第24話 木札の外の新しい場所
第1部:辺境領と教会編
第5章:ゴブリン小集団と柵作り
木札の前に、大人ゴブリンたちは固まっていた。
村へは入れない。
それはもう決めている。けれど、木札のすぐ外に置いておくには近すぎた。ミナは木札を握ったまま、畑、水路、家畜小屋の屋根、子どもたちが隠れている戸口、薪置き場の裏を順に見た。どこを見ても、村の暮らしに近い。近すぎる。
大人ゴブリンたちは、まだ棒や欠けた金具を持っている。いくぶん下げてはいるが、手放してはいない。怪我人を支える二体は膝に力が入っておらず、腹を押さえているものもいた。
怖い。
弱っている。
どちらも本当だった。
ミナの手が、握っていた木札を少しだけ強く押さえた。
「ここはだめ」
キキが、疲れた顔でミナを見る。
「ここ、だめ?」
「うん。村に近すぎる」
キキは木札を見て、それからゴブリンたちを見た。耳を伏せたまま、喉の奥で小さく鳴る。
「ゴブ、ここ……だめ」
大人ゴブリンたちがざわめいた。一体が村側を見る。戸の隙間から見ている村人と目が合ったらしく、すぐに顔をそらした。
バルドが杖を強く握る。
「村へは入れんぞ」
「入れない」
ミナも木札の前から動かなかった。
「でも、ここにも置けない。畑が近いし、水路も近い。家畜小屋も、子どもも近い」
「ならば、森へ戻せ」
「ロウがいる」
バルドは森側を見た。金色の目は、まだそこにある。ロウたちは噛まない。けれど、下がってもいない。ゴブリンたちが森へ戻ろうとすれば、また道を塞ぐだろう。
ガルムの視線が、森側の影へ向いた。
「森へ押せば、散る。散れば追うことになる」
「うん。追い回したら危ない」
「だからといって、村の前に置くわけにもいかん」
「だから、別の場所を見る」
トマが顔をしかめた。
「別の場所って、どこだよ」
「畑から離れてて、水路にも近すぎなくて、家畜小屋から見えすぎなくて、村道をふさがなくて、森の奥すぎないところ」
「注文が多いな」
「多い」
「それ、あるのか?」
「見る」
「出た」
ミナはトマを見る。
「木札。縄。鳴子。水桶。あと、古い板があったら持ってきて」
「俺?」
「うん。私は場所を見る」
「一人で行くなよ」
「行かない。ガルムさんと見る」
ガルムが短くうなずく。
「行く」
「じゃあ俺、取りに行く。木札は何枚?」
「あるだけ。新しい板はだめ。割れ板でいい」
「分かった。どうせまた増えるんだろ」
「増える」
トマは走り出そうとして、すぐ振り返った。
「食べ物は?」
ミナは少し黙る。
大人ゴブリンたちは、その言葉の意味が分からなくても、音には反応した。腹を押さえた一体が目を上げる。
「少しだけ。くず根菜と薄い汁。置いて下がってから。肉は出さない」
「……肉は?」
横から伸びたルシェラの声に、ミナは鍋の方を見ないまま首を振った。
「出さない」
「わたしの分は」
「今それどころじゃない」
「それどころでなくとも、腹は減る」
「ルシェラは後で」
「むう」
トマが少しだけ笑い、すぐ顔を戻して走っていった。
ミナはゴブリンたちから目を離さないまま、ガルムに声をかける。
「候補を見る。森番小屋の横はだめ。近すぎる」
「畑端もだめだ」
「うん。水路の下流もだめ。ぷるがいるし、水が汚れたら困る」
水路の奥で、ぷるが二つ、小さく揺れた。聞こえたのか、匂いで分かるのかは分からない。ただ、いつもより底に沈んでいる。
「森奥は」
「ロウたちの側になりすぎる。ゴブリンたちが怖がる」
ガルムは森の影を見る。
「古い炭焼き跡」
ミナも、同じ場所を思い出していた。
森番小屋から少し南。村道から外れ、畑からは低い斜面ひとつ分離れている。昔、炭焼きに使っていた丸い窪地があり、今はほとんど使っていない。雨の後は少しぬかるむが、水路からは離れている。火を使わせるには危ない。でも、火を使わせなければ、今夜座るくらいはできる。
「炭焼き跡、見る」
バルドが眉を寄せた。
「あそこは村道から外れる。見張りにくい」
「でも、村に近すぎない。畑からも離れる」
「森からは近い」
「だからロウは外側。村側はガルムさんたち」
「魔狼を見張りに数えるな」
「数えない。近づけないために、外側を見るだけ」
「言い方は違うが、やっておることは怖いぞ」
「私も怖い」
バルドは言い返さなかった。
ルシェラが腕を組み、満足そうにうなずく。
「村の外に新たな境を置き、森の牙を外へ配し、内には人の目を立てるか。外郭としては悪くない」
「外郭じゃない」
ミナはすぐにルシェラを見た。
「仮の場所。今夜だけ」
「今夜だけの外郭だな」
「外郭はやめて」
「では、仮の外郭」
「仮の場所」
「むう」
ルシェラは不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
キキが、膝をついたままミナの袖を見た。触りはしない。ただ、見ている。
「キキ、言える?」
「むずかしい」
「難しいね。言えるところだけでいい」
ミナは地面を指す。
「ここ、だめ」
次に、少し南の森側を指した。
「あっち、見る。まだ、いい、じゃない」
「見る」
「うん。武器は上げない。走らない。ロウに近づかない。村にも近づかない」
キキは眉間にしわを寄せる。
「むずかしい」
「うん。難しい」
「キキ、いう」
「お願い」
キキは大人ゴブリンたちへ向き直った。短く鳴く。ゴブリンの音が混じる。人間の言葉も混じる。
「ここ、だめ。あっち、見る。武器、上げる、だめ。走る、だめ。ロウ、近い、だめ」
大人ゴブリンたちがざわめく。一体がロウを指し、別の一体が首を振る。怪我人を支えた二体は、移動という言葉だけで顔色を変えたように見えた。
キキも怯えていた。それでも、木片を胸に寄せたまま、もう一度口を開く。
「ミナ、いる。見る」
その一言で、少しだけざわめきが弱くなった。
ミナは息を吸う。
「見るだけ。まだ決めてない」
キキはもう一度、大人ゴブリンたちへ向き直った。
大人ゴブリンたちは完全には納得していない。それでも、棒を胸の前で低く持ち直した。欠けた金具を持つ一体も、手を下げる。
ガルムの弓は、まだ下りない。
ミナたちは、まず森番小屋の横を見た。
小屋に近い。キキの隠れ場所にも近い。道具置き場もある。水桶を置くには便利だが、村側からも見えすぎるし、なにより近すぎる。
「ここはだめ」
「近いな」
ガルムは小屋の壁と道具置き場を見比べた。
ルシェラは首を傾げた。
「守りやすいではないか」
「近すぎる。怖がる人もいるし、道具もある」
「道具か」
「釘も縄もある。武器にもなる」
「むう」
次に畑端を見る。
南の畑の向こうには、低い草地が広がっていた。見晴らしはいい。だが、根菜の畝が近い。秋の土の匂いも強い。腹を空かせた大人ゴブリンたちをここへ置いたら、夜のうちに畑へ入る理由を作ってしまう。
「ここもだめ」
「畑が近い」
「うん」
「食うなと言っても、食うかもしれん」
責める声ではない。ただ、当たり前の危険だけがそこにあった。
「お腹が空いてるからね」
「それを分かって置くな」
「うん」
水路の下流も見た。
水は細いが、ぷるたちが泥を取っている場所だ。草の根が多く、足を滑らせやすい。もし血や泥を流されれば、村の水へ影響が出る。
「ここもだめ。水があるから」
「水があるならよいではないか」
ルシェラの目は、細い水の流れを面白そうに追っている。
「水路は村の水。汚れたら困る。ぷるもいる」
水路の奥で、大きいぷるがゆっくり沈んだ。小さいぷるも、遅れて沈む。
トマが、木札と縄を抱えて戻ってきた。
「持ってきた。木札、七枚。割れ板が三枚。鳴子用の木片。水桶はナナの母さんが貸してくれるって。食べ物は今、薄い汁を温めてる」
「ありがとう」
「次、炭焼き跡を見る」
「やっぱりそこか」
「うん」
「暗くなる前に終わるか?」
「終わらせる」
「言い切ったな」
「終わらないと困る」
古い炭焼き跡は、村道から外れた斜面の下にあった。
木々の間に、黒ずんだ丸い窪地が残っている。昔、土をかぶせて炭を焼いた場所だ。今は草が生え、端には倒木が一本横たわっている。石もいくつか転がっていて、中央の土は少し黒い。
ミナはまず、地面を見る。
柔らかすぎない。雨が来たら水は溜まりそうだが、今夜だけなら座れる。窪みの端は低く、怪我人を隠すような陰もある。倒木の裏は風を避けられる。ただし、火を使えば炭の匂いと煙が森へ流れる。
「火はだめ」
ミナは、黒い土と湿った枝を見て最初に決めた。
トマは周囲を見回す。
「まあ、炭焼き跡で火を使うなってのも変な話だけどな」
「今はだめ。火が見えたら村人が怖がるし、森にも近い。夜に火を持って動かれたら困る」
ガルムがうなずく。
「火を使わせるな。火種も渡すな」
「うん」
バルドは足元を杖でつついた。
「村道から外れておる。だが、声は届くか」
「大声なら届く。鳴子も置く」
「畑からは」
「斜面ひとつ分、離れてる。畑へ行くなら木札と縄を越えることになる」
「水路は」
「遠い。水はこっちで桶に入れて置く」
「家畜小屋は」
「見えない。匂いも風上なら届きにくい」
ガルムが風を見た。
「今の風なら、村側から森へ流れる。夜に変わるかもしれん」
「なら、食べ物を置く石は村側じゃなくて横」
ミナは窪地の端にある平たい石を指した。
「ここに水。食べ物はあの板。怪我人は倒木の陰。村側には来ない。森側にも走らない」
トマがぽかんとした顔をする。
「ちゃんと場所を決めてないか?」
「今夜だけ」
「今夜だけでも、だいぶ決めてるぞ」
「決めないと、全員困る」
ルシェラは満足げにうなずいた。
「外の群れへ水場と糧台と臥所を定めるか」
「水を置く石と、食べ物の板と、座る場所」
「同じであろう」
「同じじゃない」
「小娘は名を小さくするのがうまいな」
「大きくすると怖いから」
その頃、大人ゴブリンたちは木札前からゆっくり移動を始めていた。
キキが前にいる。前といっても、先導というより、少し先で振り返り続けているだけだった。大人ゴブリンたちは怪我人を支え、棒を低く持ち、ロウたちの影を何度も見る。
ロウたちは外側を動く。
噛まない。吠えない。ただ、森へ戻る道をふさぐ位置に立つ。
それを見るたび、大人ゴブリンたちの肩が縮んだ。
「ロウ」
ミナは森側の影へ顔を向けた。
「近すぎないで」
ロウの耳が動く。一歩、下がったようにも見えた。ただ、森側の道はまだ空かない。
トマの声が、少しだけ低くなる。
「聞いてるように見えるな」
「見えるだけかもしれない」
「もうそれ、毎回言ってる気がする」
「毎回分からないから」
大人ゴブリンたちが炭焼き跡に着くと、またざわめいた。窪地の黒い土を嫌がるものがいる。森へ戻ろうとして、ロウを見て止まるものがいる。倒木の陰へ怪我人を座らせようとして、そこが本当にいいのか分からず迷うものもいた。
キキが、ふらふらしながら伝える。
「ここ。今夜。村、だめ。森、だめ。ここ」
「今夜だけ」
ミナは木札を少し上げて、キキに見せた。
キキは小さくうなずく。
「今夜、だけ」
大人ゴブリンたちは、その言葉の全部は分からなかったかもしれない。それでも、キキが同じ場所を指し、ミナが木札を持って線を示すと、少しずつ窪地の中へ入った。
ガルムは村側に立ち、弓を持つ手を少しだけ上げた。
「武器を上げたら、撃つ」
ミナはキキを見る。
「キキ、そこは言わなくていい。怖がるから」
「言わなくていいのか?」
ガルムの目が、ミナへ動く。
「武器を上げたらだめ、でいい」
「意味は同じだ」
「聞こえ方が違う」
ガルムは少し黙り、うなずいた。
「なら、そうしろ」
キキは木片を胸に抱えたまま、大人ゴブリンたちへ向き直った。
「上げる、だめ。棒、低い。金具、低い」
一体が不満そうに歯を見せたが、すぐにロウの金色の目を見て、歯を閉じた。
ミナは食べ物を持ってきた板を、窪地の端の石の上に置いた。くず根菜を煮た薄い汁。硬くなった黒パンの端を小さく割ったもの。量は少ない。全員が満腹になるほどではない。
「少しだけ」
バルドが横で釘を刺す。
「村の分は出さん」
「村の分じゃない。今日のくず根菜と、骨を煮た後の薄い汁」
「それでも食い物じゃ」
「うん。だから少しだけ」
ミナは板を置き、二歩下がる。さらに一歩、下がった。
「こっちが下がってから取る。近づいて取らない。奪わない」
キキが必死に伝える。
「たべる、少し。ミナ、下がる。ゴブ、取る。走る、だめ。奪う、だめ」
大人ゴブリンたちは板を見た。
腹を押さえた一体が、すぐに飛びつきそうになる。隣の一体が肩をつかんで止めた。別の一体が、怪我人を見る。それから、ゆっくり一体が近づいた。
手を伸ばす。
ガルムの弓がわずかに上がる。
ミナは息を止めた。
ゴブリンは黒パンの端を一つ取り、すぐ下がった。他のゴブリンたちが、その一つを分ける。小さく割り、怪我人の口元へ持っていく。食べ方は荒い。でも、奪い合いにはならなかった。
トマが小さく息を吐く。
「そこは、ちょっと意外だな」
「分けてる」
「うん」
「でも、まだ近づかないで」
「分かってる」
水桶は、平たい石の横に置いた。
ミナが置いて、下がる。ゴブリンたちはすぐには触らない。まず匂いをかぐ。次に一体が手を伸ばし、水をすくう。飲む。怪我人へ渡す。
ルシェラが腕を組む。
「ふむ。飢えた群れにしては、まだ秩序がある」
「秩序があるなら助かる」
「王の前で奪い合うほど愚かではない、ということか」
「王じゃない。あと、食べ物が少ないだけかもしれない」
「小娘はつまらぬ方を選ぶ」
「安全な方を選びたいの」
木札と縄を張る作業は、日が傾く前に始まった。
村側に木札を立てる。縄を低く張る。鳴子を二つ吊るす。森側には張らない。逃げ道を全部塞ぐと、追い詰めることになるからだ。
「こっちは村側。越えない」
ミナは木札を指し、今度は森側の影へ指を向けた。
「こっちは森側。ロウがいるから行かない」
「どっちもだめじゃないか」
トマの目が、縄の内側と森側を行き来する。
「全部だめじゃない。炭焼き跡の中は今夜だけいい」
「狭いな」
「狭い。でも、村の前よりはいい」
バルドが木札を見て、さらに渋い顔をした。
「これを見た者は何と思うかの」
「木札が増えたと思う」
「お前はそうじゃろうな」
「他には?」
鳴子を結んでいたトマの手が、少しだけ止まった。
「村の外にゴブリンがいて、さらに外に魔狼がいて、こっちは木札と縄と鳴子で囲ってる」
「言わないで」
「自分でやってるんだぞ」
「分かってる。でも、村に入れるよりまし」
ガルムの短い声が、縄の横から落ちた。
「ましだ」
その一言で、バルドも黙った。
縄を張っていると、一体の大人ゴブリンがじっとこちらを見ていた。背の低い個体だ。目はくぼみ、頬は痩けている。手には欠けた金具を持っている。武器にも見える。けれど、視線はミナの手元、縄の結び目に向いていた。
トマが鳴子を吊るす。
結び目が少し緩い。風で揺れれば鳴るが、強く引けばほどけそうだ。
そのゴブリンが、思わずというように一歩出た。
ガルムの弓が上がる。
「止まれ」
ゴブリンは固まった。金具を持つ手が震える。
ミナは手を上げた。
「待って。縄を見てる」
「見ているだけとは限らん」
「うん。でも、今は見てる」
ゴブリンの目は、やはり結び目にあった。
キキが疲れた顔のまま、結び目とゴブリンを見比べる。
「なおす?」
ミナは少し迷った。
ここで頼むと、すぐ仕事にしてしまう。でも、見ているものは分かる。結び目が気になっている。
「今日はまだ頼まない」
ミナは結び目から一度手を離した。
キキがそれを拾う。
「今日、まだ、だめ」
大人ゴブリンは、がっかりしたのか、怒ったのか、分からない顔をした。それでも、金具を下げた。
ミナはトマを見る。
「結び直して」
「俺が?」
「うん。今、見られたから」
「地味に傷つくな」
「ほどける方が困る」
「はいはい」
トマは苦笑しながら、結び目をやり直した。大人ゴブリンは、それを最後まで見ていた。
日が低くなり、炭焼き跡の黒い土がさらに暗く見え始めた頃、ようやく最低限の線ができた。
村側に木札。低い縄。鳴子。水桶。食べ物を置く板。怪我人を座らせる倒木の陰。火はなし。森側には、金色の目。
村側には、ガルムと村の男たちが交代で立つことになった。バルドは子どもを外へ出すなともう一度言い、家畜小屋の戸を確認しに戻った。
「本当に今夜だけだぞ」
家畜小屋へ戻りかけたバルドが、振り返った。
「うん。明日、また見る」
「また見る、か」
「今日決められることじゃない」
「それは分かる。分かるが、わしの胃にはよくない」
「薄い汁、残ってたら持っていく?」
「いらん」
「温かいよ」
「……少しだけじゃ」
トマが笑いかけたが、バルドの顔を見てやめた。
夜になると、炭焼き跡は静かになった。静かすぎるくらいだった。
火はない。煙もない。ゴブリンたちは倒木の陰と窪地の端に分かれて座り、怪我人を真ん中へ寄せている。小さな声で話す音が、草の間をすり抜ける。
キキは森番小屋近くの自分の隠れ場所に戻っていた。疲れきっている。それでも、ときどき炭焼き跡の方を見る。
「キキ、今日はもう休んで」
ミナがしゃがむと、キキは木片を抱えたまま小さくうなずいた。
「むずかしい」
「うん。難しかったね」
「ゴブ、ここ」
「うん。今夜はあそこ」
「村、だめ」
「うん」
「ロウ、かむ、だめ」
「うん」
キキは少しだけ目を閉じた。
「ミナ、いる」
「いるよ」
ミナは木札の内側でしゃがんだ。手は伸ばさない。触らない。でも、しばらく近くにいた。
炭焼き跡の外側では、ロウたちが動いている。金色の目が、木々の間をゆっくり回る。近づきすぎない。離れすぎない。ゴブリンたちを見ているのか、森を見ているのか、村を見ているのか分からない。
村側では、ガルムが立っている。弓は手にある。トマも少し離れて鳴子を見ていた。
「寝られると思うか?」
「誰が?」
「村も、ゴブリンも、お前も」
「分からない」
「だよな」
「でも、木札の前にいるよりはいい」
「まあな」
ルシェラは森番小屋の戸口で、なぜか満足そうに炭焼き跡を見ていた。
「小娘」
「なに」
「なかなか見事な仮の外郭であった」
「仮の場所」
「同じであろう」
「違う」
「では、仮の居場所」
「それなら、まあ」
「ふむ」
ルシェラは少し嬉しそうだった。
ミナは嬉しくなかった。木札が増えた。鳴子も増えた。見張りも増えた。食べ物の置き場所も増えた。やることだけが増えている。
でも、今夜はそれでいい。
誰も村へ入っていない。誰も噛まれていない。誰も撃たれていない。畑も水路も、まだ守られている。
それだけで、今夜は十分だった。
*
朝は、薄い霧の中で来た。
ミナは水袋と小さな布包みを持って、炭焼き跡へ向かった。見回りだ。水は足りたか。木札は倒れていないか。鳴子は外れていないか。怪我人の様子は悪くなっていないか。ロウたちは近すぎないか。そういうことを見に行くだけだった。
トマが後ろから眠そうについてくる。
「朝から行くのか」
「水が足りないかもしれない」
「俺も行く」
「眠そう」
「眠い。でも一人で行かせたら、もっと眠れない」
ルシェラも、いつの間にか後ろにいた。
「わたしも見る」
「見すぎないで」
「善処する」
「その言い方、あんまり信用できない」
霧の中、炭焼き跡の木札が見えた。倒れていない。縄も切れていない。鳴子も吊られたまま。水桶は横に倒れていない。
ミナは少しだけ息を吐いた。
「よかった」
ミナの視線が、窪地の中へ向いた。
大人ゴブリンたちは、起きていた。全員がこちらを見ている。昨日より静かだった。怪我人を支えていた二体も、腹を押さえていた一体も、縄の結び目を見ていた一体も、みんな膝をついていた。
そして、ミナが木札の前で止まった瞬間、一斉に頭を低くした。
地面へつくほどではない。
でも、はっきりと低い。
棒も、金具も、横へ置かれている。
ミナは固まった。
「え」
誰も動かない。霧の奥で、ロウの金色の目が静かに光る。
ルシェラの顔だけが、たいそう満足そうに明るくなった。
「ようやく礼を知ったか」
「え、なに」
「外の群れが、王の外郭に伏したな」
「王じゃないし、外郭でもない」
ミナは慌てて木札を見る。縄を見る。水桶を見る。怪我人を見る。
「頭、下げなくていい。昨日の場所、だめだった? 水、足りなかった? 村には入れないからね?」
トマが横で、ひどく困った顔をした。
「ミナ、たぶんそういう話じゃない」
「じゃあ何」
「いや、分からないけど……たぶん、そういう話じゃない」
大人ゴブリンたちは、頭を低くしたまま動かない。
キキが、少し遅れて隠れ場所の方から出てきた。まだ眠そうで、木片を抱えている。炭焼き跡を見て、耳がぴんと動いた。
「ゴブ……」
「キキ、これ、なに」
キキはミナを見る。それから、頭を下げている大人ゴブリンたちを見る。困ったように、少しだけ首を傾げた。
「ミナ」
「うん」
「すごい」
「すごくない」
ルシェラが愉快そうに笑う。
「小娘、まずは怪我人を見るのではなかったか」
「見る。見るよ」
ミナは水袋を握り直した。
「まず、怪我してるのを見る。それから、柵」
「柵?」
トマの目も、炭焼き跡の木札と昨日少し緩かった縄へ動いた。
「このままだと倒れる。もっとちゃんとした柵がいる」
頭を下げていた大人ゴブリンの一体が、ぴくりと動いた。昨日、縄の結び目を見ていた個体だ。
その目が、木札と縄へ向く。
ミナはまだ気づいていない。
「村には入れない。火もまだだめ。食べ物も少しだけ。だから、まず柵」
ルシェラは、また満足そうにうなずいた。
「王は、外の群れに役目を与えるか」
「王じゃない」
ミナは顔を上げずに返した。
でも、大人ゴブリンたちはまだ頭を低くしている。ロウの金色の目は、霧の向こうで静かに細くなった。
ミナだけが、完全に置いていかれていた。




