第26話 できた柵と外からの目
第1部:辺境領と教会編
第5章:ゴブリン小集団と柵作り
炭焼き跡の柵は、三日たっても、まだ少し傾いていた。
倒れてはいない。
でも、まっすぐではない。
朝の霧が薄くなる前に、ミナは木札の前でしゃがみ込んだ。縄を指でつまんで少し引くと、夜露を吸った分だけ重くなっているのが分かった。鳴子は鳴る。けれど、風だけでも鳴りそうな高さだった。
「やっぱり、少し高い」
後ろで、トマがあくびをかみ殺した。
「昨日は低いって言ってなかったか」
「低いところと高いところがあるの」
「面倒な縄だな」
「縄は悪くない。結び目と枝の高さが悪い」
「縄に甘い」
ミナは返事をせず、木札の根元を見る。
炭焼き跡の村側には、低い縄が伸び、木札が垂れている。水桶を置く石、食べ物を置く板、きのこを分けるための古い木板、道具を見せる場所、ミナが通るための隙間。三日前にはただの古い炭焼き跡だった場所が、今は線と置き場と約束で、どうにか形を保っていた。
森側には、枝と倒木を重ねた粗い柵。
ゴブリンたちは、その内側にいた。
座っているもの。倒木に背を預けているもの。怪我人の足を見ているもの。朝から枝の曲がりを気にしているもの。全員が落ち着いているわけではない。それでも、木札の線は越えていない。
「水、足りた?」
キキが木片を抱えて、眠そうに立っていた。最近は朝になると、炭焼き跡と自分の隠れ場所を何度か見比べている。大人ゴブリンたちとは同じ種族でも、まだ馴染めてはいないようだった。
「キキ、聞ける?」
「きく」
「水。足りたかどうか。あと、怪我してるの、悪くなってないか」
「むずかしい」
「うん。分かったところだけでいい」
キキは大人ゴブリンたちへ向き直り、短く鳴いた。人間の言葉も少し混ざる。
「水、ある? いたい、ふえる?」
大人ゴブリンの一体が、水桶を指す。もう一体が怪我人の膝を見る。低い声がいくつか返ってきたが、ミナには分からない。
キキは首を傾げた。
「水、すくない。いたい、まだ」
「水は足す。怪我はまだ見るだけ。触るなら、エル婆に聞いてから」
「エル、ば」
「うん。薬の人」
キキはすぐに疲れた顔になった。
「むずかしい」
「難しいね。今日は、これだけ」
ミナは木札を指す。
「村の中はだめ」
キキは木片を抱え直し、木札を見た。
「村、だめ」
「火はだめ」
「火、だめ」
「道具は先に見せる」
「道具、見せる」
「刃物はまだだめ」
「刃、だめ」
「きのこは、まだ全部食べない。エル婆が見る」
キキは眉間にしわを寄せた。
「きのこ、むずかしい」
「一番難しいかも」
トマがきのこの板を見た。
「ゴブリンよりきのこの方が難しいのか」
「毒があるから」
「まあ、そうだけど」
柵の内側で、大人ゴブリンの一体が古縄を持ち上げた。
すぐに、ミナへ見せる。
少し遅れて、ガルムの目が動いた。
「先に見せたな」
「うん」
「守れている時もある。守れない時もある」
「だから、まだ見てる」
ガルムは弓を下ろさない。
大人ゴブリンは、ミナがうなずくまで動かなかった。ミナがうなずくと、森側の枝を少し押さえ、古縄を絡め、倒木の端を石で止める。
手は早い。
でも、まだ怖い。
枝を持てば武器にもなる。金具を持てば道具にもなるし、刃物にも見える。村人が遠巻きに見ているのは、ただの好奇心ではなかった。そこに恐れがあることを、ミナも分かっている。
「尖らせすぎないで」
キキは大人ゴブリンたちの方を向いた。
「尖る、だめ」
「罠みたいにしない」
「わな、だめ」
「鳴るだけ。引っかけない」
「鳴る、だけ」
鳴子のひもを結び直すと、から、と乾いた音がした。
ゴブリンたちが顔を上げる。森側でも、ロウの耳が少し動いた。
ミナは鳴子を見た。
「……今のは、私」
キキが伝える前に、大人ゴブリンたちは少しだけ力を抜いた。完全に安心したわけではない。けれど、音のあとに何が起きるかを、少し覚え始めている。
水路の方では、ぷるが二つ、ゆっくり流れに沈んでいた。
大きいぷると、小さいぷる。
どちらも水路から出ない。腐った草や泥を取り込みながら、たまにぷる、と揺れる。村の子どもたちは見たがるが、バルドが朝から戸口に立っているせいで近づけない。
「子どもは水路へ行くな。炭焼き跡にも近づくな」
バルドの声は、もう何度目か分からないくらい同じ調子だった。
「見てるだけだよ」
子どものひとりが、木札の手前で足を止める。
「見てるうちに足が向く」
「向かないよ」
「昨日はどうじゃった?」
子どもは黙った。
トマが声を落とした。
「村長、今日も厳しいな」
「昨日、リオが鳴子の紐を触ろうとしたから」
「あれは俺も肝が冷えた」
「鳴子は遊ぶものじゃない」
「ミナも大概だな」
「鳴子は大事」
炭焼き跡の森側で、草が揺れた。
ロウが来た。
右耳の端が欠けた黒い魔狼が、朝の薄い光の中で、影のように立っている。口には肉をくわえていた。昨日よりは小さい。血も少ない。けれど、村人が息を呑むには十分だった。
ロウは、前より少し離れた石の上へ肉を置いた。
水桶やきのこ板からは離れている。
ミナはうなずいた。
「そこならいい。水の近くじゃない」
ロウの耳が動いた。
トマが顔をしかめる。
「通じてるように見えるの、やっぱり怖い」
「通じたかはまだ分からない」
「でも位置変えたぞ」
「見て覚えたのかもしれない」
「それも怖い」
ルシェラが、森番小屋の方からゆっくり歩いてきた。朝からたいそう機嫌がよさそうだった。
「肉の置き場を改めたか。よい献上の形を覚えたではないか」
「献上じゃない」
ミナはすぐ首を振った。
「血が水に入ると困るから、石の上」
「捧げる肉に石座を定めたのであろう」
「石座じゃない。置く場所」
「同じだ」
「違う」
ガルムが肉を見る。
「捌くなら、村側でやる。ゴブリンには刃物を持たせるな」
「うん。こっちで見てから分ける」
大人ゴブリンたちは肉を見ている。目に飢えはある。だが、すぐ飛びつかない。怪我人を見るもの、ロウを見るもの、ミナを見るものもいる。
キキの声が小さくなる。
「肉、待つ」
「うん。待つ」
「分ける」
「分ける」
「奪う、だめ」
「だめ」
バルドの息が重く落ちた。
「……木札の前に固まられておったときよりは、ましか」
「うん」
「認めたわけではない」
「うん」
「だが、柵は役に立っておる」
ミナは木札を見る。
「まだ倒れそうだけどね」
「そこはお前が見ておけ」
「見るよ」
「増やすな」
「何か見つけたら増える」
「それが困るんじゃ」
村人たちは、遠巻きに見ていた。
怖い。
でも、昨日より柵はましだ。
怖い。
でも、森側に枝が積まれたことで、夜中に何かが村へ来る感じは少し薄くなった。
怖い。
でも、ゴブリンたちは木札を越えてはいない。
その三つが、村人たちの顔に同時に出ている。ミナは、それでいいと思った。怖くなくなるのは、まだ早い。
*
昼前、村道の方で犬が吠えた。
トマが振り返る。
「誰か来た」
バルドが杖をつく手に力を入れた。
「今日は商人の日ではないぞ」
「ラダーナの方からだ」
ガルムの目は、村道の先へ向いていた。
村道の先、低い草地を抜けて、一人の男が歩いてきていた。背負子を担ぎ、手には細い杖。隣村の使いだ。服も靴も、よそ行きではあるが、裕福には見えない。
男は村の入口で一度立ち止まった。
水路を見る。
水路の中で、ぷるが二つ揺れる。
男の口が少し開いた。
次に、森番小屋の方を見る。
木札の外にキキがいる。そのさらに森側の炭焼き跡では、大人ゴブリンたちが粗い柵を直している。外側では、金色の目がいくつか木々の奥で光っている。石の上には肉。板の上には、分けられたきのこや木の実。
ミナは木札の前で、縄と鳴子の位置を見ていた。
ルシェラはその後ろに、満足そうに立っていた。
男は、完全に止まった。
「こんにちは」
ミナの声だけは、いつもの調子だった。
男は返事をしなかった。
いや、しようとはしたのだと思う。口が動いた。でも、声にならない。
トマが額に手を当てた。
「最悪のところを見られた気がする」
「最悪って?」
「全部」
バルドが咳払いをした。
「ラダーナの使いか」
男はやっとバルドを見た。
「は、はい。ラダーナ村の、使いで……冬前の薬草と軟膏の相談と、古縄があれば分けていただけないかと。それから、村長から伝言を……」
そこまで言って、男の視線がまた炭焼き跡へ戻る。
大人ゴブリンの一体が、枝を持ち上げていた。
すぐにキキの「見せる」が飛び、大人ゴブリンは慌てて枝を低くする。
ロウが森側で耳を動かす。
ルシェラが、にこりともしない顔で男を見ている。
男の喉が鳴った。
「……あの」
「村には入れてない」
ミナは先に、木札の線を指した。
男は目を瞬かせる。
「はい?」
「村には入れてない。木札の外。火も使わせてない。道具は持つ前に見せてもらってる。刃物はまだだめ。食べ物は板の上。きのこは、確認を終えてから」
男は、ゆっくりミナを見る。
それから、バルドを見る。
「……村長さん」
バルドは深く息を吐いた。
「説明は合っておる」
「合ってるんですか」
「合っておるが、落ち着け。村へ入れたわけではない」
「外にいます」
「そうじゃ」
「柵があります」
「村へ入れぬためじゃ」
「魔狼がいます」
「村側へ近づきすぎぬよう、見ておるだけじゃ」
「見ているだけ、なんですか」
バルドは少し黙った。
「……たぶんじゃ」
男の顔がさらに青くなる。
トマが声を落とす。
「そこは言い切った方がよかったかも」
「嘘はつけん」
「正直すぎるんだよなあ」
ミナは、ラダーナの使いに近づこうとして、足を止めた。相手はすでに十分怖がっている。近づくと、悪い。
「用件、聞くよ。薬草と軟膏だよね。エル婆に聞かないと分からないけど、冬前だから、出せるものは少ないかも。古縄は、こっちも使うから、切れたところだけなら」
男はミナの言葉を聞いているのか、聞いていないのか分からない顔をした。視線はまた炭焼き跡へ戻る。
大人ゴブリンたちが、枝を組んでいる。キキが間に立ち、疲れた声で何かを伝えている。ガルムが弓を持ったまま見ている。ロウが森側で伏せるように座っている。ルシェラが腕を組んでいる。
「……あの子は」
男がキキを指しかけて、すぐ手を下げた。
「通訳」
ミナはキキを見た。
「あの子は通訳。疲れてるから、あんまり話させたくないけど」
「通訳」
男の口の中で、その言葉だけが残ったようだった。
「ゴブリンの?」
「大人ゴブリンたちの言葉、少しだけ拾えるから」
「大人ゴブリンたち」
「うん。十体くらい。怪我してるのもいる」
「十体」
男は、遠い目をした。
トマが横で頭を抱える。
「ミナ、説明が全部そのまますぎる」
「そのまま言わないと分からないでしょ」
「そのまま言うから怖いんだよ」
ルシェラが、そこで満足そうに一歩前へ出た。
「案ずるな。外の群れは、まだ王の内には入っておらぬ」
男の肩が跳ねた。
ミナも跳ねた。
「ルシェラ」
「なんだ」
「余計に怖い」
「安心させてやったのだ」
「今のどこが」
男は、ゆっくりルシェラを見る。その顔は、美しい女を見たという顔ではなかった。人の形をしているのに、人ではないものを見た時の顔だ。
「……王?」
「違う」
ミナの返事は早かった。
「王じゃない。村長もいるし、私は森番の娘。あそこは村の中じゃない。木札の外。今は、炭焼き跡にいるだけ」
「炭焼き跡」
男の目が、もう一度炭焼き跡へ戻る。
「ゴブリンが柵を作って、魔狼が肉を置いている炭焼き跡」
トマが小さくうめいた。
「ほら、こうなる」
バルドが杖の先で、地面を軽く突いた。
「使いの者。見た通り、妙なことにはなっておる。だが、ミストル村はゴブリンを村へ入れてはおらん。火も使わせておらん。村の備蓄を好きに食わせてもおらん。線は引いておる」
「線」
「そうじゃ。線じゃ」
ラダーナの使いは、その線を見た。
木札。
縄。
鳴子。
水桶の石。
食べ物の板。
森側の柵。
魔狼のいる影。
その全部が、男の目には線というより、何かの囲いに見えているようだった。
ミナは、古縄の束を見ていた。
「古縄、どのくらい必要?」
「……え?」
「山羊小屋? それとも荷紐?」
「あ、山羊小屋です。戸のところが緩んで」
「じゃあ、太いのより短い方が使いやすいかも。濡れてないのを選ぶ。薬草は、エル婆に聞くね。軟膏は量が少ないかも。冬前だから」
「冬前……」
男は反射的にうなずいた。
そこだけは分かったらしい。
「冬前は、どこも足りないよね」
その言葉で、男の顔に、ほんの少しだけ仕事の色が戻った。
「はい。こちらも、縄も薬も足りなくて。山羊小屋の戸が悪くなると、夜に開いてしまうので」
「山羊は押すから」
「押します」
「横木、足してる?」
「古いのが折れて」
「じゃあ、縄だけじゃまた緩むかも。曲がった釘があれば、次に持ってきて。こっちで叩けるか見る。使えるなら、縄と交換できるかも」
男は、ようやく少しだけ呼吸を取り戻した。
「分かりました」
トマが横でぼそっとこぼした。
「ここだけ見ると普通の村同士の相談なんだけどな」
ミナは炭焼き跡を見る。
大人ゴブリンたちが、こちらを見ていた。キキも見ている。ロウも見ている。ルシェラも、なぜか満足そうに見ている。
ミナは少しだけ困った。
「普通だよ。山羊小屋の話だし」
「周りを見ろ」
「見てるよ。鳴子、やっぱり高い」
「そこじゃない」
ラダーナの使いは、エル婆の家へ案内され、軟膏と薬草の話をして、昼過ぎには帰ることになった。
*
帰る前、彼はもう一度、炭焼き跡を見た。
その時ちょうど、大人ゴブリンの一体が木札の前へ近づきかけ、キキに止められた。
「だめ。村、だめ」
ゴブリンは足を止めた。
ミナは水桶を持って木札の前まで行き、石の上に置いた。線の向こうで待っているゴブリンへ手渡しはしない。置いて、下がる。ミナが二歩離れてから、ゴブリンがようやく水桶へ手を伸ばした。
森側では、ロウが動かないままそれを見ている。村道の脇では、ルシェラが腕を組み、まるで当然の儀式でも見届けるように立っていた。
使いは、言葉を失ったまま見ていた。
「これは……」
「水を置いてるだけ」
ミナは石の上の水桶を見たまま、少しだけ手を引いた。
「近づいて手渡しすると、線の意味がなくなるから」
「線」
「うん。線」
使いは、もう何度目か分からないくらい振り返りながら、村道を戻り始めた。
バルドがその背中を見送る。
「……ラダーナで、どう伝わるかの」
トマが遠い目をした。
「あれ、ラダーナでどう説明されるんだろうな」
ミナは首を傾げる。
「そのまま言えばいいでしょ」
「そのまま?」
「村には入れてない。火も使わせてない。道具は見せてから。きのこはまだ食べない」
トマは胃のあたりを押さえた。
「きのこはなんなんだよ」
「でも、間違ってないよ」
「間違ってないのが怖いんだよ」
その時、風が吹いた。
炭焼き跡の村側に張った鳴子が揺れる。
から。
ゴブリンたちが、一斉に顔を上げた。ロウの耳が動く。水路のぷるが、二つとも小さく沈んだ。ラダーナ村の使いが、遠くでびくりと肩を揺らす。
ミナだけが、鳴子の結び目を見ていた。
「……やっぱり、少し高いかな」
トマが小さく息を吐いた。
「そこなんだよなあ」
「そこだよ」
ミナは真面目にうなずく。
ラダーナ村へ向かう道の向こうで、使いはもう一度振り返った。彼の目には、何が見えていたのだろう。
水路に揺れるスライム。木札の外の子ゴブリン。炭焼き跡の大人ゴブリンたち。森側の魔狼。石の上の肉。板の上のきのこ。
そして、鳴子の高さを気にしている森番の娘。
ミナには分からなかった。
分かったのは、明日の朝、鳴子を結び直すこと。
それから、ラダーナの山羊小屋に使える短い縄を探しておくことだった。




