋を抱えて飛ぶ姿が、まだはっきり残っていた。


 トレオへ戻れば、商人宿がある。馬車置き場がある。小さな礼拝所も、冒険者が集まる酒場もある。冬前の塩の話はどこにでもある。けれど、塩をハーピーが取りに来た話は、どこにでもあるものではない。


 魔狼。


 ゴブリン。


 ハーピー。


 ラダーナに積まれた塩。


 灰石橋を越えず、空で運ばれる袋。


 商人は荷台の端を叩いて、馬を進ませた。


 塩袋は重い。


 噂は、羽より軽い。


 ラダーナ村の年長の男は、その背中を見送りながら、嫌な予感に眉を寄せた。


 商人の荷車は、ゆっくりとトレオの方へ向かっていった。


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