第27話 空から来た腹ぺこの娘
第1部:辺境領と教会編
第6章:ハーピー便と広がる噂
霜が、朝の草に白く降りるようになっていた。
まだ雪ではない。
でも、土は固くなり始めている。水桶のふちには薄い氷が張る日もあり、干し場の肉は乾きやすくなったぶん、塩の減り方がよく分かるようになった。
ミナは森番小屋の外で、干し肉にする前の細い肉を見ていた。ロウたちが置いていく肉は助かる。助かるけれど、肉は置かれたら終わりではない。
血を落とす。皮をはぐ。筋を分ける。食べる分、煮る分、乾かす分に分ける。骨は煮る。脂は取れるなら取る。皮は失敗すると臭くなるから、丁寧に。
それから、塩。
ミナは塩壺を持ち上げた。
軽い。昨日より軽い。
「……軽い」
「知ってる」
トマは横で、肉を吊るす枝を直していた。
「昨日も言ってた」
「昨日より軽い」
「塩壺って、毎日そんなに持ち上げるものか?」
「持ち上げるよ。軽くなってから気づいたら遅いでしょ」
「もう軽いんだろ」
「だから困ってる」
ミナは壺の底を指先でなぞった。ついた塩は、本当に少しだけだった。
「肉はあるのに、塩がない」
「少し前まで肉がないって言ってたのに、ぜいたくな悩みに聞こえるな」
「肉があると、保存できない悩みが増えるの」
「増えるのか」
「増える」
トマは干し場の肉を見る。
森番小屋の軒下には、細く切った肉が少しずつ吊るされている。村の共同干し場へ持っていく分もあるが、すべて置けるほど広くはない。風向きも気にしなければいけない。匂いにつられて獣が来ることもある。
それに、最近は肉の置き場所が増えた。炭焼き跡にも、働いた分として分けた肉を置く板がある。
大人ゴブリンたちは、そこを自分たちの場所として少しずつ覚え始めていた。
受け入れたわけではない。村へ入れたわけでもない。
でも、木札の外のあの場所には、水桶があり、道具を見せる板があり、肉を置く石があり、きのこを分ける板がある。ミナが行くと、ゴブリンたちはまず手元を見せる。
守れる時もある。守れない時もある。
だから、まだ見ている。
「ミナ」
小さな声がした。
小屋の入口に、キキが立っている。木片を抱え、戸口の外で足を止めていた。
「入る?」
「うん。ここまで」
ミナは土間の手前を指した。
キキはこくりとうなずき、戸口の内側へ一歩だけ入る。そこから先へは行かない。棚にも、鍋にも、干し肉にも近づかない。
「肉、見る?」
「見るだけ」
「うん。触らないでね」
「触る、だめ」
キキは真面目な顔で繰り返した。
その後ろで、ルシェラが炉のそばから顔を出す。
「肉を見るだけとは、なんと残酷なことを」
「ルシェラも触らない」
「わたしは、見るだけで満足するほど小さき器ではない」
「器は鍋を洗ってから言って」
「むう」
トマの口元が少し緩み、すぐ炭焼き跡の方へ向いた。
「向こうの肉、今日は大丈夫か?」
「見に行く。水も足す。あと、肉置き場を少し奥へ動かしたみたいだから、見ないと」
「勝手に動かしたのか?」
「ロウが近いと怖いみたい。森側から少し離したかったんだと思う」
「それは分かるけど、村側に近づいたら困るな」
「うん。だから見る」
ミナは塩壺を棚へ戻した。軽い音がした。それが嫌で、少しだけ眉を寄せる。
「ラダーナの方でも、塩は余ってないよね」
「前に来た使いは、ないって言ってたな」
「だよね」
「トレオの商人待ちか」
「来てくれれば」
「来ないと?」
「肉は食べる分と、骨を煮る分を増やす。干し肉は減らす」
「冬に困るな」
「困る」
その時、炭焼き跡の方で鳴子が鳴った。
から。
風ではない。
ミナは顔を上げた。続いて、キキの耳がぴんと立つ。
炭焼き跡の方から、ゴブリンのざわめきが聞こえた。高い声ではない。大人ゴブリンたちの、喉の奥で割れるような声だ。
「キキ?」
キキは戸口から飛び出しかけて、木札の手前で止まった。
「ゴブ、声」
「うん。見に行く」
ミナは道具袋を取った。トマも弓を手にする。ルシェラは、肉を見ていた顔から森を見る顔へ変わった。
「何か来たか」
「まだ決めない」
「ふむ、騒がしそうな気配だな」
「なおさら見る」
炭焼き跡へ近づいたが、ざわめきの理由はすぐには分からなかった。粗い柵は倒れていない。水桶もある。きのこの板も、古い木板のまま置かれている。
大人ゴブリンたちは、森側ではなく、炭焼き跡の端の木を見上げていた。
その枝の上に、何かがいた。
鳥ではない。人でもない。
細い腕。羽。足の先は枝をつかむように曲がっている。髪は風に乱れ、顔は若い。目だけが、肉置き場をまっすぐ見ていた。
「……ハーピー?」
トマの声は小さかった。
その声より先に、枝の上の少女が身をかがめた。
「ちょっとだけ」
不穏な雰囲気を感じる……。
「落ちてる肉なら、拾ってもいいよね。誰も食べてないし。置いてあるってことは、空から見つけた私の分ってことかも」
ミナは足を止めた。
「だめ」
声を出した時には、もう遅かった。
枝の上のハーピーは、ひゅっと降りた。
速い。
羽が空気を叩き、粗い柵の上をかすめる。大人ゴブリンたちが反応するより早く、肉置き場の石へ足をかけた。細い手が、板の上の肉をつかむ。
「借りるね!」
「だめ!」
ミナの声と、大人ゴブリンの叫びが重なった。
一体が肉置き場へ飛びかかる。別の一体が、足元の小石を拾った。弓ではない。刃物でもない。小さな、丸い石だ。たぶん、止めようとしただけだった。
でも、飛び上がりかけたハーピーの頭に、それはきれいに当たった。
ぽこん。
「きゅー」
ハーピーは肉を抱えたまま、羽を半分開き、ぐるりと一回転した。古い草と落ち葉の上へ、ぼすっと落ちる。
しばらく、誰も動かなかった。
トマの口が開いたまま止まる。
「……落ちた」
「落ちたね」
「今の、大丈夫なのか?」
「見る」
ミナが近づこうとした瞬間、大人ゴブリンたちが先に動いた。
肉を取り返すもの。倒れたハーピーを囲むもの。森側を見るもの。キキを呼ぶもの。一体が木の蔓を引きずってきた。縄ではない。縄は貴重だからだ。
それは分かる。分かるが、見た目はかなり悪い。
大人ゴブリンたちは、倒れたハーピーの羽を押さえ、足をまとめ、蔓をぐるぐる巻きにしていく。手際は妙にいい。けれど、どこまで締めていいかは分かっていない。
「待って」
ミナは声を上げた。
「締めすぎないで。首はだめ。羽も折らない」
キキは慌てて大人ゴブリンたちへ向き直った。
「首、だめ。羽、だめ。しめる、だめ」
「締めるの全部だめじゃない。苦しくなるのがだめ」
「むずかしい!」
「うん、難しい」
大人ゴブリンたちは、それでも縛るのを止めなかった。ただ、蔓の位置を少しずらした。口は塞がない。倒れたハーピーは、目を回したままだ。頭の上に、小さなたんこぶができている。
「キキ」
「ミナ、きて」
「来てる」
「ゴブ、つかまえた。空。肉、盗る」
「うん。見た」
「肉、まもる」
「肉を守ったのは分かった」
ミナは大人ゴブリンたちを見た。
「でも、頭に石はだめ」
キキは大人ゴブリンたちへ向けて、短く区切った。
「頭、石、だめ」
大人ゴブリンの一体が、不満そうに肉を抱え直した。その顔は、肉を盗られかけたと言っている。
それも分かる。
「肉を盗られそうになったのは分かった。でも、頭に石はだめ。落ちたら危ない。次は、鳴子。声。私を呼ぶ」
キキは必死に手を振った。
「肉、まもる、いい。頭、石、だめ。ミナ、呼ぶ」
大人ゴブリンたちはざわめいた。完全に納得してはいない。でも、石を投げた一体は、手の中に残っていた小石をゆっくり地面へ置いた。
「うん、それでいい」
ミナは小さくうなずいた。
トマが縛られたハーピーを覗き込む。
「これ、起きたら騒ぐぞ」
「うん」
「ほどくのか?」
「全部はまだ。先に起こして、話す」
「縛ったまま?」
「羽を少し緩める。苦しくないように。飛ばないように」
「絶妙なバランス!」
「飛ばれたら、また肉を取るかもしれない」
「厄介だなぁ」
「そうなんだよね」
その時、森側で低い気配が動いた。
ロウがいた。
金色の目が、縛られたハーピーと、取り返された肉を見ている。
ミナはすぐにロウへ視線を向けた。
「ロウ、待って」
「まだ噛まない」
トマが顔を引きつらせる。
「まだ、が怖い」
ロウの耳が動いた。噛まないし、近づきもしない。ただ、森側に立っている。
ハーピーが薄く目を開けた。
「……あれ、あたし、何が?」
誰もすぐ答えなかった。
ハーピーは瞬きをして、蔓を見た。羽を見た。肉が自分の手元にないことに気づいた。
「肉は?」
ミナは少しだけ眉を寄せた。
「最初にそれ?」
「大事じゃん」
「盗った肉は戻した」
「盗ってない。借りようとしただけ」
「盗っちゃだめ、冬の備えなの」
「冬の分だったの?」
「働いた分として置いた肉。怪我してるのの分もある」
ハーピーは蔓の中で少し身をよじった。
「知らなかったし」
「知らないものは取らない」
「落ちてたし」
「置いてあったの」
「誰も食べてなかったし」
「これから食べる分」
「ちょっとだけだったし」
「ちょっとでもだめ」
ハーピーは口を開きかけた。
ぐう、と腹が鳴る。
炭焼き跡が、少し静かになった。本人も黙った。トマが気まずそうに視線をそらす。
キキは目を丸くして、ハーピーのお腹を見た。
「お腹、鳴った」
「鳴ってない」
ハーピーはすぐ首を振った。
ぐう。
もう一度鳴った。
「鳴ったね」
ミナの視線が、蔓の下のお腹へ落ちる。ハーピーは羽を少ししぼませた。
「……ちょっとだけ」
「かなりじゃない?」
「ちょっと長めに空いてるだけ」
「いつから食べてないの」
「昨日の……朝? 夜? 空だと分かりにくいんだよ」
「空のせいにしない」
「でも空って広いし」
「お腹が空いてることと、盗っていいことは別」
ハーピーは黙った。黙ったが、目は肉の方へ動いた。
ミナはその視線を見た。
「その肉はだめ」
「まだ何も言ってない」
「見てた」
「見るくらいはいいじゃん」
「見るだけならいい。でも取らない」
「……分かった」
声は小さい。本当に分かったのか、今だけ肉から離れたのかは分からない。
ミナはトマを見る。
「薄い汁、残ってたよね」
「骨を煮たやつなら少し」
「それを持ってきて。肉は入れない」
ハーピーが顔を上げる。
「肉は?」
「肉泥棒には肉はあげない」
「厳しい!」
「盗ったから」
「借りようとしただけ」
「借りるなら、先に言う」
「空から降りて、こんにちは、お肉くださいって言えばよかったの?」
「うん」
「無理じゃん!」
「無理でも盗らない」
トマが薄い汁を取りに走る。
バルドも、村側から杖をつきながら近づいてきた。騒ぎを聞いたらしい。遠巻きの村人も何人かいる。
「今度は何じゃ」
「ハーピーが肉を盗ろうとして、小石で落ちた」
ミナがそのまま並べると、バルドは目を閉じた。
「……そのまま言うな」
「でも、そのままだよ」
「分かっておる。分かっておるが、朝から騒がしすぎる」
縛られたハーピーが、蔓の中から顔だけ上げる。
「あたし、ハーピー。肉泥棒じゃないよ」
「肉を持って飛ぼうとしてた」
ミナは取り返された肉へ視線を向けた。
「飛ぼうとはしたかも」
「肉を持って」
「持ってたかも」
「それを肉泥棒って言う」
「違うし!」
バルドは額に手を当てた。
「話せるのか」
「話せるよ。ふふん」
「ハーピーは久しぶりに見たわい」
「珍しいなら、もうちょっと優しくして」
「盗らなければな」
ハーピーは口を閉じた。
村人たちは、ゴブリンやロウを見る時ほど凍りついてはいない。ただ、どうしていいか分からない顔で見ている。ハーピーは珍しい。けれど言葉は通じる。怖いというより、困る、という顔だった。
ルシェラが、いつの間にかミナの後ろに立っていた。
「空の者まで食卓に寄るか」
「肉の匂いに寄っただけ」
「ふむ。王の声が空を渡る日も近いな」
「声じゃなくて肉の匂い。あと王じゃない」
ハーピーはルシェラを見て、羽の先をぴんと固めた。
「……何あのこわい人」
「居候」
「居候ってあんな感じなの?」
「うちでは」
「すごい家だね」
「すごくない」
トマが薄い汁を持って戻ってきた。
木椀に入った、骨を煮た後の薄い汁だ。肉は入っていない。根菜の小さな端が少しだけ沈んでいる。
ミナはそれを受け取り、ハーピーの前へ直接差し出さなかった。まず石の上へ置く。それから、蔓を少し緩める。
羽は完全には自由にしない。手は動く。口も動く。けれど、すぐ飛び立つには足りない。
「熱いから、ゆっくり」
ハーピーは椀を見る。
「肉は?」
「ない」
「匂いはする」
「骨の匂い」
「肉の親戚じゃん」
「汁」
「……汁かあ」
文句を言いながらも、ハーピーは椀に顔を近づけた。一口飲む。止まる。もう一口飲む。
それから、急に速くなった。
「ゆっくり」
ミナが椀の縁を指すと、ハーピーは椀を抱えたまま口を尖らせる。
「ゆっくり飲んだら、なくなる前にお腹が気づく」
「急いでもなくなる」
「それはそう」
「だから、ゆっくり」
ハーピーは不満そうにしながらも、少し速度を落とした。
キキがじっと見ている。
「空、飲む」
「空じゃなくて、ハーピー」
ミナはキキの方へ少し顔を向けた。
キキは首を傾げた。
「ハー、ピー」
「うん」
ハーピーは椀から顔を上げた。
「あたしのこと?」
「名前は?」
ミナが顔をのぞき込むと、ハーピーは少しだけ背筋を伸ばした。蔓で巻かれているので、あまり格好はつかない。
「あたし?」
「リィナ」
「すごいハーピーのリィナ。飛べるよ!」
トマは少し呆れたふうにリィナを見た。
「ハーピーだから飛べるだろうなあ」
「そこは大事!」
「今、蔓で巻かれてるけど」
「それは……お腹が空いてたから!」
大人ゴブリンの一体が、低く喉を鳴らした。キキはそれを聞いて、少し困った顔をする。
「ゴブ、肉、まもる」
「守ったのは分かった」
ミナは大人ゴブリンたちの手元を見回した。
「でも、頭に石はだめ。蔓も締めすぎない。肉を守る時は、まず鳴子。声。私を呼ぶ」
キキは大人ゴブリンたちへ向けて、短く区切った。
大人ゴブリンたちは、またざわめいた。
リィナは汁を飲みながら、ちらっとそちらを見る。
「肉を守るのに、ずいぶん真面目なんだね」
「働いた分だから」
「働いた分?」
「柵を直したり、道具置き場を整えたりした分」
「じゃあ、あたしも働いたら食べられる?」
ミナはすぐに答えなかった。
トマの視線がミナへ向いた。
バルドも杖を握ったまま、同じ方を見た。
ガルムは、弓を手にしたままリィナの羽を見ている。
リィナは慌てて言葉を足した。
「飛べるよ。見たでしょ。ちょっと落ちただけで」
「落ちたのは見た」
「飛ぶ方も見て!」
「見た。速かった」
「でしょ。軽いものなら持てる。近いところなら行ける。重いのは無理。落とす」
「落とすのは困る」
「重いのは、だよ。軽いのは落とさない。たぶん」
「たぶんは困る」
「落とさないってば」
「中身は勝手に見ない」
「中身?」
「小袋とか、包みとか。運ぶなら、中を見るのはだめ」
リィナは少し目をそらした。
「見ないよ。たぶん」
「たぶんはだめ」
「見ないってば!」
「今日はまだ決めない」
「え」
「まず、盗らないこと」
「そっち?」
「そっち」
ミナはリィナの椀を見る。空になっていた。
「食べたいなら、先に言って。働いた分なら食べていい。でも、盗るのはだめ」
リィナは椀を抱えたまま、少し黙った。
その横で、ルシェラが満足そうにうなずく。
「食卓に掟を敷き、空の者に役を問うか」
「汁と盗みの話」
「同じであろう」
「違う」
リィナが小さく笑った。
「ミナって、変なこと言われ慣れてるんだね」
「慣れたくなかった」
「でも、すごいじゃん。魔狼いるし、ゴブリンいるし、水路にぷるもいたし。あとおっかない女の人もいる……。ここすごいよ」
「すごくない。やることが多いだけ」
「それをすごいって言うんじゃないの?」
「言わない」
バルドが重く息を吐いた。
「ミナ」
「うん」
「そのハーピーを、村へは入れんぞ」
「入れない」
「肉も勝手には食わせん」
「うん、分かってる」
「働くと言っても、すぐ信用はせん」
「うん。見てから」
「蔓は」
ミナはリィナを見る。
リィナは羽を少し動かして、すぐ顔をしかめた。
「ほどいてほしい。これ、羽が変な感じになる」
「飛んで逃げない?」
「逃げない」
「肉を取らない?」
「取らない」
「本当に?」
「……今は取らない」
「今は、じゃだめ」
「取らない!」
「じゃあ、ほどく。でも飛ばないでね。枝の上も、今はだめ。地面にいること」
「地面、好きじゃないんだけど」
「落ちたばかりだからね」
「それは言わないで」
ミナは蔓をほどいた。全部ではなく、まず羽。次に足。最後に胴。リィナは何度も羽を震わせたが、飛び上がらなかった。
頭のたんこぶをそっと触り、顔をしかめる。
「小石に負けたわけじゃないから」
「負けたと思う」
トマはたんこぶから目をそらさなかった。
「風の向きが悪かっただけ!」
「石、まっすぐだったぞ」
「小石のくせに生意気」
大人ゴブリンたちは、リィナが立ったのを見て少し身構えた。
ミナは手を上げる。
「リィナは肉を取らない」
キキは大人ゴブリンたちへ向き直る。
「リィナ、肉、取る、だめ」
「取らないってば」
リィナの羽が不満そうに揺れた。
「あと、大人ゴブリンたちは石を投げない」
キキは続けて、石の落ちた地面を指した。
「ゴブ、石、投げる、だめ」
大人ゴブリンの一体が、手のひらを見せた。
石はない。
「よし」
ミナは炭焼き跡を見る。
肉置き場の板は、少し手前すぎた。空からは見えやすい。森側からも見えやすい。村側からは、ミナが確認しやすい。
どこへ動かしても、何かが困る。
「肉置き場、少しだけ奥。でも、見えなくなるほど奥はだめ」
トマが頭をかく。
「また調整か」
「また盗られたら困る。でも見えないと、何があるか分からない」
「本当に仕事が増えるな」
「増えたね」
「誰のせいだ?」
ミナはリィナを見た。
リィナは少しだけ羽をたたんだ。
「……小石?」
「リィナ」
「はい」
夕方近く、リィナは森番小屋近くの低い切り株に座っていた。枝の上ではない。飛ばない約束だからだ。
手には、空になった木椀。羽にはまだ蔓の跡が少し残り、頭には小さなたんこぶがある。
肉は大人ゴブリンたちのところへ戻された。大人ゴブリンたちは、肉置き場を少し奥へ動かしている。動かしすぎるとミナに止められ、手前すぎるとまた見直しになる。キキはその間で、疲れた顔をしながらも短い言葉をつないでいた。
ロウは森側にいる。噛まない。でも、リィナを見る目は鋭い。
リィナはそれを見て、声を小さくした。
「ねえ、あの魔狼、まだ怒ってる?」
「肉に手を出したから」
「もう出してない」
「見てるんだと思う」
「見るだけで怖いんだけど」
「私も怖いよ」
「ミナでも?」
「私でも」
リィナは少しだけ安心したような、余計に不安になったような顔をした。
ミナは木椀を受け取る。
「リィナ」
「なに?」
「今日覚えることは一つ」
「一つならいける」
「盗らない」
リィナは口を尖らせた。
「……分かった」
「食べたいなら、先に言う」
「二つになった」
「大事だから」
「お腹空いてる時に二つは多い」
「じゃあ、まず一つ」
「盗らない」
「うん」
リィナは膝の上で羽の先をいじりながら、小さくうなずいた。
「盗らない」
ミナは炭焼き跡を見る。
大人ゴブリンたちは、ここで暮らすには守ることがあるのだと、少しずつ覚え始めた。
リィナは空を飛べる。軽いものなら持てると言った。でも、落としたら困るし、中身を見るのもだめ。まだ信用はできない。
肉は増えた。干し肉は足りない。塩壺は軽い。
ラダーナへ続く道の向こうには、何かあるかもしれない。でも、今日はそこまでで考えるのをやめた。肉を盗らないこと。石を頭に投げないこと。蔓を締めすぎないこと。汁を飲んだ木椀を洗うこと。
ミナが木椀を持って立ち上がると、ルシェラは満足そうに目を細めた。
「空の者へも、食と役の門を示したか」
「門じゃない」
「では、何だ」
「盗らないって話」
トマが、炭焼き跡とリィナとロウを見比べて、遠い目をした。
「それ、外から見たら絶対そうは見えないけどな」
「じゃあ、どう見えるの」
トマは少し考えた。
「ゴブリンが空の相手を捕まえて、ミナが裁いて、食事を与え、働けるか聞いてる」
「裁いてない」
「でも、そう見える」
「見えるだけ」
「見えるだけって、前にも聞いたな」
ミナは木椀を見た。
底に、薄い汁が少し残っている。
「そんなことより、椀を洗わないと」
トマはため息をついた。
「そこなんだよなあ」
「そこだよ」
切り株の上では、リィナが飛びたそうに羽を震わせていた。
木札の外では、大人ゴブリンたちが肉置き場の石を直している。
森側では、ロウの耳が動く。水路では、ぷるが二つ、寒そうに小さく沈んだ。
ミナは木椀を持ったまま、塩壺の軽さを思い出した。
明日の朝、肉置き場をもう一度見る。蔓の跡も見る。リィナが本当に盗らないかも見る。
それから、塩をどうするか考える。
冬は、近かった。




