第28話 巣立ちのハーピー、リィナ
第1部:辺境領と教会編
第6章:ハーピー便と広がる噂
朝になっても、リィナはまだいた。
森番小屋の近くの低い切り株の上で、羽を丸めて座っている。枝の上ではない。高いところに行くな、と昨日ミナに言われていたからだ。
本人は、とても不満そうだった。
頭の上には小さなたんこぶがあり、羽には木の蔓で巻かれた跡がうっすら残っている。寒いのか、羽の先が少しふくらんでいた。
ミナは水桶を持ったまま、切り株の前で足を止めた。
「まだいるんだ……」
リィナはすぐ顔をそらした。
「いるんじゃないし」
「いるよね」
「ちょっと空の様子を見てただけだし」
「切り株の上で?」
「空は下からも見える」
「寒かった?」
「寒くない!……とは思ってない」
ミナは水桶を置き、リィナの前で少し距離を取ってしゃがむ。
「頭、痛い?」
「痛くない」
リィナの指が、たんこぶに触れかけて止まった。
「痛いよね」
「痛くない。小石がしつこいだけ」
「小石はもう飛んでないよ」
「記憶の中で飛んでる」
「羽は?」
リィナは羽を少し広げた。途中で顔をしかめる。
「平気」
「平気じゃない顔」
「平気って言ったら平気」
「昨日の汁で気持ち悪くなってない?」
「なってない」
「お腹は?」
「平気」
ぐう。
返事より正直な音が鳴った。
リィナは羽をすぼめた。
「今のは空」
「お腹だよ」
「空も鳴るし」
「今鳴ったのはリィナ」
「……ちょっとだけ」
「平気じゃないよね」
ミナが立ち上がると、森番小屋の戸口からトマが顔を出す。片手には木椀。もう片方には、昨日洗い損ねた布がある。
「まだいるのか」
「いるんじゃないし」
「いるよな」
「見ないで」
「見てないと、また肉を持って飛ぶだろ」
「飛ばないし。昨日は風が悪かっただけだし」
「小石、妙にきれいに当たったよな」
「小石の味方しないで」
リィナの口が尖る。
ミナは小屋の中へ戻り、薄い汁を少しだけ木椀へよそう。肉は入れない。骨の匂いと、根菜の端がひとつだけ。
それを、切り株の少し手前の平たい石に置く。
「食べるなら、ここ。勝手に肉置き場へ行かない」
リィナの視線が椀に吸い寄せられた。
「肉は?」
「ない」
「昨日もなかった」
「昨日、肉を盗ろうとしたから」
「借りようとしただけ」
「盗るのはだめ」
「いい匂いだったんだもん」
「いい匂いでもだめ」
「お腹空いてたし」
「お腹が空いてることと、盗っていいことは別」
リィナは少し黙った。黙ったまま、椀をじっと見る。
ミナは石の上の椀から目を離さなかった。
「食べたいなら、先に言う。働いた分なら食べていい。勝手にはだめ」
「働いたら食べられる?」
リィナの顔が上がる。そこだけ、反応が早かった。
「働けるならね。でも、まだ決めない」
「重いのは無理だけど、軽い包みくらいなら運べるし」
「昨日肉を盗ろうとした相手を、すぐ信用はできない」
「厳しい」
「盗ったから」
「借りようとしただけ」
「同じ話をもう一回する?」
「しない」
リィナはむすっとしながら、石の上の椀へ手を伸ばす。羽はまだ少しぎこちない。けれど、椀を取る手つきは早く、飲むのも早かった。
「ゆっくり」
「ゆっくりだと、空腹だって余計に感じるの!」
「急いでも、あとで気持ち悪くなるよ」
「それは困る」
リィナはしぶしぶ速度を落とした。
小屋の中から、ルシェラがあくびをしながら出てくる。長い髪はまだ少し乱れている。けれど、リィナを見る目だけは少し細い。
「まだおったか、空の小娘」
リィナの羽がぴんと固まった。
「お、おはようございます。怖い人」
「誰が怖い人だ」
「怖い人じゃん」
「小娘、あれは礼儀が足りぬぞ」
「ルシェラも足りない」
「わたしが?」
「朝の鍋、まだ洗ってない」
ルシェラは目をそらした。
トマが小さく吹き出す。
「強いな、ミナは」
「鍋は大事」
リィナは椀を抱えたまま、ミナとルシェラを見比べた。
「ミナって、怖い人にも強いんだ」
「当たり前のことを言ってるだけ」
「それが強いんじゃないの?」
「違う」
リィナは納得していない顔で、また汁を飲んだ。
ミナは、リィナの羽の動きと足先を見た。大きく痛んではいないようだけれど、飛ばせて大丈夫かは分からない。
「リィナ」
「なに?」
「どこから来たの」
「上の方」
「空じゃなくて」
「空の上の方」
「巣はある?」
リィナの羽先が、ほんの少し止まる。
それから、すぐに口が動く。
「巣の話は長いから。すごく長い。朝に聞く話じゃないよ」
「ひとりで来たの?」
「ひとりで飛んできた」
「帰るところは?」
「あるような、ないような」
「それは、あるの? ないの?」
「空って広いから」
「空のせいにしない」
リィナは椀の底を見た。もう汁はない。
「いろいろあったの」
声は明るい。けれど、羽は少しだけしぼんでいる。
ミナはそれ以上、巣の話を追わない。
「じゃあ、今は帰らない?」
「帰らないっていうか、今すぐは無理。お腹も減るし、羽も小石のせいで変だし」
「小石じゃなくて、盗ろうとしたから」
「そこ戻る?」
「戻る」
「ミナ、けっこうしつこい」
「大事だから」
バルドが村側から歩いてくる。杖をつき、眉間のしわを深くしていた。後ろにはガルムもいる。弓は手にしたままだ。
リィナは二人を見ると、少し羽をたたんだ。
「おじいさん、怖い顔」
「わしは元からこういう顔じゃ」
「それはそれで大変そう」
「口が回るのう」
「飛ぶより楽だから」
バルドは深く息を吐き、ミナを見た。
「それで、そのハーピーをどうする」
「村には入れない」
「当然じゃ」
「森番小屋の中も、まだだめ」
「そうか」
「炭焼き跡の大人ゴブリンたちと一緒にするのも違うと思う」
バルドは少しだけ黙り、炭焼き跡の方を見た。
朝の霧の向こうで、大人ゴブリンたちが肉置き場の石を直していた。昨日、肉を盗られかけたせいで、板の位置が少し奥へずれている。キキが木札の外で、何かを短く伝えていた。
ロウは森側にいる。金色の目が、時々こちらへ向く。
「……まあ、あそこへ入れれば、また騒ぎになるじゃろうな」
「肉置き場があるし。昨日、石も投げたし」
「石はだめ」
キキの小さな声が、木札の外から届いた。
ミナはうなずく。
「うん。石はだめ」
リィナが小声で肩をすぼめる。
「あたしも石はだめだと思う」
「肉もだめ」
「うっ」
ガルムの視線が、リィナの羽に向いた。
「飛べるのか」
「飛べるよ」
「今は?」
「……たぶん」
「たぶんで村の上を飛ぶな」
「飛ばないし。飛びたいけど、飛ばないし」
リィナは悔しそうに羽を震わせた。
ミナは考えた。
村には入れない。森番小屋の中もだめ。炭焼き跡も違う。でも、森へ放せば、また肉の匂いに寄ってくるかもしれない。昨日みたいに、今度は誰かが怪我をするかもしれない。
それに、外は寒い。今朝も、水桶のふちに薄い氷があった。リィナは強がっているが、羽の膨らみ方は寒い時の鳥に近かった。
「薪小屋」
その言葉に、トマが顔を上げる。
「森番小屋の横の?」
「うん。古い方。奥に食べ物はないし、村の中でもない。雨と風は少し避けられる。私の目も届く」
「薪小屋って、あの傾いてるやつか?」
「傾いてるけど、倒れてはいない」
「それ、安心していいのか?」
「今日見る」
バルドの顔は渋いままだった。
「そこなら、村の中ではない。だが、森番小屋に近すぎる」
「だから、勝手に入らないようにする。森番小屋の中はだめ。戸口もだめ。肉干し場もだめ。薪小屋だけ」
「火は」
「使わせない」
「肉は」
「勝手にはだめ」
「飛ぶのは」
「今はだめ」
リィナが身を乗り出す。
「今はって、いつまで?」
「明日、羽の様子を見る」
「明日もだめって言われる気がする」
「見てから」
「ミナの見てから、長そう」
「長い方が安全」
「安全すぎると空までが遠いんだけど」
「昨日落ちたでしょ」
「それは小石のせい!」
「肉を盗ろうとしたから」
「そこも戻る?」
「戻る」
リィナは羽で顔を半分隠した。
ルシェラが腕を組む。
「空の者を、薪の箱に入れるか」
「箱じゃない。薪小屋」
「鳥小屋のようなものだな」
「鳥小屋じゃないし!」
リィナが即座に返す。
ミナも首を横に振った。
「鳥小屋じゃない。薪小屋」
「ほら、ミナも言ってる!」
「薪小屋って言っただけ」
「鳥よりはまし」
「ましじゃない!」
トマは森番小屋の周りを見た。
水路にはぷるが二つ沈んでいる。
木札の外にはキキ。
炭焼き跡には大人ゴブリンたち。
森側にはロウ。
低い切り株にはハーピー。
戸口にはルシェラ。
「また森番小屋の周りが変なことになったな……」
「変じゃない。場所を分けてるだけ」
「それが外から見ると、たぶん一番怖い」
「どうして」
「説明すると余計怖いから」
バルドは額を押さえた。
「説明はあとで考えろ。まず、今夜を越せるかじゃ」
「うん」
ミナは薪小屋へ向かう。
森番小屋の横、少し奥まったところにある古い薪小屋だ。もともとは薪を乾かすための小屋だったが、今は半分ほどしか使っていない。屋根の端は少し反っている。戸はない。入口には古い布をかけて、風を少し防いでいるだけ。
中には、乾ききっていない薪がいくつか、割れ板、古い籠、折れた柄、使えない罠の部品が置いてある。
ミナは入口で足を止めた。
「まず、食べ物は置かない」
リィナが薪小屋の中をのぞき込む。
「ないの?」
「ない」
「じゃあ、夜中にお腹が空いたら?」
「言いに来て」
「寝てる人を起こすの?」
「盗るよりいい」
「うう」
「火は使わない」
「寒い」
「毛布を一枚。古いやつ」
「古いの?」
「新しいのはない」
「じゃあ古いのでいい」
「勝手に飛ばないこと」
「空が呼んでも?」
「呼んでも」
「星がきれいでも?」
「見に行かない」
「厳しい」
「昨日落ちたから」
「小石」
「肉」
リィナは黙った。
トマが薪小屋の中を見る。
「この罠の部品、外した方がいいな。羽に引っかかる」
「うん。あと、割れ板の尖ってるところも」
ガルムが入口の柱を押した。
「倒れはせんが、風が入る。布を二枚重ねろ」
「布、足りるかな」
「古い袋を裂けばよい」
バルドの杖先が、入口の布を指した。
「新しい布は使うなよ」
「使わない」
リィナは薪小屋の柱を見上げる。
「枝がない」
「中で飛ばない」
「止まるところがない」
「低い横木ならつける」
「低いの?」
「高いところにすると、勝手に飛びそうだから」
「飛ばないって言ってるじゃん」
「まだ信用してない」
「正直すぎる!」
「盗ったから」
「もうそれ言われたら何も言えない」
「言ってるよね」
リィナは羽をふくらませた。
それでも、薪小屋の中から出ようとはしなかった。寒かったのだろう。古い布が揺れるだけでも、風は少し弱くなる。
ミナは古い籠を外へ出し、割れ板を選り分ける。トマが尖ったところを小刀で削った。ガルムは罠の古い金具を外す。
ルシェラは腕を組んで見ていた。
「わたしは何をすればよい」
「リィナを見る」
「見ておる」
「当分」
ルシェラの顔が少し止まった。
「当分?」
「うん。ルシェラが一番暇だし、リィナが勝手に飛んだら分かるでしょ」
「わたしは羽虫の番をするために居候しているのではない」
「羽虫じゃないし!」
リィナが薪小屋の中から叫ぶ。
「空の者と呼んでいるだけ、ありがたく思え」
「それもなんか嫌!」
「では肉泥棒」
「もっと嫌!」
ミナは古い毛布を抱えて戻ってくる。
「ルシェラ、お願い。夜、リィナが飛ばないか見て。リィナも、ルシェラが見てるところで寝る」
「嫌」
二人の声が重なった。
ルシェラは眉を寄せる。
リィナは羽を逆立てる。
トマはその二人を見て、少しだけ目をそらした。
「すごい組み合わせだな」
「だからいいの」
ミナは古い毛布を薪小屋の入口に置いた。
「リィナはルシェラが怖い。ルシェラはリィナが勝手に動いたら分かる。二人とも、勝手に近づきすぎないしね」
「小娘、わたしは見張り犬ではない」
「犬じゃないよ。居候」
「居候の扱いが雑だ」
「鍋も洗ってないし」
ルシェラはまた目をそらした。
リィナが小声で言う。
「ミナ、強い」
「ルシェラにだけだよ」
トマは苦笑いし、バルドは重く息を吐いた。
「今夜だけじゃぞ」
「うん。明日また見る」
「その言葉は、最近あまり信用ならん」
「明日見るのは本当」
「見るものが増える一方じゃ」
「見つけたら増えるんだよ」
「増やすなと言っておる」
ミナは返事をせず、薪小屋の入口に古い木札をひとつ吊るす。
黒い線を一本。
村ではない。森番小屋でも、炭焼き跡でも、肉置き場でもない。ただ、今夜、リィナが寒さに凍えず休む場所。それを示すための札だった。
リィナは薪小屋の中から顔を出した。
「これ、あたしの場所?」
「今日だけ」
「今日だけ?」
「明日また見る」
「ミナの今日だけ、伸びそう」
「伸ばさないように見る」
「それ、伸びるやつじゃん」
ミナは答えず、木札の紐を結び直す。
ルシェラは薪小屋の横に立ち、腕を組んでいる。とても不満そうだった。
リィナは中で毛布を足で引き寄せながら、もっと不満そうにしていた。
「怖い人が横にいる」
「肉泥棒が中におる」
「肉泥棒じゃない!」
「盗ろうとしたのう」
「借りようとしただけ!」
「いずれにせよ、今夜は飛ぶな」
「うう」
ミナは二人を見て、少しだけ安心した。
仲良くはない。むしろ、まったく仲良くない。だから、勝手に一緒に何かをする心配は少し減る。
トマは森番小屋の周りをもう一度見る。
水路のぷる。
木札の外のキキ。
炭焼き跡の大人ゴブリン。
森側のロウ。
薪小屋のリィナ。
その横に立つルシェラ。
「外から見たら、絶対そうは見えないけどな」
「何が?」
「ただ寝場所を決めただけ、には」
「寝場所だよ」
「言わない方がいい気がする」
「でも、寝場所だよ」
ミナは薪小屋の入口にかけた布を直す。風が入りすぎないように、下に石をひとつ置く。
それから、リィナの羽に残った蔓の跡を見た。
「明日の朝、羽を見る。頭も見る。お腹が空いたら先に言う。肉は勝手に取らない。飛ばない」
「多い」
「じゃあ一つ」
リィナは先に言った。
「盗らない」
「うん」
「でも、お腹が空いたら言う」
「それも大事」
「二つじゃん」
「大事だから」
リィナは毛布にくるまりながら、ぶつぶつ言う。
「ミナの一つ、いつも増える」
「見つけたら増えるんだよ」
「怖い言葉」
「私もそう思う」
ルシェラが横で低く笑った。
「空の者を食と役に縛るか」
「薪小屋で寝てもらうだけ」
「名を小さくするな、小娘」
「大きくしないで」
ミナは木札の結び目を、最後にもう一度引いた。
から、と小さく鳴子が鳴る。
炭焼き跡の方で、大人ゴブリンたちが顔を上げる。
森側で、ロウの耳が動く。
水路で、ぷるが小さく沈む。
薪小屋の中で、リィナが羽をすぼめる。
ルシェラは不満そうに、けれど逃げずに立っている。
森番小屋の周りに、またひとつ、見ておく場所が増えた。
ミナは息を吐き、空になった木椀を持ち上げた。まずは、椀を洗う。それから、薪小屋の屋根の隙間を見る。
冬は、待ってくれない。




