第25話 ゴブリンたちの柵作り
第1部:辺境領と教会編
第5章:ゴブリン小集団と柵作り
大人ゴブリンたちは、まだ頭を低くしていた。
炭焼き跡の黒い土に膝をつき、棒や欠けた金具を横へ置いている。
怪我人を支えていた二体も、腹を押さえていた一体も、昨日ずっと縄の結び目を見ていた一体も、みんな同じように動かない。
ミナだけが、どうしていいか分からなかった。
「頭、上げていいよ」
返事はない。キキが隠れ場所の方から出てきて、木片を抱えたまま立ち止まった。まだ眠そうなのに、耳だけはぴんと立っている。
「キキ、これ、どういうこと」
「ゴブ……」
キキは頭を下げた大人ゴブリンたちを見て、それからミナを見た。少し困ったように首を傾げた。
「ミナ、すごい」
「すごくない」
「すごい」
「水、足りなかった? 昨日の場所、だめだった? 怪我してるの、悪くなってない?」
キキはさらに困った顔をした。後ろでは、ルシェラが満足そうに腕を組んでいる。
「礼であろう」
「礼?」
「外の群れが、王の外郭に伏したのだ」
「王じゃないし、外郭でもない」
ミナはすぐしゃがみ込み、木札を見た。一枚、少し傾いていた。
縄も緩んでいた。夜露で湿り、古い結び目が少しほどけかけている。鳴子は吊った位置が低すぎて、風で鳴りそうだった。水桶の周りの土はぬかるみ、食べ物を置いた板は半分ずれている。
怪我人を座らせた倒木の陰も、思ったより狭い。ミナは息を吐いた。
「やっぱり、木札と縄だけだと弱い」
トマが眠そうな目をこする。
「朝一番に見るところ、そこなんだな」
「倒れたら困るでしょ」
「まあ、困るけどさ。今この状況で最初に見るのが縄なの、ミナだなって」
「縄が倒れたら、誰もどこまでいいか分からなくなる」
ガルムの手は、弓から離れなかった。
「分からなくなれば、迷う」
「うん。だから直す」
「誰がだ」
ミナは答えようとして、止まった。昨日、縄の結び目を見ていた大人ゴブリンが、そっと顔を上げていた。背は低い。頬は痩け、目はくぼんでいる。手はまだ金具へ伸びていない。けれど、視線は木札と縄に貼りついていた。
そのゴブリンが、ゆっくり手を上げる。
ガルムの弓が、すぐ上がった。
「動くな」
大人ゴブリンは固まった。ほかのゴブリンたちも身を縮め、ロウたちの金色の目が森側の霧の中で少し動く。
ミナは手を上げた。
「待って。たぶん、縄を見てる」
「たぶんで道具を持たせるな」
「うん。だから、先に決める」
ミナはキキへ視線を向けた。
「キキ、言える?」
「むずかしい」
「難しいね。でも、言えるところだけでいい」
ミナは自分の手を胸の前に上げ、ゆっくり見せた。
「触るなら、先に言う。道具を持つなら、先に見せる。金具は低く。上げない」
キキは眉間にしわを寄せた。
「先、いう。道具、見せる。金具、低い。上げる、だめ」
「うん」
キキは大人ゴブリンたちへ向き直った。疲れた声で短く鳴き、途中に人間の言葉を混ぜる。
「先、いう。金具、見せる。上げる、だめ。ミナ、見る」
大人ゴブリンたちがざわめく。縄を見ていたゴブリンは、ゆっくり金具を両手で持ち上げた。高くはない。胸より下。刃物ではなく、先が欠けた古い金具だった。板の隙間をこじる道具にも、武器にも見える。
ガルムの弓は下りない。ミナは近づかず、木札の内側で見た。
「それで縄を直すの?」
キキが大人ゴブリンへ顔を向ける。
大人ゴブリンの口が短く動いた。キキは首を傾げて、少し考える。
「なおす。しばる」
「分かった。私が見てるところだけ」
「ミナ、見る。だけ」
キキが伝えると、大人ゴブリンはおそるおそる立った。膝が少し震えている。怖がっているのは、村人だけではない。ゴブリンも、ガルムの弓とロウたちの目とルシェラの気配を同時に浴びている。
「トマ、縄の端を持って」
「俺?」
「うん。触るところを見せる」
トマは少しだけ顔を引きつらせたが、縄の端を持った。
大人ゴブリンが近づく。
一歩。
止まる。
ミナがうなずくと、もう一歩。そこからようやく、縄を指でつまんだ。
指は細く、爪は欠けている。でも、結び目を見る目は妙に落ち着いていた。金具の先で古い結び目をほどき、縄の濡れた部分を避け、乾いたところへ回す。割れ板の穴へ通し、二重に巻いて、最後にきゅっと引いた。
鳴子の木片が、から、と小さく鳴る。強くはない。でも、さっきよりは垂れていない。
トマの声が小さく落ちた。
「うまいな」
ガルムの弓は、まだ下りなかった。
「うまいことと、安全なことは別だ」
「うん」
ミナは結び目から目を離さなかった。
「だから、見ながら」
大人ゴブリンは結び目から手を離し、すぐ下がった。その動きが早すぎて、ミナは少し驚いた。褒められるのを待つというより、間違えて噛まれない位置へ戻ったように見えた。
ルシェラが、ふむ、と喉を鳴らす。
「手は悪くない」
「悪くない、で済ませるなよ」
トマが小声で言う。
「これ、始まったら止めるの大変そうだぞ」
「止める。危ないところは止める」
ミナは傾いた木札、緩んだ縄、そして炭焼き跡の森側を見た。森側は、ほとんど開いていた。
昨日は追い詰めないためにそうした。逃げ道を全部塞げば、怖がって暴れるかもしれない。けれど今朝になって見ると、大人ゴブリンたちは森側を何度も気にしている。
ロウたちがいるからだ。金色の目は、霧の奥で静かに動く。近すぎない。離れすぎない。噛まない。でも、そこにいる。
「森側、そんなに怖いの?」
キキが大人ゴブリンたちを見る。何体かがすぐうなずいた。あるいは、身を縮めた。違いはよく分からない。
「森、こわい」
キキの耳が、少し伏せ気味になる。
「ロウ、こわい」
「ロウが怖いのは分かるけど、全部は塞がない」
ミナは森側の倒木を指した。
「あそこは少し。こっちは空ける。逃げる道もいる」
キキはまた困った顔になる。
「ふさぐ。少し。あく。少し」
「うん。全部じゃない」
「むずかしい」
「難しいね」
大人ゴブリンたちは、枝と倒木を見始めた。それは、昨日までとは違う目だった。
食べ物を見る目でも、村人を怖がる目でもない。倒れた木を、割れ板を、石を、古縄を、使えるかどうか見ている目だ。一体が倒木の端へ寄る。別の一体が石を拾う。怪我人を支えていた二体のうち片方が、座ったまま細い枝を折った。
ガルムが眉を寄せる。
「動かしすぎだ」
「止めるところは止める」
「全部は見きれんぞ」
「だから、道具は見せてから」
ミナは声を上げた。
「キキ。先に言って。道具を持つなら、見せてって」
「先、いう。道具、見せる」
キキはふらつきながら伝える。
大人ゴブリンたちは完全には守れなかった。一体が先に枝を拾い、ガルムに睨まれて固まる。別の一体は石を持ち上げてから、慌ててミナへ見せる。金具を持つ個体は何度も手元を低くして、見せているつもりなのか、隠していないと示しているつもりなのか分からない動きをした。
怖い。でも、昨日よりは少しだけ、順番がある。ミナは木札のそばに立ち、ひとつずつ止めていった。
「尖らせすぎないで」
キキが伝える。
「尖る、だめ」
「刺すためじゃないよ」
「さす、だめ」
「槍みたいにしない」
「やり……?」
キキは首を傾げる。
トマが横から、長い棒を突き出すような身振りをする。
「長くて尖ってて、刺すやつ」
キキは目を丸くした。
「さす、だめ」
「それでいい」
ゴブリンたちは、森側に枝を寄せたがった。
太い枝。倒木。割れた板。不揃いの石。
森から見れば、通りにくくなる。ロウたちから少しでも距離を取りたいのだろう。だが、厚くしすぎれば、今度は逃げ道がない。火事や獣や別の魔物が来た時、窪地の中で詰まる。
「ここ、空ける」
ミナは隙間を指した。
「でも村側へは来ないで。こっちは低くていい。木札と縄だけでも」
キキが伝えると、大人ゴブリンたちは村側の低さに怪訝な顔をし、その中の一体の口が低く動いた。
キキは耳を伏せる。
「ミナ、くる」
「私?」
キキは村側の低い隙間を指した。
「ミナ、くる。ここ、あく」
ミナはしばらく意味が分からなかった。トマが、先に分かった顔をした。
「それ、お前用の入口じゃないか?」
「私用の入口じゃない」
「外から見たら完全に入口だぞ」
「違う。水と食べ物を置く場所。あと、私が通れないと困るだけ」
「それを入口って言うんだよ」
「入口じゃない。通り道」
ルシェラが満足そうにうなずく。
「王の通る門か」
「門じゃない」
「小門」
「通り道」
「小さき門」
「ルシェラ」
「むう」
ゴブリンたちはその間にも働いていた。働く、といっても、きれいな作業ではない。枝は曲がっている。石は不揃い。縄は古い。板は割れている。杭にするには細すぎる枝も混じる。押せばぐらつきそうなところもある。
それでも、手は早かった。
二体で倒木をずらす。一体が枝を絡める。別の一体が古縄を結び直す。怪我人のそばにいる一体は、座ったまま木片を削り、隙間へ差し込む小さなくさびのようなものを作っている。
ガルムはずっと弓を下ろさなかった。バルドは途中で村側から来て、できかけの柵を見て、渋い顔をした。
「これは……」
「倒れにくくしてるだけ」
ミナは先に口を挟んだ。
「お前にはそう見えるのじゃろうな」
「違うの?」
バルドは炭焼き跡を見た。
森側には枝と倒木が厚く積まれ、村側には低い木札と縄が伸びている。その間に大人ゴブリンたちがいて、キキがふらふらと行き来し、ロウたちが森側で金色の目を光らせていた。ルシェラは満足げに見ている。トマは縄を抱え、ガルムは弓を持っている。
村人が戸の隙間から見れば、どう見えるか。ミナにも少し分かってしまった。
「……でも、木札だけよりはまし」
バルドの声が低く落ちた。
「正式に置いたわけではない。村へ入れるわけでもない。だが、木札だけよりはましじゃ」
「うん」
「わしは認めたわけではないからな」
「うん」
「食い物も、村の分は出さん」
「出さない」
バルドはもう一度渋い顔をして、村側へ向いた。少し離れたところで、村人が何人か見ていた。
「柵を作ってるぞ」
「ゴブリンの場所ができるのか」
「魔狼もいる」
「ミナが指示してるみたいだ」
「指示じゃない」
ミナの声は小さかった。横でトマが肩をすくめる。
「まあ、外から見たら、指示してるようには見える」
「見えるだけ」
「見えるだけって、けっこう強いぞ」
昼近く、森側でロウが動いた。金色の目が木々の間から消え、しばらくして低い草が揺れる。別の一頭が先に現れ、口には野兎よりずっと大きい獣の脚をくわえていた。
血はかなり落ちている。それでも、土に赤黒い跡がついた。
村人たちが一斉に息を呑む。大人ゴブリンたちも固まる。ゴブリンの一体が、肉を見て目の色を変えかけ、隣の個体に腕をつかまれた。
ロウが、後ろから出てくる。右耳の端が欠けている。ロウは肉を、炭焼き跡の森側へ置いた。
ゴブリンたちのすぐ前ではない。ミナの足元でもない。昨日まで肉を置いていた石とも違う。森側の、黒い土の端だ。ロウは、ゴブリンたちから二歩分ほど離れた場所を選んでいた。
「……肉」
キキの声が小さく漏れた。
ルシェラが目を輝かせる。
「肉だな」
「まず見る」
ミナはすぐ手を上げた。
「すぐ取らないで。血が水の方へ流れないようにする。葉か板がいる。あと、誰が捌くの?」
トマが頭を抱えた。
「そこからか」
「そこから。肉は助かるけど、置かれたら終わりじゃない。血抜き、解体、保存、分け方。塩もいる」
「塩はないぞ」
バルドの眉間のしわが深くなる。
「分かってる。だから干し肉にはあまりできない。今日は食べる分と、骨を煮る分。残すなら少しだけ」
「村の備蓄からは」
「出さない。これを全部、村の分にはしない。ロウが持ってきた肉は、まず線の外で処理する」
ロウは静かにミナを見ている。食べ物を持ってきたという顔ではない。命令を聞いたという顔でもない。ただ、置いた。それだけだった。
「ロウ、次から水の近くに置かないで。あと、葉っぱか石の上」
ロウの耳が動く。
トマが横でつぶやいた。
「通じてるように見えるのが怖い」
「通じたかは分からない」
「それも毎回怖い」
ガルムの視線は肉へ落ちていた。
「捌くなら、わしがやる。ゴブリンには刃を持たせるな」
「うん。刃物はまだだめ」
キキが伝える。
「刃、だめ。肉、待つ。ミナ、見る。ガルム、見る」
大人ゴブリンたちは肉を見ている。
飢えは、目に出る。
それでも、すぐに飛びつく個体はいなかった。昨日の薄い汁より、ずっと強い匂いのはずなのに、怪我人へ視線を向けるものがいる。森側のロウを見るものもいる。ミナを見るものもいる。
「働いた分は、少し食べていい」
ミナはひとつずつ区切るように続けた。
「でも、奪わない。怪我してる相手の分も残す。食べる前に分ける」
キキは疲れた声で繰り返す。
「働く、食べる、少し。奪う、だめ。怪我、残す。分ける」
「キキ、疲れたら休んで」
「キキ、つかれた」
「うん。休んでいい」
「でも、いう」
「ありがとう。でも、少し休んで」
キキは少し迷い、それから木札の陰に座り込んだ。木片を膝に置き、まだ聞こうとしている。その時、ミナはゴブリンたちが森側に置いた別のものに気づいた。
木の実。
小さな果実。
草の根。
きのこ。
葉で包まれたものもある。
いつの間に採ってきたのか、何体かの大人ゴブリンが、それをそっと前へ押し出していた。柵材を集めるついで、森の縁で拾っていたのかもしれない。
一体がミナを見て、それから木の実の山を指す。キキが顔を上げた。
「ゴブ、これ」
「私に?」
「ミナ」
「いや、まず自分たちで食べて」
大人ゴブリンたちは動かない。
ルシェラの声が、たいそう満足そうに弾んだ。
「肉を納め、森の実りを捧げるか」
「捧げないで」
ミナはきのこの山を見る。灰色のもの。茶色のもの。傘の裏が白いもの。やけに赤い筋の入ったもの。
「待って。きのこは先に見る」
トマが覗き込む。
「あ、これ、まずいやつ混じってないか?」
「混じってるかもしれない。きのこはきのこ。木の実は木の実。草根は草根で分けて。混ぜないで」
キキがすぐ聞き返す。
「まぜる、だめ?」
「うん。毒があるかもしれないから」
「どく」
「食べたらお腹が痛くなったり、死んだりするやつ」
キキの顔が青くなる。
「だめ」
「だから見る」
ミナは手を伸ばしそうになって、止めた。
まだ距離がいる。
「トマ、古い板もう一枚。きのこ用。木の実用。草根用」
「はいはい。完全に仕分けだな」
「仕分けしないと危ない」
「外から見たら、献上品を受け取ってるように見えるぞ」
「見た目より毒きのこ」
「それはまあ、そうだな」
ミナは板を三枚置いた。自分で近づきすぎず、キキに指差しで示し、キキが大人ゴブリンへ渡す。きのこはきのこ。木の実は木の実。草根は草根。最初はいろいろ混ざった。赤い筋のきのこが木の実の中へ入る。
ミナが止めた。
「それ、こっち。まだ食べない」
「たべる、だめ」
「まだ見るだけ」
「見る」
大人ゴブリンたちは不安そうにきのこを見た。今まで食べていたものもあるのかもしれない。ゴブリンと人間では、危ないものが違う可能性もある。そこまで考えると、さらに面倒になった。
「エル婆にも見てもらう」
「また増えた」
トマが板の数を見たまま、肩を落とす。
「増えた」
「柵と肉ときのこか」
「あと水桶のぬかるみ」
「やめろ。増やすな」
「見つけたら増えるんだよ」
*
午後には、炭焼き跡の周りに、粗い柵の形ができていた。
森側は厚い。
倒木と枝と割れ板が重なり、石で足元を押さえてある。押せばぐらつく。けれど、何もないよりは通りにくい。ところどころ尖りすぎた枝は、ミナとガルムが止めた。罠のように縄を引こうとした箇所も、すぐほどかせた。
村側は低い。木札と縄が中心で、鳴子が二つ。水と食べ物を置く板の前は空いていて、ミナが通れるくらいの隙間もある。
「やっぱり入口だよな」
トマの視線は、村側の隙間に向いていた。
「通り道」
「入口だって」
「通り道」
「頑固だな」
「入口にしたら、入っていいみたいに見える」
「もう見た目はだいぶ手遅れだぞ」
ミナは返事をしなかった。見れば見るほど、たしかに不穏だ。
古い炭焼き跡。黒い土。森側に厚い柵。村側に木札と鳴子。中には大人ゴブリンが十体ほど。外側には金色の目。横には肉を置いた板と、きのこと木の実を分けた板。
ルシェラは満足そうに見ている。
ガルムは弓を持って見張っている。
バルドは渋い顔のまま、何度も村側の線を確かめている。
村人たちは近づかない。少し離れたところから見て、すぐ戸の陰へ戻る。
「拠点みたいだ」
戸の陰から、誰かの声が落ちた。
ミナは聞こえないふりをした。聞こえなかったことには、ならないけれど。
「まだ、できあがりじゃない」
ミナは柵の傾いたところを指で示した。
「押したらぐらつくし、縄も古い。釘は曲がってる。板も割れてる。森側だけ厚すぎる。村側は低い。鳴子の位置も、もう少し上」
「お前、意外とよく見てるな」
トマが柵とミナを見比べる。
「倒れたら困るから」
「でも、なんか怖いな」
「うん」
ミナはうなずいた。
「怖い。だから、まだ見ながら」
ガルムの声が短く挟まる。
「役に立つことと、安全なことは別だ」
「うん」
大人ゴブリンたちは、柵の内側で座り始めていた。
全員が落ち着いたわけではない。肉を見る目はまだ荒い。ロウの方を見るたびに肩が動く。村人が声を上げると、棒を探す手もある。でも、朝よりは少しだけ、動きが揃っている。
木札を越えない。村側へ来ない。道具を持つ時は、少しだけ見せようとする。それだけでも、昨日とは違っていた。
キキは木札の陰で座り込んでいる。目が半分閉じていた。
ミナはそばにしゃがんだ。
「キキ、今日はもう休んで」
「むずかしい」
「うん。難しかったね」
「つくる。しばる。さす、だめ。まぜる、だめ」
「たくさん覚えたね」
「キキ、つかれた」
「うん。休もう」
キキは木片を抱え直し、炭焼き跡の方を見た。
「ゴブ、ここ」
「うん。今はここ」
「ミナ、くる」
「来るけど、入口じゃないよ」
キキは眠そうな顔で首を傾げた。
「いり……?」
「いい。今のは難しい」
「むずかしい」
「うん」
夕方、炭焼き跡の影が長くなった。
火はない。煙もない。
その代わり、黒い土の上に肉の血の跡と、分けたきのこの板と、木の実の山と、倒木を重ねた柵がある。
ミナは最後にもう一度、木札を確かめた。
村側の線は、まだ低い。でも、見える。
森側の柵は、厚い。でも、完全ではない。
水を置く場所は残っている。食べ物の板も残っている。
ミナが通れる隙間も、残っている。
「今日はここまで」
ミナは木札の縄から手を離した。
大人ゴブリンたちが一斉にこちらを見る。全員が意味を分かったわけではないだろう。
でも、キキが小さく繰り返した。
「ここまで」
大人ゴブリンの一体が、低く頭を下げた。続いて、何体かが同じようにする。
ミナは慌てた。
「頭は下げなくていい。明日も見る。まだ村には入れない。火もだめ。肉は分けてから。きのこは、まだ食べない」
トマの口元が少し緩む。
「礼を受けるより、注意が多い」
「注意の方が大事」
ルシェラは満足げに顎を引いた。
「食と役目を分け、境を定め、外の群れを柵の内に置く。見事な采配だ」
「采配じゃない」
「では、何だ」
「倒れにくい線と、食べる前の確認」
「小娘は本当に名を小さくする」
「大きくすると、村長の胃が痛くなるから」
少し離れたところで、バルドが本当に腹のあたりを押さえていた。
「聞こえておるぞ」
「ごめん」
「謝るなら、これ以上増やすな」
ミナは炭焼き跡を見る。
木札。縄。鳴子。肉。きのこ。木の実。水桶。柵。
増えていた。かなり増えていた。
「……今日は、もう増やさない」
「今日は、か」
トマの目が少し細くなる。
「今日は」
ミナは木札の方へ目を戻した。
森側では、ロウの金色の目が静かに光っている。柵の内側では、大人ゴブリンたちが肉と木の実を見ている。村側では、人間たちが戸の隙間からこちらを見ていた。
ミナにとっては、倒れそうな線を少し直しただけだった。でも、夕方の薄い光の中で見る炭焼き跡は、もう昨日までの古い窪地には見えなかった。
黒い土の上に、ゴブリンたちが座っている。
森側には魔狼。村側には木札と鳴子。その間に、粗い柵と、肉と、森の実りが並んでいる。
ルシェラの声が、ひどく楽しそうに響いた。
「外から見れば、よい前哨であろうな」
「前哨じゃない」
ミナはすぐ木札を押さえ直した。
「柵が倒れないか見てるだけ」
「うむ。その調子で見ておけ」
「だから違う」
トマが、できかけの柵を見て、遠い目をした。
「これ、誰かに見られたら説明できるかな」
ミナはしばらく考えた。
「できるよ」
「本当か?」
「村には入れてない。火も使わせてない。食べ物も村の分じゃない。尖った杭も止めた。きのこもまだ見てる」
「説明が全部怖いんだよな」
「怖いから見てるの」
ミナは木札を握り直した。
風が吹いて、鳴子が小さく鳴る。
から。
炭焼き跡のゴブリンたちが、一斉に顔を上げる。ロウの耳が動く。村人たちの戸が、少しだけ閉まる。
ミナだけが、鳴子の結び目を見ていた。
「やっぱり、少し低い」
誰も笑わなかった。
でも、トマだけが小さく息を吐いた。
「そこなんだよなあ」
「そこだよ」
ミナは真面目な顔で、鳴子の位置を見直した。
木札の外に、新しい場所ができた。ミナにとっては、まだ倒れそうな線だった。ゴブリンたちにとっては、たぶん、少しだけ守られた場所だった。村人にとっては、怖い場所だった。ルシェラにとっては、どう見ても外郭だった。
そして森の奥から見れば、そこには、魔狼が肉を置き、ゴブリンが柵を作り、森番の娘が食べ物と道具の位置を決めているように見えた。
ミナはそこまで考えなかった。
考えたのは、明日の朝、鳴子を少し高く結び直すことと、きのこをエル婆に見てもらうことだった。




