第29話 盗るより、運ぶ仕事
第1部:辺境領と教会編
第6章:ハーピー便と広がる噂
薪小屋の入口で、リィナは朝から羽を抱えて座っていた。
本人は、寒いからではないという顔をしている。
けれど、羽の先は少しふくらんでいた。足元には古い毛布が丸まっていて、夜のあいだかぶっていたのが分かる。入口に吊った木札は傾いていないし、古い布も破れていない。
少なくとも、夜のうちに飛んで逃げた様子はない。
ミナは水桶を置き、薪小屋の前で足を止めた。
「おはよう」
「おはようじゃないし」
「おはようじゃないの?」
「お腹が空いてる朝は、おはようって気分じゃない」
「それでも朝はおはようだよ」
「じゃあ、おはよう」
リィナは不満そうに顔を横へ向けた。
炭焼き跡の方だった。
森側の粗い柵の内側で、大人ゴブリンたちが朝の支度をしている。肉置き場の石は、昨日より少し奥へずらされていた。薄い霧の中でも、そこに肉があることは分かる。
リィナは見ないようにしている。
でも、見ている。
「見てない」
「まだ何も言ってないよ」
「肉なんか見てない」
「肉って言った」
「匂いが勝手に来るだけ」
「ちゃんと我慢してるね」
リィナはちらっとミナを見た。
「そこは褒めるところ!」
「えらいえらい」
「褒め方が小さい!」
「いい子いい子」
「子どもじゃない!」
リィナは羽を少しふくらませた。怒っているようにも、寒がっているようにも見える。
そのお腹が、ぐう、と鳴る。
本人はすぐ空を見る。
「今のは風」
「お腹だよ」
「風もお腹みたいに鳴るし」
「リィナ」
ミナが名前を呼ぶと、リィナは少しだけ口を尖らせた。
しばらく、黙った。
炭焼き跡の方で、木片が当たる小さな音がした。水路では、ぷるが朝の冷たさに沈んでいる。森番小屋の戸口では、ルシェラがまだ眠そうな顔でこちらを見ていた。
リィナは羽の先をいじりながら、声を小さくした。
「……お腹空いた」
ミナはうなずいた。
「やっと言えたね」
リィナの顔が少し明るくなった。
「でも、食べ物は勝手には増えないよ」
「そこは増えてほしかった」
「増えない」
「ミナ、厳しい」
「盗るのはだめだから」
「分かってるってば」
リィナの羽が、むきになったようにふくらむ。
「盗るのは悪いことだってのは、分かってるよ。昨日は、お腹空いてたから借り……盗るってはやまっただけだし。ミストルに来るまで、別に盗ったりしてないし。木の実とか、果実とか、そういうのでなんとかしてたし」
そこで一度、言葉が詰まった。
リィナは炭焼き跡の肉置き場を見ないようにして、でも少しだけ見た。
「でも、昨日はもう限界だったの」
ミナは黙って、リィナの顔を見ていた。
全部を許すためではない。
言い訳に流されるためでもない。
ただ、リィナが何を見て、どうして手を伸ばしたのかは、見ておく必要があった。
「分かった」
「分かった?」
「でも、盗るのはだめ」
「分かってるってば」
「食べたいなら先に相談」
「今言った」
「働いて、ちゃんとできたら食べていいよ」
リィナの羽がぴんと動く。
「働いたら食べられる?」
「ちゃんと仕事できたらね」
「飛んでいいならできる!」
「まだ飛ばせていいか見てるところ」
「昨日より羽は動くし、たんこぶも小さくなったし、小石の記憶もだいぶ薄れたし」
「最後は知らない」
「大事」
ミナは考えた。
肉は……まだだめ。
塩もだめ。
薬もだめ。
中身を見られたら困るものもだめ。落としたら困るものもだめ。なくしたら冬支度に響くものもだめ。
でも、軽くて、近くて、匂いがなくて、なくしてもすぐ大ごとにはならないものなら。
「トマが、村道の先の古い標識を見に行ってる」
「標識?」
「ラダーナとトレオの方を示す古い道しるべ。冬前に縄を替えておかないと、霜で倒れたり、板が外れたりする」
「ふうん」
リィナはよく分かっていない顔をする。
ミナは小屋の壁に立てかけてあった短い縄を取った。古いが、まだ使える。次に、替えの木札を二枚。片方は古い文字をなぞり直してある。もう片方は予備だ。
「これを届ける」
リィナの目が丸くなった。
「飛ぶ仕事?」
「飛んでいい」
「いいの?」
「条件がある」
リィナは顔をしかめる。
「出た。ミナの条件」
「まずは近いところだけ」
「近いなら余裕」
「道の上を飛ぶこと」
「空からなら見えるし」
「森の上には行かない」
「行かない」
「肉の匂いがしても寄らない」
「……寄らない」
「途中で中身を見ない」
「縄と木札でしょ」
「見ない」
「見ない」
「落とさない」
「落とさない」
「トマに渡す。トマ以外には渡さない」
「トマって、いつも胃が痛そうな顔の人?」
「そう」
「分かりやすい」
「戻ってきたら食べていいよ」
「先に少し食べたい」
「戻ってから」
「多い!」
リィナは羽をばさっと動かしかけ、すぐ止めた。ルシェラが戸口で目を細めたからだ。
「怖い人が見てる」
「見張りだから」
「まだ見張りなの?」
「まだ」
「ミナからの信頼が遠い」
「昨日、肉を盗ろうとしたから」
「そこ戻るの何回目?」
「必要なだけ」
バルドが村側から来る。朝の見回りの途中らしく、厚い肩掛けを羽織っていた。ガルムも少し後ろにいた。弓は手にしているが、矢は番えていない。
「何を始める気じゃ」
「リィナに、トマへ縄と木札を届けてもらう」
バルドの眉が深く寄った。
「そのハーピーにか」
「軽いものを近いところにだけ。トマが村道の先の標識を見てるから」
「まだ信用ならんぞ」
「うん。だから、縄と木札だけ。肉も塩も薬も持たせない」
ガルムがリィナを見た。
「途中で逃げたら」
「逃げないし」
リィナの羽が少し立った。
ガルムは動じない。
「森に入るな。畑の上を低く飛ぶな。家畜小屋にも近づくな」
「また増えた」
「守れないなら飛ぶな」
リィナはむっとしたが、黙った。
ミナは短い縄と木札を古い布で包み、細く結ぶ。持ちやすいように、腕にかけられる輪を作った。強く締めすぎると、羽の動きを邪魔する。緩すぎると落ちる。
「ここ」
ミナはリィナの腕の近くに布の輪をかけた。
「痛くない?」
「痛くない」
「羽は動く?」
リィナは少し羽を広げる。
「動く」
「重くない?」
「軽い。こんなの、空なら葉っぱみたいなものだし」
「葉っぱでも落としたら困る」
「落とさないってば」
ルシェラが、ようやく戸口から出てくる。
「空の小娘へ、初めての使いか」
「使いじゃない。届け物」
「同じであろう。王の言葉を空へ放つ」
「言葉じゃない。短い縄と木札」
「名を小さくするな」
「大きくしないで」
リィナはミナの後ろから、小声で漏らした。
「怖い人、毎回話を大きくするよね」
「分かってきたね」
「分かりたくなかった」
ミナは最後に、布の結び目をもう一度見た。
「いい? 行って、渡して、戻る。寄り道しない。中身を見ない。落とさない。トマ以外に渡さない。戻ってきたら食べる」
リィナは目を丸くする。
「今、全部まとめて言ったよね」
「覚えた?」
「半分くらい」
「じゃあ一つだけ」
「盗らない?」
「今回は、届けて戻る」
「それなら言える」
リィナは切り株から降りた。足先で地面を軽く蹴る。羽を広げると、朝の冷たい空気が少し動いた。
村人が何人か、遠巻きに見ていた。
大人ゴブリンたちも、炭焼き跡からこちらを見ている。キキが木札の外で、ぱちぱちと瞬きをする。
「リィナ、飛ぶ?」
「飛ぶよ」
リィナは少し得意そうに胸を張る。
「すごいハーピーだから」
トマがいないので、誰も突っ込まなかった。リィナはそれを少し寂しそうに見てから、羽を打つ。
ふわり、と体が浮いた。
次の羽ばたきで、切り株の高さを越えた。さらに一度、風をつかむように羽を傾ける。薪小屋の屋根を越え、森番小屋の軒先を越え、畑の端をかすめない高さまで上がる。
「畑の上、低く飛ばない!」
ミナの声が、薪小屋の前から飛ぶ。
「分かってるー!」
リィナの声が、空から落ちてきた。
そのまま、村道の方へ向かう。
ミナはしばらく見ていた。
布包みは落ちていない。
飛び方は、少し危なっかしい。けれど、昨日小石で落ちた時とは違っていた。羽が空気をつかみ、体が軽く前へ滑っていく。
「速いな」
ガルムの視線が、空を追っていた。
「歩くよりは早い」
ミナは空から目を離さなかった。
「でも、戻ってくるまで分からない」
バルドも空を見ていた。
「便利そうに見えるものほど、厄介じゃ」
「うん」
ルシェラは楽しそうに笑った。
「空に道ができるか」
「道じゃない。一回だけ」
「一回で終わる顔ではないぞ」
「終わるかどうかは、戻ってから見る」
リィナは、上から見るミストル村が思ったより小さいことに気づく。
水路は細い線に見える。
畑は茶色とくすんだ緑の継ぎはぎ。
森番小屋は、黒枝の森の手前にぽつんとある。薪小屋は、その横に少し傾いていた。炭焼き跡は黒い丸い窪みみたいで、そこにゴブリンたちが動いている。森側には、黒い点のような魔狼の影が見えた。
空からだと、全部が近く見えた。
そして、匂いも上がってくる。
肉の匂い。煙の匂い。朝の粥の匂い。どこかの家で焼いた固い黒パンの匂い。
リィナは一度、羽を傾けかける。
下を見る。
村の端で、誰かが干し場の肉を動かしている。
いい匂いだった。
リィナのお腹が、空の上でも鳴った。
「戻ってから」
リィナは自分に言い聞かせた。
それから、少し不満そうにした。
「ミナの声みたいになった」
それはちょっと嫌だった。
でも、戻ってから食べる。そう言われている。そして、取らないで戻ったら、食べられるかもしれない。
リィナは村道を見つける。
細い道だ。
馬車がよく通る道ではない。草が端から伸び、ところどころぬかるみが残っている。冬前の霜で固くなった土が、朝の光に白く見えた。
道は村から外へ伸びて、低い草地を抜ける。
その先に、古い標識があった。
倒れかけてはいないが、斜めだ。木の柱は灰色に古び、上の板には、かすれた文字が残っている。ラダーナの方。トレオの方。どちらの矢印も、縄で柱に縛りつけられていた。
その下で、トマがしゃがんでいる。
古い縄をほどこうとしているらしい。口に釘をくわえ、片手で板を押さえている。
リィナは少し得意になった。
空から行けば、すぐだ。地面を歩いていたら、きっとまだ途中だった。
「とーまー!」
上から声をかけると、トマがびくっと肩を跳ねさせる。
口にくわえていた釘が落ちた。
「うわっ、なんだ!?」
リィナは少し低く降りすぎた。
トマの頭をかすめそうになり、慌てて羽を打つ。標識の古い板が、風でかたかた鳴った。
「空から来た、すごい届け物係!」
「盛るな!」
トマは落とした釘を拾いながら、すぐ顔をしかめた。
「あと、頭の上を飛ぶな。標識が倒れる」
「倒れてないじゃん」
「倒れたら困るんだよ」
「ミナも同じこと言いそう」
「言うだろうな」
リィナは少し離れた低い石に降りる。枝ではない。石だ。言われたことを、少しだけ守っている。
「ミナから」
「本当にミナからか?」
「本当だし。短い縄と木札。中身も見てないし、落としてないし、途中で肉も取ってない」
「聞いてないことまで言うな。怖いから」
トマは布包みを受け取り、結び目を見た。
「開けたか?」
「開けてない」
「落としたか?」
「落としてない」
「寄り道は」
「してない」
リィナは少しだけ目をそらす。
トマはじっと見る。
「したのか」
「してない。ちょっと干し肉の匂いにつられそうになっただけ」
「つられるな」
「考えただけなら、寄り道じゃない」
「寄り道の一歩手前だ」
トマは布をほどいた。短い縄。木札が二枚。どちらも濡れていない。落ち葉もついていない。
「ちゃんとあるな」
「でしょ」
リィナは胸を張る。
「すごいハーピーだから」
「すごいかは知らないけど、届いたのは助かった」
「助かった?」
「この縄、ちょうど足りなかったんだよ。古いのがほどけなくて、切ったら替えがいる」
トマは標識の板を押さえ、短い縄を通した。木札の一枚を古い板に合わせてみる。
「こっちはラダーナ側か。もう一枚は予備だな」
「ラダーナってどっち?」
「そっち」
トマが指差した。
リィナはその先を見る。
道は草地を抜けて、低い丘の向こうへ消えている。空からなら、たぶん行ける。近そうに見えた。
「行ってみようかな」
「行くな」
「まだ何もしてない」
「顔がしてる」
「顔は自由じゃん」
「今日はここまで。ミナにそう言われただろ」
「言われた」
「なら戻れ」
「トマ、ミナみたい」
「嫌な褒め方だな」
「褒めてない」
「もっと嫌だな」
トマは縄を結びながら、リィナを見る。
「戻ったら、届いたって言え。あと、俺が言ったことも言え。低く飛ぶな。匂いに寄るな。ラダーナ側へ勝手に行くな」
「多い!」
「ミナの条件より少ない」
「それはそう」
リィナはしぶしぶうなずいた。
それから、少し期待した目をした。
「何か持って帰るものは?」
「ない」
「ないの?」
「ない。重くなる。戻れ」
「軽いものなら持てるよ」
「今日は試しだろ。増やすな」
リィナは不満そうに羽を広げる。
「みんな、増やすなって言う」
「ミナの周りは増えるからな」
「何が?」
「仕事と心配」
「食べ物も増やしてほしい」
「それは戻ってから言え」
リィナは軽く地面を蹴る。
体が浮いた。
今度はトマの頭の上をかすめないよう、少し離れて上がった。
「ちゃんと届けたって言うから!」
「盛るなよ!」
「少しなら?」
「盛るな!」
リィナは笑いながら、村道の上へ戻った。
帰り道は、行きより少し遅かった。お腹が空いているからだ。それと、下にいろいろ見えるからだ。
低い木に赤い実が残っている。小さな鳥が飛び立つ。道端には、誰かが置き忘れた古い籠がある。
リィナは一度、赤い実の方へ傾きかける。
「盗らない」
自分に言い聞かせる。
「でも、落ちてる実なら……」
少し考えた。
「いや、戻ってから」
それが自分の言葉なのか、ミナの言葉なのか、だんだん分からなくなってくる。
リィナは不満そうに羽を打った。
でも、戻る。
空から森番小屋が見えた。
薪小屋。水路。炭焼き跡。木札。
小さな人影が、上を見ている。
ミナだった。
リィナは少し得意になって、最後だけ大きく旋回しようとする。
その瞬間、森側でロウの金色の目が動く。
リィナは旋回をやめた。
まっすぐ降りる。
「戻った!」
着地は少し跳ねた。でも、転ばない。
ミナはまず、リィナを見た。羽。足。腕。布包みはない。
「渡した?」
「渡した」
「トマに?」
「トマに」
「中身は見た?」
「見てない」
「落とした?」
「落としてない」
「寄り道は?」
リィナは少しだけ黙った。
ミナは待った。
「……匂いについて考えた」
「寄った?」
「寄ってない」
「ならいい」
「いいの?」
「考えたのは分かった。でも行かなかったなら、今日はいい」
リィナの顔がぱっと明るくなる。
「トマも助かったって言ってた」
「本当?」
「本当。低く飛ぶな、匂いに寄るな、ラダーナ側へ勝手に行くな、盛るな、って言ってた」
「ちゃんと言えたね」
「多かった」
「覚えられたね」
「お腹空いてるのに!」
ミナは小屋へ戻る。
鍋には、朝の薄い汁が少し残っている。根菜の端と、豆が数粒。それから、固くなった黒パンの小さな欠片。
ミナは木椀によそった。肉は入れない。でも、昨日よりは少し具がある。それを薪小屋の前の石に置く。
「届けた分」
リィナは椀を見た。
目が、少しだけ丸くなる。
「食べていいの?」
「うん。届けたから」
「盗ってない」
「盗ってないね」
「ちゃんと渡した」
「うん」
「見てない。落としてない。匂いにも、ちょっとしか負けてない」
「負けてないでいいよ」
リィナは椀を両手で持った。いつものようにすぐ飲もうとして、そこで少し止まった。
それから、一口飲んだ。
「……食べられた」
「うん」
「盗らないで」
「うん」
リィナはもう一口飲んだ。
急がない。完全にゆっくりでもない。でも、昨日よりは少し遅かった。
「盗らないで食べられるなら、そっちがいいね」
椀の中を見ながら、声が少し小さくなった。
ミナはうなずいた。
「そっちがいいよ」
「でも、少ない」
「働いた分だから」
「もっと働いたら?」
「今日は一回だけ」
「えー」
「まだ試し。羽も見る。戻りも見る。匂いに寄らないかも見る」
「見るものが多い!」
「多いよ」
「ミナ、慎重すぎ!」
「見ないと分からないから」
バルドが少し離れたところで、腕を組んでいた。
「一回だけでは、まだなんともじゃな」
ガルムの目は、リィナの羽と足元を見ていた。
「低く飛ばなかったか」
「最後ちょっと跳ねた」
リィナは自分から白状して、羽の先を少しだけすぼめた。
ガルムは眉を上げた。
「自分で言うだけましだな」
「褒め方が小さい」
「十分だ」
ルシェラは満足そうに薪小屋の横へ立っている。
「盗みを禁じ、空の者へ役を与え、食をもって返す。よい」
「短い縄を届けてもらっただけ」
「それを役という」
「仕事ではあるけど」
「では、空の仕事だ」
「まだ一回だけ」
「一回目は、いつも小さいものだ」
ミナは返事をしなかった。
返事をすると、ルシェラの言葉がまた大きくなりそうだったからだ。
トマが夕方より少し前に戻ってきた。
古い標識の縄を替え、木札を一枚直してきたらしい。肩に道具袋を下げ、少し疲れた顔をしていた。
リィナを見ると、指を差した。
「ちゃんと戻ってたな」
「戻ったし。すごいハーピーだから」
「盛るなって言っただろ」
「ちょっとだけだよ」
「それもだめだ」
トマはミナを見る。
「届いたよ。助かったのは本当」
「よかった」
「ただ、これを外から見られたら、絶対まずい」
「短い縄を届けただけだよ」
「空からハーピーが来て、森番の娘からの荷物ですって標識に届けたんだぞ」
「そんな言い方してないし!」
リィナが抗議する。
トマは少し考えた。
「近いことは言ってた」
「言ってない!」
「すごい届け物係とは言ってた」
「それは言った」
ミナは額に手を当てた。
「リィナ、次から盛らない」
「次があるの?」
「まだ分からない」
「今、次って言った」
「言葉の順番」
「ミナもたまにずるい」
トマがため息をつく。
「まあ、歩けば時間がかかる距離なのに、すぐ届いたのは事実だな」
「うん」
ミナはそれを否定しなかった。
短い縄と木札だけ。匂いのしないもの。
近いところ。トマへ直接。
戻ってから食べる。
それなら、今日は一回できた。
できたから安全、ではない。できたから信用する、でもない。でも、リィナが盗らないで食べる道が、一つ増えた。
リィナは木椀を抱えて、残った汁を大事そうに飲んでいる。
大人ゴブリンたちは、炭焼き跡の肉置き場を見ていた。リィナが近づかなかったことを、何となく理解したような顔をしている。木札の外で、キキが小さく首をかしげた。
「リィナ、取らない」
「取ってない」
リィナは椀を抱えたまま、すぐ顔を上げた。
「仕事、した」
キキの目が、空になりかけた椀へ移る。
リィナは少しだけ得意そうになった。
「した」
「食べる」
「食べてる」
二人の会話は、それだけだった。
でも、大人ゴブリンたちが少しざわめいた。
肉を守ること。石を投げないこと。先に言うこと。仕事をして食べること。
ここで暮らすために守ることが、また一つ増えた。
ミナは椀の底を見る。リィナの椀はもう空に近い。
「食べ終わったら、椀を返して」
「洗う?」
「うん」
「仕事?」
「自分が使った椀は、自分で洗う」
「食べたあとにも仕事がある」
「あるよ」
「多い」
「暮らすって、だいたい多い」
リィナは何か言い返そうとして、空の椀を見た。
それから、少しだけ笑う。
「でも、盗らないで食べられた」
「うん」
「じゃあ、椀くらい洗う」
トマが声を落とし、空になった椀と薪小屋の方を見た。
「外から見たら、空の使いを雇って、報酬を出して、規則まで教えてるように見えるな」
「椀を洗うだけだよ」
「そこなんだよなあ」
「そこだよ」
夕方の風が、薪小屋の布を少し揺らす。炭焼き跡の鳴子が、から、と小さく鳴った。
リィナは反射的にそちらを見たが、肉置き場へは飛ばなかった。
ロウの耳が森側で動く。
ぷるが水路で小さく沈む。
ルシェラは楽しそうに腕を組んでいる。
ミナは、リィナの椀と、薪小屋の布と、標識へ持たせた縄の残りを見る。
近いところなら、役に立つかもしれない。軽いものなら、運べるかもしれない。
でも、今日は一回だけ。明日の朝、羽を見る。お腹の鳴り方を見る。盗らないでいられるかを見る。
それから、また考える。
ミナは空になった鍋をのぞく。汁はもうほとんど残っていない。
まずは、明日の朝の分をどうするかだった。




