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第九話「ホタルの残像(前編)」 ケース3:承認という名の幻

 六月に入って、緑ヶ丘地方裁判所の空気が変わった。


 廊下の端まで届いてくる蒸し暑さ。

 庭の木々が深くなった緑色。

 午後になると窓を閉めてもどこかから入ってくる草の匂い。

 春の裁判所とは違う、夏の始まりの感触があった。


 遥は今日も烏丸より少し早く出勤した。

 執務室の窓を数センチ開けて、朝の空気を少し入れた。

 デスクの上に弁当箱を置いた。

 今日は冷やし中華風の酢鶏と、枝豆と塩昆布のおにぎり。

 夏らしくした。


 烏丸が来たのは、いつも通り七時五十分だった。

「おはようございます」

「おはようございます」

 烏丸はコートをかけてから、デスクの上の弁当箱を見た。

「今日は丸いですね」

「おにぎりです」

「おにぎりは」

「はい、夏なのでさっぱりしたものを。塩昆布と枝豆です」

「枝豆は」

 烏丸がわずかに顔を上げた。

「マメ科の植物で、大豆を未熟なうちに収穫したものです。完熟すれば大豆になる。栄養的には中間状態なので」

「先生、おにぎりを前にしてその話をするんですか」

「あ、すみません」

 遥は微かに笑って、自分のデスクに向かった。


 今日の午前は、新しい案件の第一回公判だった。

 令和六年第五八二号。

 業務妨害。

 遥は開廷前に調書を読み返した。


 被告人は島田 佐和子、四十五歳。

 専業主婦。

 夫は大手商社に勤める会社員で、子供は高校生と中学生の二人。

 住まいは閑静な住宅地の一戸建て。

 外見だけ見れば、絵に描いたような「恵まれた家庭の主婦」だった。

 事件の概要はこうだ。


 島田は、SNS上に「グルメレポーター」として数年前からアカウントを運営し、フォロワーを三千人以上持っていた。

 その彼女が昨年秋から今年春にかけて、緑ヶ丘区内のイタリアンレストラン「リストランテ・アオヤマ」に関する投稿を二十三件、複数のSNSプラットフォームにわたって行った。

「食べた翌日、食中毒になりました」

「厨房のすみにゴキブリを見ました」

「女性スタッフの接客が横柄で、クレームを入れたら逆切れされた」——

 いずれも事実無根と被害者は主張している。


 リストランテ・アオヤマのオーナーシェフ、青山 美保(四十歳)は一人でこの店を切り盛りしてきた女性だった。

 投稿後から客足が途絶え、六ヶ月間の売上が前年比で四割減少した。

 閉店の危機にあるという。


 起訴罪名は刑法第二百三十三条、信用毀損及び業務妨害。

 遥はファイルを閉じた。

(どうしてこういうことをするんだろう)

 調書の中の島田佐和子の写真は、落ち着いた微笑みをたたえた女性だった。


 午前十時。

 第三法廷。

「起立」

 全員が立ち、烏丸が入廷した。

 今日の被告人席には、写真と同じ、きっちりした服装の女性が座っていた。

 濃紺のジャケット。

 整った髪。

 背筋が伸びている。

 どこかの会社の面接に来たような、隙のない姿だった。


「着席。令和六年第五八二号、業務妨害被告事件、第一回公判を開廷します」

 烏丸が淡々と進めた。

「人定質問を行います。お名前をお聞かせください」

「島田 佐和子です」

 落ち着いた声だった。

 緊張しているように見えない。

「生年月日は」

「昭和五十三年、九月二十日です」

「住所は」

 島田が住所を答えた。

 烏丸はそれを確認してから、検察官に目を向けた。

「起訴状の朗読をお願いします」

 検察官が立ち上がった。


「公訴事実。被告人は、インターネット上のSNSプラットフォームにおいて、緑ヶ丘区内のイタリア料理店『リストランテ・アオヤマ』に関し、虚偽の事実を内容とする投稿を繰り返すことにより、同店の信用を毀損し、その業務を妨害したものである。具体的には令和五年九月二日から令和六年三月十七日にかけて、前後二十三回にわたり、食中毒の虚偽申告を含む投稿を行った。罪名及び罰条、信用毀損及び業務妨害、刑法第二百三十三条」

 島田は起訴状の朗読の間、正面を向いたまま動かなかった。


「被告人にお聞きします。ただいま検察官が読み上げた内容について、間違いや付け加えたいことはありますか」

 島田は弁護人の方を一瞬見てから、口を開いた。

「一部については、事実に基づく投稿です」

 法廷に、わずかな空気の動きが起きた。

 烏丸の表情は変わらなかった。

「弁護人から確認します」

 弁護人の中沢弁護士が立ち上がった。

 四十代、眼鏡をかけた男性だった。


「被告人は、二十三件の投稿のうち、十五件については被告人自身が体験した事実に基づく感想であると主張しており、その部分については無罪を主張します。残る八件については、表現として不適切であったことを認め、事実に基づかない点があったことも争いません」

「承知しました」

 烏丸が書類にメモを取った。

「争いのある事実については、次回以降、証拠調べで詳しく審理します。本日は罪状認否の確認にとどめます。検察官、次回期日のご都合はいかがですか」

 検察官と弁護人がそれぞれ手帳を確認し、次回期日が三週間後の火曜日に設定された。

「では本日の公判はここまでです。次回は証拠調べを中心に進めます」

「起立」

 全員が立ち、烏丸が退廷した。


 廊下に出ると、羽田が横に来た。

「一部無罪主張、来ましたね」

「争いのある案件は時間がかかりますね」遥は言った。

「証人も必要になるかもしれない」

「被告人、落ち着いていましたね。緊張しているように見えなかった」

「そうですね」

「ああいう人って、なんというか」羽田が少し考えながら言った。

「外から見るとわからないんですよね。何が動機なのか」


 遥は廊下の端で、退廷した島田の後ろ姿を見た。

 弁護人と話しながら歩く島田は、背筋がまっすぐだった。

 堂々として見えた。

(何が動機なのか)

 羽田の言葉が、遥の中に少し残った。


 昼になった。

 お弁当を開けながら、遥は烏丸に聞いた。

「今日の被告人の方、どう見ましたか」

「まだわかりません」

 烏丸はおにぎりを一口食べてから言った。

「ただ、とても疲れている人だと思いました」

「疲れている? 元気そうに見えましたが」

「表面が整っているほど、内側が疲れていることがあります」

 遥は枝豆を一粒つまんだ。


「投稿の動機が、まだわからないですね。被害を受けたと主張しているわけでもないし」

「調書の中に一か所、気になる記述がありました」

「何ですか」

「島田さんが任意で取調べを受けた際の供述です。『あの店は、私が何年もかけてフォロワーに紹介してきた店よりも評判が良かった。理由がわからなかった』という一文がありました」

 遥は手を止めた。

「……それは」

「ええ」烏丸が言った。

「動機として供述されたものではありません。ただの雑談のような文脈で出てきた言葉です。でも、私にはそちらの方が本当のことのように見えました」


 夕方、烏丸が帰り際に窓の外を見て、ぽつりと言った。

「今週末、ホタルが見られると思います」

 遥は顔を上げた。

「ホタルですか。もうそんな季節ですか」

「六月の下旬から七月の初めが、ゲンジボタルの最盛期です。川沿いに行けば今年も出ているはずです」

「先生は毎年見に行くんですか」

「ええ。一人で」

 それだけ言って、烏丸は荷物を持って立ち上がった。

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 烏丸が出て行った後、遥はしばらく窓の外を見た。

 まだ明るい夏の空。

 どこかで、初めての蝉が鳴き始めていた。

(一人で、か)

 遥はその言葉を、少し長く持っていた。

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