第22話 魔狼に追われる小集団
第1部:辺境領と教会編
第5章:ゴブリン小集団と柵作り
夜の森へは、誰も入らなかった。
鳴子は、日が落ちてから一度だけ鳴った。
から。
それきり、鳴らない。だからといって、安心できるわけでもない。
森の端では、金色の目が何度か動いた。南の柵の向こう。水路の下流。森番小屋の裏手。いつもの夜回りより、少し低く、少し速い。ゴブリンらしき低い影は見えなかったが、見えないものほど落ち着かない。
夕方から、バルドの低い声が何度も村を回った。
「戸を閉めろ」
「子どもを出すな」
「森へは入るな」
「見張りだけ増やす」
村の戸は早く閉まった。家畜小屋の戸には太い縄がかけられ、山羊は奥へ押し込まれた。犬は吠えない。吠えかけて、喉の奥で小さく鳴っただけだった。
ミナも、森へは入らなかった。
森番小屋の戸口に立つと、木札の向こうが暗い。足跡は、夜には見えない。追えば、追われたものが村へ走るかもしれない。
それに、ロウたちも動いている。
暗い森で、魔狼とゴブリンらしきものの間へ入るのは、森番の仕事ではない。
「夜は追わない」
ミナは戸口の木札を握ったまま、森の暗さを見ていた。
隣で、トマが息を吐く。
「それは助かる」
「足跡も見えない」
「うん」
「追い詰めたら、村へ走るかもしれない」
「それは困る」
「だから、戸を閉める」
「そういう当たり前が、今日はすごくありがたい」
水路の奥では、ぷるが二体とも沈んでいた。大きい方も、小さい方も、いつものようには揺れない。水面だけが、ときどき細かく震える。
木札の外では、キキが隠れ場所の奥へ入っていた。姿は見えない。けれど、枝を握り直す音が、たまにする。
かさ。
かさ。
眠れていないのだと思う。
ミナも、眠れなかった。炉の火を小さくして、古縄をほどき、もう一度結ぶ。結べている。結べているのに、またほどく。ルシェラは小屋の壁にもたれ、外の暗さを見ていた。
「小娘」
「なに」
「腹は減っておらぬか」
「今はそれどころじゃない」
「それどころでなくとも、腹は減る」
「分かってる」
ルシェラは、少しだけ笑った。
「分かっておるならよい」
ミナは縄を結び直した。
朝が来るのが遅かった。空が白み始めても、森の中はまだ暗い。
村の屋根は薄い灰色になり、畑の葉には露がついている。薪置き場の影は長く、家畜小屋の戸口にはバルドが立っていた。眠っていない顔だった。
ガルムも弓を持っている。弦は張ってある。矢はまだ番えていない。
「外へ出るな」
家畜小屋の戸口から、バルドの声が低く村へ渡った。
「戸を閉めろ。家畜小屋を押さえろ」
戸の隙間から、村人の目だけが見える。子どもはいない。
その時、森側の低い鳴子が鳴った。
から。
少し間を置いて、もう一度。
から、から。
高い枝ではない。昨日、ミナたちが低い位置に増やした鳴子だ。草の高さを通るものに当たる。
ミナは木札の前へ向かった。トマがすぐ横につく。
「近づきすぎるなよ」
「木札まで」
「それ、近いんだよな」
「でも、ここが線だから」
「分かってるけど」
ルシェラは一歩後ろに立った。何も言わない。言わないのが、少し怖い。
森の端で、金色の目が動く。
一つではない。
右へ。
左へ。
横へ回り込むように、低く、静かに動いている。
ロウがいた。右耳の端が欠けている。その後ろに、いくつかの目がある。
吠えない。
走らない。
ただ、森の端を狭めるように動く。
「ロウたちだ」
トマの喉が、そこで一度詰まる。
「うん」
「何してるんだ」
「分からない」
低い草が揺れた。
金色の目より低い場所。黒い影より小さいものが、がさ、と動く。
まず、一本の腕が出た。
細い。
けれど、キキよりずっと太い。緑がかった灰色の肌に、泥がこびりついている。爪は欠け、手には曲がった木の棒が握られていた。
それから、顔が出る。
大人のゴブリンだ。目はぎらついている。歯が見えている。耳は伏せ、背中は丸い。
人間の大人よりは小さい。けれど、キキよりは明らかに大きい。
「ゴブリンだ」
戸の奥で、誰かの息が引きつった。
「大人だぞ」
別の戸口で、声が震える。
最初の一体は、木札の方へ来ようとして、すぐ後ろを振り返った。
そこに、金色の目がある。ロウではない別の魔狼が、森の陰から半歩だけ出ていた。牙は見せていない。でも、逃げ道を塞いでいる。
ゴブリンは喉を鳴らし、木の棒を胸の前に構えた。襲いかかる構えではない。それでも、棒は武器になる。
ガルムの弓が上がる。
ミナは息を詰めたまま、ガルムの弓に目を向けた。
「まだ撃たないで」
ガルムは弓を上げたままミナを見る。
「武器を持っている」
「分かってる」
「近い」
「分かってる。でも、まだ」
「外せば来る」
「当たっても来るかもしれない」
ガルムはそれ以上、何も言わなかった。弓は下ろさない。
森の草が、また揺れる。
二体目。
三体目。
さらに後ろから、何体かが押し出されるように出てくる。一列ではない。ばらばらだ。
背の低いもの。肩幅の広いもの。髪のようなものを紐でくくったもの。腕を押さえているもの。
足を引きずる一体を、二体で支えている。手には、棒、欠けた金具、尖らせた枝、古い縄。
道具にもなる。
武器にもなる。
十に近い数が、森の端に固まった。
村側の戸の奥で、小さな悲鳴が上がった。山羊が家畜小屋の中で暴れる。
「戸を閉めろ!」
バルドが叫ぶ。
「子どもを出すな! 家畜小屋を押さえろ!」
「魔狼たちが押してる」
戸の隙間から、村人の声が漏れた。
「村へ入れる気か」
「ゴブリンを前に出してるぞ」
「魔狼が来るんじゃないのか」
ざわめきが、一気に広がる。
ここしばらく、村人たちは少しだけ慣れかけていた。夜に金色の目があっても、戸を閉めれば朝は来る。肉は石の上に置かれる。畑も家畜も荒らされない。そう思いかけていた分だけ、今の光景はこたえた。
ロウたちは、守っているようには見えなかった。
森の端を回り、道を狭め、ゴブリンたちを木札の外へ押し出している。
ゴブリンも怖い。
そのゴブリンたちを追い立てる魔狼は、もっと怖い。
トマが、ミナの少し前へ出かけた。ミナは手で止める。
「横」
「前じゃなくていいのか」
「逃げ道を塞がないで」
「誰の逃げ道だよ」
「全部」
「そういうところ、本当に怖い」
ゴブリンたちは、村へ走り込んではこなかった。けれど、下がりもしない。
下がれない。
背後には、ロウたちがいる。金色の目が、草の陰に並んでいる。
一頭が右へ回る。
別の一頭が左の倒木の横へ出る。
噛まない。吠えない。
でも、逃げ道だけを消していく。
「ロウ」
木札の前から名前を呼ぶと、ロウの耳が動いた。
「何してるの」
ロウは答えない。
当然だ。ただ、ゴブリンたちの背後で止まっている。
「追ってるの?」
返事はない。
「連れてきたの?」
ロウの金色の目が、ミナを見る。それから、ゴブリンたちを見る。見せているようにも見える。追い詰めているようにも見える。
どちらなのか、分からない。
「こっちへ押さないで」
ミナは木札の線から足を動かさなかった。
ロウは動かない。ゴブリンの一体が、木の棒を少し上げた。ガルムの弓が、きしりと鳴る。
「武器を上げないで」
今度は、ゴブリンたちの方へ手のひらを向ける。通じるかは分からない。でも、言わないよりはいい。
「近づかないで。そこから先はだめ」
ゴブリンたちは動かない。
一体が歯を剥いた。別の一体は、支えている怪我人を奥へ引こうとして、背後の金色の目に気づき、固まる。
村へ入る隊列ではない。
でも、危ない。
追い詰められたものが、手に棒を持っている。それだけで十分危ない。
「村には入れない」
ミナは、木札を指した。
「畑もだめ。水路もだめ。家畜小屋もだめ。子どもにも近づかないで」
トマの顔が苦くなる。
「通じてるのか?」
「分からない」
「だよな」
「でも、線は見えてる」
「見えても意味が分かるとは限らないぞ」
「うん」
ミナはロウへ向き直った。
「ロウも入らない。ゴブリンを村へ押さないで」
ロウの喉が低く鳴った。短い音だった。
ゴブリンたちが一斉に縮む。
キキが、木札の外の隠れ場所から飛び出しかけた。
「ゴブ!」
声が、ひどく高かった。
ミナはすぐ振り返る。
「キキ、下がってて」
キキは止まらなかった。木札の外側で、隠れ場所とミナの間まで出てくる。でも、木札の内側には入らない。耳は伏せ、肩は震えている。手には木片。目はゴブリンの小集団へ向いていた。
「ゴブ」
「うん。ゴブリン」
「おおきい」
「うん。キキより大きい」
「こわい」
「怖いなら、見なくていい」
キキは首を振った。
小さく、強く。
「ロウ、こわい」
「ロウも怖い」
「ゴブ、こわい」
「うん」
キキは息を吸った。何かを言おうとしている。でも、言葉にならない。
ゴブリンたちの方でも、一体がキキに気づいた。細い声が漏れた。ゴブリンの言葉だ。
ミナには分からない。
キキはびくっと肩を揺らし、木片を握り直した。
「キキ、ここ」
キキは、自分の足元を見た。
「うん。キキは、ここ」
ミナは木札を指しながら、ゆっくり返す。
「ゴブリンたちも、木札の外。村には入れない」
ゴブリンたちが、ざわ、と動いた。言葉が分かったわけではないのかもしれない。でも、ミナが木札を指し、足元を指し、村側を手で止める仕草は見えたはずだ。
一体が、足を引きずる仲間を後ろへ下げようとする。
後ろにはロウがいる。その一頭が、ほんの少し前へ出た。
ゴブリンが悲鳴を上げた。
ガルムの指が弦にかかる。
「ロウ、追い詰めないで」
ミナの声は、思ったより大きく出た。
ロウが、ミナを見る。金色の目が細くなる。唸りは、すぐには消えない。だが、少し低くなった。
それから、前へ出かけていた魔狼が止まる。後ろへ下がったわけではない。ただ、進むのをやめた。
その隙間で、ゴブリンたちは固まったまま震えている。
「……今の、止まったか?」
トマの声が、木札の内側で小さく落ちた。
「分からない」
ミナは目を離さなかった。
「止まったようには見えた」
「怖い言い方するな」
「怖いから」
バルドが杖を鳴らした。
「ミナ、近づくな」
「近づかない」
「ガルム、弓は下ろすな」
「下ろしていない」
「撃つな。まだじゃ」
「分かっている」
村人たちは、戸の奥で息を詰めている。何人かは、扉を押さえる手が震えていた。
戸の奥で、一人の女が小さく息を呑む。
「ゴブリンだけならまだ……いや、怖いけど」
隣の男は、森側の金色の目から視線を外せない。
「後ろに魔狼だぞ」
「押してる」
「前に出してる」
「村へ来る」
ミナは、その声を聞いていた。
村人の怖さは、分かる。
ゴブリンが来た。大人が十体ほどいる。武器になりそうなものを持っている。しかも、後ろにはロウたちがいる。
これで怖くない方がおかしい。
「バルド」
ミナは木札から目を離さず、村側へ声を投げた。
「家畜小屋の戸、もう一度押さえて」
「やっておる」
「子どもは」
「出しておらん」
「水路」
「近づかせん」
「うん」
ミナは息を吸った。
ルシェラが、ミナの少し後ろで森を見ていた。
「小娘」
「なに」
「あれらは、獲物として追っているわけではない」
「獲物って言わないで」
「ふむ、では……いい例えが思いつかん」
「真面目にして」
「むう」
ルシェラは少し口を尖らせたが、すぐ金色の目の列を見る。
「魔狼どもは、殺すつもりならもう噛んでおる」
「うん」
「だが、逃がすつもりでもなさそうだ」
「うん」
「おぬしへ見せておるようにも見える」
ミナはロウを見た。
ロウは、木札の外側よりさらに森側で止まっている。ゴブリンたちを見ている。ミナも見ている。
村人はほとんど見ていない。怯える村人たちを気にもしていない。戸口で固まる子どもの母親を見ても、特に動かない。ロウの関心は、ミナと、木札と、ゴブリンたちにある。
それが、また怖かった。
「見せられても、困る」
ミナの指先が、木札の縁を握り直した。
トマが、ほんの少し笑いそうになり、笑えずに口を閉じた。
「困るで済むの、すごいな」
「済んでない」
「だよな」
ゴブリンの一体が、低く唸った。歯を見せる。木の棒を持った手が震えている。敵意なのか、恐怖なのか、両方なのか分からない。
「武器を下げて」
ミナは自分の手をゆっくり下げて見せた。
通じない。ゴブリンは棒を下げない。
「上げないで。近づかないで」
その仕草を、もう一度ゆっくり繰り返す。
キキがそれを見ていた。震えながら、木片を胸の前で下げる。
「だめ」
キキの木片が、ゴブリンたちの方へ小さく向く。
「だめ」
ゴブリンたちが、キキを見る。一体の喉から、かすれた声が漏れた。
キキの肩が跳ねる。
「ミナ」
「うん」
「きく?」
小さな言葉だった。
でも、ミナには聞こえた。
「聞く?」
キキはうなずいた。震えている。怖いのに、ゴブリンたちを見ている。
「ゴブ、いう」
「今は無理しないで」
キキは首を振る。
「ミナ、きく?」
トマが息を呑んだ。
バルドが杖を握り直す。ガルムは弓を構えたまま、目だけでキキを見る。
ルシェラは黙っている。
ロウたちも、動かない。
木札の内側に、ミナと村人。
木札の外に、キキと大人ゴブリンたち。
さらに森側に、金色の目。
水路では、ぷるが静かに揺れている。
誰も進まない。
誰も下がらない。
鳴子が、もう一度鳴った。
から。
ミナは木札を見た。それから、キキを見る。
「……分かった」
自分の声が、少しだけ震えていた。
「でも、村には入れない。ロウも、ゴブリンたちも、そこから先はだめ」
キキは、こくりとうなずいた。
大人ゴブリンたちは、まだ棒を握っている。ロウたちは、まだ金色の目で見ている。村人たちは、まだ戸の奥で息を詰めている。
何も解けていない。
ただ、聞くための場所だけが、木札の外に残った。




