第30話 近くまでなら飛べる
第1部:辺境領と教会編
第6章:ハーピー便と広がる噂
薪小屋の入口で、リィナは朝から胸を張っていた。いつもより少しだけ、羽も大きく見える。
寒いからふくらんでいるのではない、と本人は言い張った。寒いなら寒いで毛布を使えばいいのに、今朝はきれいにたたんだ古い毛布の上に座っている。
たぶん、昨日の仕事をまだ引きずっている。
ミナが水桶を持って近づくと、リィナは待っていたように顔を上げた。
「おはよう」
「おはよう。すごいハーピーだよ」
「うん、リィナだね」
「すごい、が抜けてる」
「お腹は?」
「そこから?」
「そこから」
リィナは少し不満そうに羽を揺らした。
「昨日、ちゃんと届けたし」
「うん」
「戻ってきたし」
「うん」
「中身も見てないし」
「うん」
「落としてないし」
「うん」
「干し肉の匂いにも勝ったし」
「寄らなかったのはえらい」
「ほら、すごい」
「お腹は?」
「ミナ、褒めるところ雑!」
「お腹」
「……空いてる」
リィナは正直に言って、すぐ付け足した。
「約束破ってない!」
「うん。そこはえらい」
「そこは、って言い方」
「頭は?」
リィナは、たんこぶのあったあたりに触れた。
「もう小石のことは言わないで!」
「頭が痛いかどうか」
「痛くない」
「羽、広げて」
「広げるけど、目がこわい」
「近くで見ないと分からないからね」
リィナは渋々、羽を広げた。
昨日より動きはいい。蔓で巻かれた跡も、ほとんど消えている。足先で地面をつかむ力もある。羽の先を動かした時、顔をしかめる様子もなかった。
でも、ミナはすぐにはうなずかない。
「痛くはなさそう」
「でしょ」
「でも、昨日の帰りは少し遅かった」
「お腹が空いてたから」
「羽も下がってた」
「お腹が空いてたから」
「降りる時、少し跳ねた」
「それは地面が悪い」
村道側から歩いてきたトマが、挨拶より早く突っ込んできた。
「地面は悪くなかったぞ」
リィナは顔をしかめる。
「トマ、朝からミナみたいなこと言う」
「村が混乱しないようにってなると、だいたいこうなるんだよ」
「その言い方もミナっぽい」
「嫌な移り方だな」
トマは水桶の横で足を止めた。昨日、標識の縄を替えたせいで、手の甲に小さな擦り傷がある。
「標識くらいなら余裕だったんだろ?」
リィナはすぐ胸を張った。
「余裕。飛んだらすぐだったし。トマ、すごく驚いてたし」
「頭の上を飛ぶからだ」
「すごい登場だったから」
「標識が倒れかけた」
「倒れてない」
「倒れたら困る」
ミナも標識の方へ目を向けた。
「倒れたら困る」
「ほら、また二人で同じこと言う」
リィナは羽をふくらませた。それから、少しだけ空を見る。
「でも、標識の先も見えたよ。ラダーナの方。道が続いてて、空からなら近そうだった」
トマの顔が少し変わった。
ミナも、水桶から手を離す。
リィナはその反応に気づき、調子に乗った。
「ラダーナくらいなら行けるし。たぶん。トレオだって、休めば行けるかも。空からなら、道って細く見えるし」
「見えることと、行けることは別」
ミナは水桶の横で、リィナの羽と空を順に見た。
リィナはすぐ顔をしかめる。
「むー!」
「行けることと、戻れることは別」
「難しいこと言わないで!」
「荷物を持つと、また違う」
「まだ増えるの?」
「お腹が空いてる時もだめ。風が強い時もだめ。疲れを隠すのもだめ」
「多い!」
「多いよ」
トマも村道の先へ目を向けた。
「昨日の標識は近い方だしな。歩けばそれなりだけど、空からならすぐなんだろ。ラダーナは歩けばちゃんと遠い。トレオはもっと遠い」
「トマも難しいこと言わないで!」
「トレオはまだやめとけ」
「まだ何もしてない」
「顔がしてる」
「顔は自由」
「昨日も言ったな、それ」
バルドが村側から歩いてきた。
朝の冷え込みのせいか、いつもより肩掛けを深く巻いている。後ろにはガルム。さらに少し離れて、キキが森番小屋の戸口を見ながら立っていた。
「朝から何の話じゃ」
「リィナが、もっと遠くへ行けるかもしれないって」
バルドはすぐ渋い顔になった。
「また面倒が増えそうなことを」
「うん。だから見る」
「見るだけか?」
「……たぶん」
ガルムがリィナを見る。
「空は柵で囲めん。どこかへ行かれたら追えん」
リィナは少しだけ羽をたたんだ。
「戻るし」
「昨日は戻ったとしても、今日も戻るとは限らん」
「戻るってば」
「風を見ろ」
ガルムは空を見た。
朝の風は弱い。ただ、村道の先は畑と草地が切れ、横風が入りやすい。森の上とは違う風になる日がある。
ミナも空を見た。
雲は薄い。雨の匂いはない。強い風もない。
試すなら、悪くない日だ。
ミナは森番小屋の中へ戻り、古い布を一枚持ってきた。そこへ小さな木片を二つ、丸い小石を三つ、短い縄の切れ端を入れる。重すぎない。けれど空では、何も持っていない時と違うはずだ。
リィナがのぞき込む。
「小石」
「小さいの」
「この前、あたしを落としたやつの仲間?」
「頭には投げない」
キキがすぐ反応した。
「石、頭、だめ」
「うん。頭にはだめ」
ミナは小袋の結び目を押さえた。
「今日はこれを持って飛ぶ」
「中身、地味」
「地味でいい。なくしても大ごとにならないものにする」
「もっと信頼してよ!」
「まだだめ」
「落とさないよ!」
「……たぶん?」
リィナは少し目をそらした。
「……大丈夫だってば」
「だから今日は木片と小石」
「信頼が遠い」
「昨日よりは近くなってきてるよ」
「なら食べ物も近づけて」
「戻ってからね」
「出た」
ミナは小袋をリィナの腕にかけられるよう、細い輪を作る。昨日より少し重い。布が揺れると、羽に当たりそうだった。
「ここだと邪魔?」
「ちょっと」
「じゃあ、こっち」
「それなら平気」
「抱える?」
「抱えると羽が少し狭い」
「じゃあ腕にかける。落ちそうなら、戻って」
「落ちそうでも戻るの?」
「落としたら困る」
「中身、小石じゃん」
「落とさないかを見るんだから、中身は関係ないよ」
リィナは口を開けかけて、閉じた。
ルシェラが森番小屋の壁にもたれていた。いつの間に出てきたのか、腕を組んで楽しそうに見ている。
「空の者に、道を覚えさせるか」
「道じゃない。小袋を落とさないか見るだけ」
「王の声が届く境を測るのだな」
「声じゃない。木片と小石」
「ラダーナへ空の筋を通す。悪くない」
「今日はラダーナまで行かない」
リィナも顔をしかめた。
「空は誰のものでもないし。風のものだし。でも、あたしは飛べるし」
ルシェラは薄く笑う。
「ふむ、ならば飛んでみせよ、羽つき」
「その言い方やだ!」
「肉泥棒よりはよかろう」
「もっとやだ!」
ミナは小袋の結び目を、最後にもう一度引いた。
「行き先は、昨日の古い標識。その少し先。ラダーナ方面の道が見える曲がり角まで」
「ラダーナは?」
「行かない」
「見るだけ?」
「見るだけ」
「トレオは?」
「行かない」
「見てもだめ?」
「見てもいいけど、行かない」
「王都は?」
ミナとトマとバルドとガルムが、ほぼ同時にリィナを見た。
リィナはすぐ羽を小さくした。
「言ってみただけ」
「言ってみるのもだめだぞ」
トマの顔も真面目だった。
バルドも重くうなずく。
「王都など、話に出すな。わしの胃がもたん」
「胃、よく出てくるね」
「お前らのせいじゃ」
ミナは条件をひとつずつ指で数えた。
「道の上を飛ぶ。森の上へ入らない。曲がり角まで。ラダーナ村までは行かない。トレオ方面へ行かない。小袋を開けない。落とさない。疲れたら戻る。戻ったら、どこまで行ったか言う」
リィナは途中から目を細めた。
「飛ぶ前に疲れる」
「疲れるならやめる?」
「飛ぶ!」
「じゃあ覚える」
「ミナ、ずるい」
「大事だから」
トマの声が少し低くなる。
「俺も言っておく。標識の先は少し風が変わる。畑が切れて、草地が開けるからな。そこで低くなりすぎるな」
「分かった」
「あと、ラダーナ側の道は見えると近そうに見えるけど、近くない」
「分かったってば」
「顔が分かってない」
「顔は自由だし」
「自由にするな」
リィナは小袋を腕にかけ、足先で地面を蹴った。最初の羽ばたきは軽い。
でも、小袋が少し揺れた。
リィナはすぐ腕を寄せ、もう一度羽を打つ。薪小屋の屋根を越え、森番小屋の軒先を越えたところで、少しだけ高度を整えた。
「落とさない!」
空から声が降ってきた。
「まだ何も聞いてない!」
トマが空へ顔を上げる。
「先に言った!」
リィナは少し笑ったように見えた。
それから、村道の方へ飛んでいく。
大人ゴブリンたちは炭焼き跡から空を見ていた。キキも木札の外で首を上げている。
「リィナ、飛ぶ」
「うん。飛んでるね」
ミナも空から目を離さなかった。
ロウは森側で耳だけ動かした。金色の目は、飛ぶ影を追っているようで、追っていないようにも見える。
標識までは、リィナにとって本当に余裕だった。
昨日通ったばかりの道だ。村道は細いけれど、上からならすぐ分かる。霜で白くなった草の間を、土の筋が伸びている。水路は左へ細く光り、畑はまだ眠たそうな色をしていた。
小袋は軽い。
でも、何も持っていない時とは違った。
腕にかけていると、羽を大きく動かす時に布が揺れる。強く抱えれば落ちないが、抱えすぎると肩が少し固くなる。
「平気」
リィナは小袋を腕に寄せた。
「このくらい、葉っぱみたいなものだし」
その葉っぱみたいな小袋が、風に少し振られた。
リィナは慌てて腕を寄せる。
「葉っぱよりは重い」
自分で言い直した。
標識が見えた。昨日の標識だ。
トマが直した縄は、まだしっかり結ばれている。木札も少しだけ新しく見えた。
リィナは得意になって、その上を通り過ぎようとした。
ふっと、風が変わった。
草地が開けたところで、横から冷たい空気が来る。羽の先が持っていかれた。
「わ」
リィナは少し高度を下げた。小袋を抱え直す。落ちてはいない。でも、さっきまでより軽くはない。
標識の先、村道は二つに分かれる。片方はラダーナの方へ、低い丘の向こうへ伸びている。もう片方は、もっと先へ、トレオの方へ続く道だ。
曲がり角までは、もう少し。
リィナは迷わず、ラダーナ側が見える方へ飛んだ。
森の上へは行かない。道から大きく外れない。小袋は開けない。自分で思い出すたびに、少しミナの声みたいで嫌だった。
「でも、落としたらご飯が遠くなる」
それは嫌だった。
曲がり角の手前に、古い石積みがある。たぶん、昔の道端の目印だ。半分崩れて、草に埋まっている。
リィナはその上を少し越えた。
そこから、ラダーナ方面の道が見えた。遠くに、畑らしい色がある。小さな煙も、見えた気がする。村そのものは、はっきりとは分からない。でも、あの向こうに人の暮らしがあるのは分かる。
「見える」
リィナは息を吐いた。
「空からなら、行けそう」
言ってから、小袋を抱え直す。
腕が少し疲れていた。羽も、標識までより重い。行けそう。でも、帰りがある。
ミナが言っていた。行けることと、戻れることは別。
「別がほんとに多い」
リィナは少しだけ悔しそうに、ラダーナの方を見た。それから、トレオ方面の道も見る。
そちらは、遠かった。
道は続いているけれど、空から見ても遠い。途中で林もある。開けた場所もある。風も変わりそうだった。
「トレオは……」
言いかける。
「まあ、休めば、たぶん」
声は小さかった。いつもの大きな声ではない。リィナはそれを自分で聞いて、少しむっとした。
「今日は行かないし」
誰もいない空に言って、体を返す。帰り道は、行きより少し疲れた。お腹は空いている。
朝、何も食べていないわけではない。けれど、飛ぶと空腹はすぐ顔を出す。
村道の脇に、赤い実が見えた。昨日も見た実だ。
「戻ってから」
リィナはそう口にして、小袋を見た。
「開けない」
今度は小袋へ向けるように、声を落とす。
小袋の中は木片と小石だと分かっている。分かっているけれど、見ないと言われると、少し見たくなる。
「見ない」
リィナは羽を強く打った。
標識を越える。そこから先は、風がまた少し楽になった。
ミストル村が見える。
森番小屋。薪小屋。水路。炭焼き跡。木札。 黒枝の森。
村道の端で、人影が空を見ている。
ミナだ。
リィナは最後に少しだけ格好よく降りようとした。
小袋が揺れる。
森側でロウの耳が動く。
リィナはすぐ、普通に降りることにした。
足先が地面につく。一歩、二歩、少し跳ねた。でも転ばない。
「戻った!」
声は元気だった。
そのあと、リィナは小さく息を吐いた。
「ふー」
ミナはその息を聞いた。
それから、リィナの顔を見る。
「疲れた?」
「疲れてない」
「今、ふーって言った」
「風を吐いただけ」
「風は吐かない」
「ちょっとだけ」
「疲れた?」
リィナは少しだけ羽をしぼませた。
「ちょっとだけ」
「羽、見せて」
「はいはい」
「返事が雑」
「疲れてるから」
「今言った」
「言ってない」
横からトマの声が入る。
「言ってたぞ」
「トマまで聞かないで!」
「聞こえたんだよ」
ミナは小袋を受け取った。
結び目はそのまま。布は濡れていない。草もついていない。中身を振ると、木片と小石の音がした。
「開けた?」
「開けてない」
「落とした?」
「落としてない」
「捨てた?」
「捨ててない」
「どこまで行った?」
「標識の先。ラダーナの方が見える曲がり角。古い石が積んであるところ」
トマは村道の先を思い出すように、目を細めた。
「そこなら合ってる」
「ラダーナ村までは?」
「行ってない」
「トレオ方面は?」
「見ただけ」
「どうだった?」
リィナは少しだけ口を尖らせた。
「遠い」
その一言で、バルドの眉が少し緩んだ。
ガルムも小さく息を吐く。
「自分で遠いと言えるなら、まだましだ」
「褒め方が小さい」
「十分だ」
ミナはリィナの羽を見た。
痛んでいる様子はない。ただ、羽の先は少し下がっている。腕も、小袋を持っていた側だけ少し固そうだった。
「小袋、邪魔だった?」
「ちょっと」
「重かった?」
「重くはない。でも、風で揺れた」
「抱えると?」
「羽が狭い」
「腕にかけると?」
「落としそうで気になる」
「じゃあ、持ち方はまた考えるね」
「また増えた」
「増えたね」
リィナは不満そうだったが、さっきほど元気には羽を動かさなかった。
ミナは鍋の方を見る。
朝の薄い汁は、まだ少しある。昨日より少ない。けれど、仕事をした分として出すなら、小さな椀に一つ分はある。
その前に、整理する。
「標識までは、たぶん余裕」
リィナがすぐ胸を張る。
「余裕」
「標識の先は、風が変わる」
「変わった」
「小袋を持つと、飛び方が変わる?」
「ちょっとだけ」
「ラダーナ方面は、天気がよくて、軽いものなら、大丈夫かもね」
リィナの顔が明るくなる。
「じゃあ」
「でも、今日は行かない」
「えー」
「トレオはまだだめ」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってた」
「みんな顔を見る」
トマが腕を組む。
「ラダーナは、晴れてて、風が弱くて、軽いものなら、って感じか」
「うん。あと、お腹が空きすぎてない時」
「それが一番難しいかもな」
リィナが抗議する。
「あたしだって我慢できるし」
「昨日も言ってたよ」
「昨日よりできる!」
ミナはリィナの羽の先を見て、うなずいた。
「昨日よりは、できたね」
リィナは少しだけ黙る。
「そこは、もっと褒めてもいいところ」
「うん。今日は、ちゃんと戻った。開けなかった。落とさなかった。行きすぎなかった」
「褒めてる?」
「褒めてる」
「じゃあいい」
キキが近くまで来ていた。
ミナの横で止まり、リィナの小袋を見る。
「リィナ、戻る」
「戻ったよ」
「落とさない」
「落としてない」
「食べる」
「これから」
キキは少し考えた。
「仕事、して、食べる」
「そう」
リィナの羽が少しだけ得意そうにふくらんだ。
「仕事したから食べる」
大人ゴブリンたちが、炭焼き跡の方でざわめいた。意味を全部分かっているわけではない。ただ、リィナが飛び、戻り、小袋を返し、食べ物をもらう流れを見ている。
またひとつ、ここで暮らすための順番が増えていった。
ルシェラは満足そうだった。
「空の距離を量り、食をもって結ぶ。よい」
「距離を量ったんじゃない。疲れるか見ただけ」
「同じだ」
「違う」
「いずれラダーナにも、空の影が落ちる」
「落ちない」
「今日は、な」
ミナは返事をしないことにした。
リィナが椀を抱えたまま、横から顔を出す。
「怖い人、すぐ大きくする」
「うん」
「ミナはすぐ小さくする」
「小さい話だから」
「小袋だけに?」
トマが変な顔をした。
「今の、言わない方がよかったぞ」
「お腹空いてるから!」
「それで全部許されると思うな」
ミナは小屋へ戻り、木椀に薄い汁をよそった。根菜の端と豆が少し。肉はない。でも、昨日より小さな芋の欠片が一つ入っている。
薪小屋の前の石に置く。
「戻った分」
リィナは椀を見た。
「小袋分?」
「小袋分」
「ラダーナまで行ったら?」
「まだ行かない」
「聞いただけ」
「行けるかは、また見る」
「見るが多い」
「多いよ」
リィナは椀を取って、一口飲んだ。すぐ速くなりかけて、少し止める。
ミナをちらっと見た。
「ゆっくり?」
「うん」
「空腹だって余計に感じるんだけど」
「でも、気持ち悪くなるよりいい」
「それはそう」
リィナはしぶしぶ、でも昨日より少しだけ丁寧に飲んだ。
バルドはその様子を見て、重く息を吐いた。
「一回飛べたからといって、何でも任せるなよ」
「うん。塩も、薬もだめ。大事な手紙もまだだめ」
「肉もだめじゃ」
「肉もだめ」
リィナが椀から顔を上げる。
「肉は運ばないよ。食べたいけど」
「そこは正直でよろしい」
「褒め方が村長」
「わしは村長じゃ」
トマは空を見た。
「外から見たら、今日のこれ、完全に飛べる範囲を測ってるように見えるな」
「測ってない。疲れるか見た」
「それを測るって言うんだよ」
「小袋が落ちないかも見た」
「余計にそう見える」
「でも、そうじゃない」
「そこなんだよなあ」
ミナは小袋を開けた。
木片が二つ。小石が三つ。縄の切れ端が一つ。全部ある。
小石のひとつを手に取り、リィナに見せる。
「戻ってきたね」
リィナは椀を抱えたまま、少し胸を張った。
「あたしも戻ってきた」
「うん」
「小石も戻ってきた」
「うん」
「頭には当たってない」
キキの目が、真面目に小石へ向いた。
「石、頭、だめ」
「うん。だめ」
リィナは笑いかけて、少しだけ羽を下げた。やっぱり疲れている。ミナはそれも見た。
見たから、今日はもう飛ばせない。
「今日は終わり」
「えー」
「羽が下がってる」
「下がってない」
「下がってる」
「ちょっとだけ」
「ちょっとでも、今日は終わり」
リィナは不満そうにしたが、椀の中の芋の欠片を見つけて、少し機嫌を直した。
「明日は?」
「明日の朝、羽を見る。風を見る。お腹を見る」
「お腹も見るの?」
「鳴ったら分かる」
「見る前に聞こえるじゃん」
「そうだね」
リィナはむっとしながら、芋を食べた。
夕方、トマが村道の方を見に行った帰り、標識の先の風の話をもう一度した。
「今日は弱かった。あそこで少し揺れたなら、風がある日は危ないな」
「うん」
「ラダーナまでは、天気がいい日だけだな」
「まだ行かせない」
「分かってる。けど、いつかは言い出すだろ」
「言い出すかな」
「お前が塩壺を持ち上げるたびに顔に出るからな」
ミナは塩壺を思い出した。軽い。昨日も軽かった。今日も軽い。リィナが運べるのは、小袋くらい。
ラダーナ方面は、天気がよくて、風が弱くて、リィナのお腹が空きすぎていなくて、小袋が軽ければ、大丈夫そうだ。
近くまでなら飛べた。
小袋を落とさず戻れた。
少し疲れていた。
今日はそれだけで十分だった。
薪小屋の布が、夕方の風で小さく揺れる。
リィナは入口で、毛布にくるまりながら羽を休めている。さっきまで「まだ飛べる」と言っていたのに、もう少し眠そうだった。
ルシェラはその横で腕を組み、相変わらず見張りのように立っている。
「空の者よ、眠る前に羽を休めよ。明日も道を見るやもしれぬ」
「怖い人に言われると、なんか命令っぽい」
「命令ではない。忠告だ」
「もっと怖い」
ミナは木椀を受け取った。
「洗う?」
リィナは毛布の中から顔を出す。
「洗う。食べたから」
「うん」
「でも、ちょっと休んでから」
「今日はいい。羽が疲れてるから」
「疲れてないし」
「じゃあ、休まなくていい?」
「……ちょっとだけ疲れてる」
「うん」
ミナは椀を持って、水桶の方へ向かった。
水は冷たい。指先が少し痛い。
冬は近い。塩は軽い。
でも、今日は小石と木片が戻ってきた。リィナも戻ってきた。
ミナはそれを確かめるように、木椀を洗った。
まずは、明日の風を見る。それから、塩壺を見る。
そのあとで、また考える。




