第31話 ラダーナ村に届いた手紙
第1部:辺境領と教会編
第6章:ハーピー便と広がる噂
塩壺は、やっぱり軽かった。
ミナは森番小屋の棚から塩壺を下ろし、両手で持ったまま、しばらく黙っていた。
重さは分かっている。
昨日も軽かったし、その前も軽かった。
でも、分かっていることと、持って確かめることは少し違う。
壺の底に指を入れると、ざらりとした塩の粒がほんの少しついた。それを親指でこすって、ミナは小さく息を吐く。
「少ない」
「また塩か」
炉のそばで、ルシェラが椀から顔を上げた。
朝の薄い汁を飲んだ後なのに、もう肉干し場の方を見ている。
「また塩だよ」
ミナは壺を傾けた。
中で、さら、と小さな音がする。
音が小さい。
それが一番困る。
森側からロウたちが置いていく肉は助かる。大人ゴブリンたちが柵を直し、道具置き場を整えるたび、食べ物を出す。リィナにも働いた分は出す。村の干し肉も、冬の粥に入れる切れ端も、少しずつ残したい。
肉はある。
でも、塩がないと長く残せない。
根菜も漬けられない。魚が手に入っても長くもたない。骨を煮た汁だけでは、冬の味がどんどん薄くなる。
「小袋でもいいんだけど」
その小さな声に、戸口の外で羽が動いた。
リィナが薪小屋の入口から顔を出していた。
「小袋?」
「リィナには関係ないよ」
「でも、小袋って言った」
「言ったけど、違うよ」
「なんでよ!」
リィナは不満そうに羽をふくらませた。
昨日の疲れは残っていないように見える。羽の動きも悪くない。けれど、まだ朝から飛ばせていいとは言えない。
ミナは塩壺を棚へ戻す。
軽い音がした。
「バルドさんのところへ行く」
「塩?」
「塩の相談」
「相談すると塩が出るの?」
「出ない。だから相談する」
「難しい」
「難しいよ」
ミナが森番小屋を出ると、リィナも薪小屋から出てきた。飛ばずに歩く。そこは、昨日より少し覚えたらしい。
村へ下りる道の途中で、トマと合流した。
トマは古い縄を肩にかけ、手には小さな木札を何枚か持っている。標識の残りを直しに行くつもりだったのだろう。
「塩の顔してるな」
「顔に出てる?」
「出てる。最近、塩壺持ち上げた後はだいたい同じ顔だ」
「そんなに塩、ないの?」
リィナが横から塩壺の方をのぞき込む。
「ない」
ミナは、さっき棚に戻した塩壺の軽い音を思い出した。
「少しはある。でも少ない」
「それ、ないってことじゃん」
「全部ないわけじゃない」
「少ないのは困る?」
「困る」
「じゃあ、ないってことでいいんじゃないの?」
「よくない」
トマが少し笑った。
「ミナ、そこは細かいんだよな」
「冬の塩は細かく見るところ」
「それはそう」
*
村長の家では、バルドが古い机の前に座っていた。
机の上には、紙と木簡と、細く削った筆がある。ラダーナ村へ出す手紙の文面を考えるなら、村長の家が一番落ち着く。落ち着いているだけで、暖かいわけではない。
バルドはミナから話を聞き、眉間のしわを深くした。
「塩か」
「うん」
「ラダーナも余ってはおらんぞ」
「分かってる。だから、余っていれば少し。無理なら、どこへ聞けばいいかだけでも」
「小袋でも助かるって書ける?」
リィナが机の上の紙へ身を乗り出す。
バルドの視線がリィナへ向く。
「お前は手紙の文面を決めんでよい」
「でも小袋って言ってた」
「ミナが言ったからといって、そのまま書けばよいものではない」
「どうして?」
「言い方を間違えると、要求に見える」
リィナは首を傾げた。
「要求って、だめなの?」
「だめだ」
バルドの声は重い。
「ラダーナ村にも冬がある。あちらにも子どもと老人がおる。こちらが困っているからといって、分けよ、とは書けん」
「分けよ、じゃない」
ミナは首を横に振った。
「余っていれば。余ってなければ、商人さんに聞けるかどうか」
「そうじゃ」
バルドは筆を持った。
「余っていれば、じゃ。分けよ、ではない。心当たりがあれば、でよい。小袋でも助かる、とは書く。だが、脅しているように読まれては困る」
トマがリィナを見た。
「空からハーピーが持っていく時点で、もう普通の手紙には見えないけどな」
バルドは黙った。
その沈黙が少し長い。
「……それは、分かっておる」
「じゃあ歩いて行く?」
ミナの視線が、村の外へ向いた。バルドの顔はさらに渋くなる。
「歩けば時間がかかる。行く者の手も空く。戻るまでに半日は消える。今は冬支度の手を減らしたくない」
「今日は手紙だけ。塩は持たせない。返事を聞いて戻るだけ」
「手紙だけか?」
トマの眉がすぐに上がった。
ミナは少しだけ目をそらした。
「……手紙だけ」
「今の間が怖いな」
リィナが胸を張る。
「手紙なら軽いし。ラダーナまで行けそうだったし。昨日も近くまで行ったし」
「行けそうと行けるは別」
ミナの目は、リィナの羽から離れない。
リィナはすぐむくれる。
「また別!」
「行けることと、戻れることも別」
「それももう聞いた!」
「だからもう一回言う」
バルドが手紙を書き始めた。
筆の音だけが、しばらく続いた。
ミストル村では冬支度の塩が不足していること。もし余裕があれば、少量でも分けてほしいこと。余裕がなければ、塩を扱う商人や、心当たりを知らせてほしいこと。大きな量ではなく、小袋ほどでも助かること。
こちらから出せるものがあれば、改めて相談したいこと。無理なら返事だけでもよいこと。
バルドは一文書くたび、少し止まり、読み直す。
「硬い」
リィナが紙の上をのぞき込む。
「硬くてよい」
「飛んでる途中で重くなりそう」
「紙は軽い」
「そういう重いじゃない」
ルシェラが、いつの間にか戸口に立っていた。
「王の言葉は、紙より重いものだ」
「王じゃない」
ミナは包みかけていた手紙から顔を上げた。
「塩の相談」
「空の者が塩を求めて隣村へ飛ぶ。食と冬を支える小袋は、兵糧にも等しい」
「小袋はまだ。今日は手紙だけ」
リィナは羽をすぼめる。
「怖い人が言うと、手紙が重くなるじゃん」
「手紙は軽い」
ミナは手紙を小さな布で包んだ。
「落とさないで」
「そっちの重いじゃない!」
トマが少し笑い、バルドは笑わなかった。
ガルムも呼ばれて来ていた。村の入口近くで空を見て、風を見て、それからリィナを見る。
「今日は風は弱い。雨もすぐには来ん」
「なら行ける」
リィナの羽が少し広がる。
ガルムの目は、その羽から離れなかった。
「だが、帰りに腹が減る。途中で寄るな。知らん人について行くな。塩を渡されても勝手に受け取るな」
「多い!」
「手紙を渡す。返事を聞く。戻る。これだけだ」
「これだけって言ったのに多い!」
ミナはリィナの羽を見た。
「羽は痛くない?」
「痛くない」
「頭は?」
「小石の話はもうしない」
「痛くない?」
「痛くない」
「お腹は?」
リィナは少しだけ黙った。
「空いてる」
「空きすぎ?」
「普通に空いてる」
「普通ってどのくらい」
「飛べるくらい」
「戻れるくらい?」
リィナは少し考えた。
「……戻れるくらい」
「じゃあ行ける。けど、途中で強く空いたら戻る」
「ラダーナまで行くんでしょ?」
「無理なら戻る」
「むー」
「戻るまでが仕事」
リィナは不満そうにしながらも、小さく口を動かした。
「戻るまでが仕事」
「手紙は開けない」
「開けない」
「中身は見ない」
「見ない」
「ラダーナ村で渡す」
「渡す」
「返事を聞く」
「聞く」
「トレオ方面へ行かない」
「行かない」
「知らない人について行かない」
「行かない」
「塩を持たされても、勝手に受け取らない」
「え、塩なのに?」
「勝手にはだめ」
「むー!」
バルドの低い声が、机の向こうから落ちた。
「今日は手紙だけじゃ」
「分かったってば」
リィナは布包みを受け取った。
胸元に抱え、羽を少し広げた。
「ラダーナまで。戻るまで。返事まで。ご飯まで」
「ご飯は戻ってから」
「そこ大事!」
村長の家の横から飛び立つと、朝の空気が少し動いた。
リィナは村の屋根の上を越え、村道の方へ向かう。
下では、キキが木札の外から見上げている。
「リィナ、空」
炭焼き跡では、大人ゴブリンたちが作業の手を止めて空を見る。水路では、ぷるが二つ小さく沈んだ。森側でロウの耳が動き、金色の目が少しだけ空を追った。
リィナは少し得意だった。
標識までは余裕。その先も、行ったことがある。
今日は、その向こうだ。
手紙は軽い。
小袋よりずっと軽い。木片も小石も入っていない。ただ、ミナとバルドが何度も言っていたから、触ると少し緊張する。
「手紙は軽い」
リィナは胸元の布包みを抱え直した。
「でも、落としたらご飯が遠くなる」
それは困る。
村道の上を飛ぶ。森の上へは入らない。古い標識が見える。昨日直した縄が、朝の光で少しだけ明るく見えた。
標識を越えると、風が変わる。
リィナは羽の角度を少し直した。
「知ってる。ここ、風が横から来る」
言ってから、少し得意になる。
覚えている。ちゃんと覚えている。
道はラダーナの方へ伸びていた。低い丘の向こう、畑らしい色と、細い煙が見えてくる。
途中で赤い実も見えた。
鳥も飛んだ。
でも、寄らない。手紙を抱え直す。
「戻るまでが仕事」
何度かそう言ううちに、少しミナの声に似てきた気がして嫌だった。けれど、言うと手紙を落とさずに済む。
ラダーナ村が近づくにつれ、家の屋根がはっきりしてきた。
ミストル村より少し大きい。道も広い。畑も広い。けれど、冬前の村はどこも同じように忙しい。薪が積まれ、干し場に布が出て、子どもが何かを抱えて走っている。
その子どもが、空を見上げた。
口を開ける。
次に、近くの女が見上げる。
さらに男が見上げる。
リィナは少し迷って、村の広場の端に降りることにした。
真ん中に降りると怖がらせそうだし、畑に降りると怒られそうだったからだ。
足先が地面につく。
一歩、二歩。
転ばない。
「ふー」
思ったより、ちゃんと距離があった。
でも着いた。
リィナは胸を張ろうとして、村人たちが固まっていることに気づいた。
「……ハーピー?」
人垣の中で、誰かの声がこぼれた。
「空から?」
「どこから来た」
「ミストル」
リィナは手紙を胸元に抱え直した。
その一言で、空気が変わった。
ミストル。
村人たちの視線が、さらに慎重になる。
「ミストル村から?」
「手紙」
「手紙……?」
リィナは布包みを少し持ち上げた。
「開けてないよ。中身も見てない。ミナに言われたから」
「ミナ……」
「戻って報告するから、返事ちょうだい」
「戻って、報告……」
ラダーナ村の年長の男が、人垣の奥から出てきた。村長なのか、村長に近い立場なのか、周りが少し場所を空ける。
その後ろには、前にミストル村へ来たことがあるらしい使いの男もいた。彼はリィナを見て、さらに顔をこわばらせた。
「ミストルの……森番の娘からか」
「たぶん。バルドって人が書いてた。ミナもいた」
「バルド殿からか」
年長の男は慎重に手紙を受け取った。
受け取る時、リィナの羽に触れないよう、かなり気をつけていた。
リィナはそれを見て、少しだけ誇らしくなる。怖がられている気もするが、ちゃんと手紙は渡せた。
年長の男は布を解き、手紙を開く。
周りの者たちが息を詰める。
しばらく、紙の音だけがした。
「……要求ではない」
年長の男の声が、紙の上に落ちた。
周りの何人かが、ほっとしたように息を吐く。
「相談だ。冬支度の塩が足りぬらしい。余裕があれば、少量でも分けてほしい。余裕がなければ、塩を扱う商人か、心当たりだけでも知らせてほしい、と」
「塩……」
人垣のどこかで、息と一緒にその言葉が漏れた。
その瞬間、リィナの羽がぴんと立つ。
「塩でしょ!」
村人たちがびくっとする。
リィナは前へ一歩出る。
「ミナ、塩ないって言ってた! 塩がないと困るんでしょ。干し肉がどうとか、漬物がどうとか、冬がどうとか!」
「いや、手紙には相談と」
「相談でも塩でしょ!」
「こちらにも事情がある」
「だから、何とかしてよ!」
リィナは必死だった。
嘘は言っていない。
ミナは確かに塩がないと言っていた。軽い壺を持って、困った顔をしていた。肉はあるのに塩がないと、何度も言っていた。
それに、ちゃんと返事を持って帰らないといけない。
戻るまでが仕事だ。
戻ったらご飯だ。
「小袋でもいいんじゃないの?」
「小袋でも、今はな……」
「今はないの!?」
「落ち着け、ハーピーの娘」
「落ち着いてる!」
「羽が全部立っておる」
リィナは羽を見た。
立っていた。
少しだけ下げる。
「だって、ちゃんと返事持って帰らないと、ご飯が」
ラダーナの男たちが一斉に黙った。
リィナは慌てて言い直した。
「じゃなくて、ミナが困る!」
年長の男が、ゆっくり目を細めた。
「今、ご飯と言ったな」
「大事!」
リィナは胸を張った。
「働いたら食べていいの。だから、ちゃんと返事ちょうだい」
「……ミストル村は、ハーピーに食事を出して働かせているのか」
「盗らないで食べる方がいいって、ミナが言った」
「盗らないで?」
「うん。盗らない。今は」
「今は、と言ったぞ」
「言葉のあや!」
前にミストル村へ行った使いの男が、年長の男の耳元で何かを言う。
ゴブリンの柵。
魔狼。
異様な圧を放つ女。
森番の娘。
リィナには細かく聞こえなかったが、いくつかの言葉だけは拾えた。
「圧って、怖い人のこと?」
リィナが顔を向けると、使いの男の肩が跳ねた。
「いるのか」
「いるよ。薪小屋の横で見張ってる」
「見張っている……」
「でも、鍋洗いは逃げる」
ラダーナ村の人々は、どう反応していいか分からない顔になった。
年長の男は手紙をもう一度見た。
丁寧な文面だった。
しかし、持ってきたのは空から来たハーピーで、そのハーピーは塩を急かしている。
「今すぐ分ける余裕はない」
年長の男は、ようやく手紙を下ろした。
リィナの羽がまた立つ。
「ないの!?」
「最後まで聞け」
「聞く!」
「近く、トレオから商人が来る予定がある。その者に掛け合う。小袋ほどなら、どうにか探せるかもしれん」
「かもしれない?」
「確約はできん。こちらにも冬支度がある」
「でも探す?」
「探す」
「商人に聞く?」
「聞く」
「小袋なら?」
「どうにかできるかもしれん」
「前向き?」
年長の男は少しだけ疲れた顔をした。
「前向きに何とかすると伝えてくれ」
リィナの顔が真剣になる。
「今すぐはない、商人に聞く、小袋なら探す、前向き」
「……塩はまだない」
「最後を強く言うな」
「でも、ないんでしょ?」
「探すと言っている」
「じゃあ、探す!」
年長の男は、手紙の端に小さく返事を書き足し、別の小さな札を添えた。重くはない。リィナが持って戻るには十分軽い。
「これを持っていけ。返事は今言った通りだ。商人に聞く。少しでも手に入るか見る。手に入りそうなら知らせる」
「分かった。商人に聞く。少しでも見る。小袋。前向き。まだない」
「だから最後を強く言うな」
「分かった!」
リィナは返事を胸元にしまう。
手紙は開けない。
返事は聞いた。
ラダーナ村まで来た。
戻るまでが仕事。
「じゃあ戻る」
「もうか」
「戻らないと仕事が終わらない。あと、ご飯」
また何人かが黙った。
リィナは羽を広げる。
「ちゃんと伝えるから!」
地面を蹴ると、少しだけ足が重かった。
ラダーナまで来たぶん、体はちゃんと疲れている。でも飛べないほどではない。
空へ上がると、下でラダーナ村の人たちがずっと見上げていた。
リィナが見えなくなっても、しばらくそのままだった。
年長の男は、バルドの手紙をもう一度読む。
「文面だけなら、ただの相談だ」
使いの男の声は低かった。
「だが、持ってきたのがハーピーです。しかも塩を急かしていた」
「ミストル村は、本当に何を始めている」
「魔狼もいました。ゴブリンも。あの女も。今度は空のハーピーです」
別の男が腕を組む。
「断るというより、こちらも余裕がない」
「だが、無視もできん」
「トレオの商人に聞こう」
年長の男は手紙を折り直す。
「小袋くらいなら、関係を保つには安いかもしれん。こちらの冬支度を削りすぎぬ範囲で探せ」
「塩を押さえるのですか」
「押さえるというほどではない。聞くのだ」
少し沈黙が落ちる。
遠くで、鶏が鳴いた。
誰かの小さな声が、沈黙の中に落ちた。
「前向きに、と返したのですからな」
年長の男は、空の方を見た。
「なら、前向きにせねばなるまい」
*
リィナは帰り道で、何度も返事を繰り返した。
「今すぐはない。商人に聞く。小袋なら探す。前向き。まだない」
少し考える。
「最後は小さく言う」
羽が少し重い。行きより帰りの方が、お腹が空く。
赤い実が見えた。
寄らない。
小さな鳥が飛んだ。
追わない。
道はミストルへ続いている。
薪小屋が見えた時、リィナは少しほっとした。
森番小屋。薪小屋。水路。炭焼き跡。木札。
ミナが空を見ている。
リィナは少し格好よく降りようとして、羽が思ったより疲れていることに気づき、普通に降りた。
足先が地面につく。
一歩、二歩。
「戻った!」
声は大きい。
そのあとで、少しだけ息を吐く。
「ふー」
ミナはすぐ近づいた。
「戻ったね」
「戻った!」
「手紙は渡した?」
「渡した!」
「開けた?」
「開けてない!」
「中身は見た?」
「見てない!」
「ラダーナ村まで行った?」
「行った!」
「トレオ方面は?」
「行ってない!」
「疲れた?」
「疲れてない!」
「今、ふーって言った」
「ちょっとだけ!」
「羽、見せて」
「先に返事!」
「羽を見てから」
リィナは不満そうに羽を広げた。
痛めてはいない。けれど、羽の先は少し下がっている。ラダーナまでの往復は、標識の先までとは違う。
ミナは羽の先が下がっているのを見て、少しだけ息を吐いた。
「今日はもう飛ばない」
「えー」
「返事は?」
リィナは胸を張った。
「塩はね!」
「順番に」
「今すぐはない!」
バルドが額に手を当てた。
「やはりか」
「でも商人に聞く! 小袋なら探す! 前向き! まだない!」
「最後を強く言うなと言われなかったか」
トマの視線が横から刺さり、リィナはぎくりとした。
「言われた」
「言われたんだな」
「でも、ないんだもん」
バルドは返書を受け取り、読み直す。
「……近くトレオの商人が来る。塩について聞く。少量なら何とかできるかもしれん。手に入りそうなら知らせる。たしかに、そう書いてある」
ミナはほっとした。
塩はまだ来ていない。壺は軽いまま。
でも、聞いてくれる。
それだけでも、昨日より少し違う。
「今すぐは無理なんだね」
「でも、探してくれるって」
リィナの胸が、少し得意そうに反った。
「あたし、ちゃんと言った。塩よ、何とかしてよって!」
バルドの顔が止まった。
「何を言った?」
「塩よ、何とかしてよって!」
「……文面を整えた意味が」
トマが空を見た。
「半分くらい空に飛んだな」
「でも手紙は渡したよ!」
「そこは偉い」
ミナはリィナを見た。
「次は、急かしすぎない」
「塩がないんでしょ?」
「ない。でも、相手にもない時はある」
リィナは少し考えた。
「じゃあ、探してもらう」
「うん。探してもらう」
「前向きに」
「うん」
ルシェラが満足そうに笑う。
「隣村が、空より王の求めに応じるか」
「商人に聞いてくれるだけ」
ミナはすぐに塩壺へ視線を戻した。
「王じゃない。塩の相談」
「相談で隣村が動く。よいではないか」
「動くっていうか、聞いてくれる」
「同じだ」
「違う」
リィナが横から顔を出す。
「怖い人、また大きくした」
「うん」
「ミナ、また小さくした」
「塩壺が小さいからね」
「それは本当に困るやつ」
ミナは森番小屋へ戻り、朝より少し濃い汁を木椀によそった。麦を少し。根菜の端を少し。黒パンの欠片をひとつ。それから、肉の端を本当に小さく入れる。
薪小屋の前の石に置く。
「ラダーナから戻った分」
リィナの目が丸くなった。
「肉」
「少し」
「ラダーナ分?」
「戻った分。開けなかった分。返事を聞いた分。疲れてるって言えたら、次も考えられる分」
リィナは椀を抱えたまま考えた。
「疲れてるって言ったら増える?」
「増えない」
「えー」
「でも、言わないと次は飛ばせない」
リィナはむむ、と唸った。
「じゃあ、ふーくらい疲れた」
「今日はもう飛ばない」
「えー」
「戻るまでが仕事。休むのも仕事」
「休んで食べるのは得意」
「それは助かる」
リィナは汁を飲み始める。
いつもより少しだけゆっくり。
肉の端を見つけると、明らかに機嫌がよくなった。
バルドは返書を見ている。
トマは空を見ている。
ガルムはリィナの羽を見ている。
木札の外で、キキが小さく首をかしげた。
「リィナ、戻る」
「戻ったよ」
「手紙、戻る」
「返事、もらったよ」
「仕事、食べる」
「食べてる」
大人ゴブリンたちは、炭焼き跡からその様子を見ていた。
空へ行き、戻り、返事を持ち、食べ物をもらう。またひとつ、ここで暮らすための順番が増えていく。
ミナは塩壺をもう一度持った。
軽い。まだ軽い。
でも、ラダーナ村へ手紙は届いた。返事も戻った。
塩はまだ来ていない。それでも、トレオから来る商人に聞いてくれるらしい。小袋なら、何とかなるかもしれない。
「まだ、来たわけじゃない」
ミナは壺の蓋を閉めた。
「でも、聞いてくれるなら助かる」
リィナは椀を抱えたまま、得意そうに胸を張った。
「前向きだって」
バルドは深く息を吐いた。
「その言葉だけが、少し怖い」
トマも空の方へ目をやった。
「ラダーナの人、だいぶ怖かったんじゃないか」
リィナは口を尖らせた。
「あたし、ちゃんと手紙渡したよ。中身も見てないし。塩の話は聞こえたから、急かしたけど」
「そこじゃ」
バルドの眉間のしわが深くなる。
ミナは塩壺を棚へ戻す。
「次は、急かしすぎない」
「塩がないんでしょ?」
「ない。でも、相手にもない時はある」
「じゃあ、探してもらう」
「うん。探してもらう」
リィナは少し納得したような、まだ納得していないような顔をした。
それから、椀の中を見下ろす。
「おかわりは?」
「ないよ」
「まだ言ってない!」
「顔が言ってた」
トマが遠い目をする。
「顔を見るやつ、うつってるな」
「便利だから」
「そこなんだよなあ」
空の仕事は、今日も薄い汁で終わった。
塩はまだない。でも、明日は風を見る。ラダーナからの知らせも、少しだけ待つ。
ミナは棚の上の軽い塩壺を見て、それからリィナの空の椀を見た。
まずは、椀を洗うところからだった。




