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第十話「ホタルの残像(中編)」 ケース3:承認という名の幻

 第二回公判は、七月の第一週の火曜日に開かれた。

 法廷の外では蝉が鳴いていた。

 まだ梅雨が明けていないのに、今年の蝉は気が早かった。


 証拠調べから始まった。

 烏丸が検察官に目を向けた。

「証拠の取り調べを行います。検察官から書証の請求をお願いします」

「はい。まず弁第一号証から。令和五年九月二日から令和六年三月十七日にかけて被告人が投稿したSNS投稿二十三件のスクリーンショット一式です。投稿内容、投稿日時、アカウント情報を記録したものです。弁護人に異議はありますか」

「異議ありません」

「採用します。続けてください」


「弁第二号証。株式会社デジタル証跡研究所の鑑定書です。被告人のSNSアカウントと投稿者の同一性を、IPアドレスおよびデバイス固有情報から技術的に証明するものです」

「弁護人の意見は」

「採用に異議ありません。ただし、アカウントが被告人本人のものであることは争いませんので、この証拠の内容を争点と切り離してご認識いただけますか」

「わかりました。記録します」


 烏丸は淡々と証拠採用を進めた。

 書証が次々に採用される間、遥は記録を取りながら、被告人席の島田をときどき見た。


 島田は今日も整った服装で、背筋を伸ばして座っていた。

 証拠が読み上げられる間も、表情はほとんど動かなかった。

 ただ、自分の投稿の文章が朗読されるとき、少しだけ唇を結んだように見えた。


「続いて弁第五号証。被害店舗『リストランテ・アオヤマ』の売上記録です。投稿開始前の令和五年八月と、投稿後の令和六年一月から三月の比較です。月次売上は投稿前比で平均三十九パーセント減少、来客数は同四十二パーセント減少しています」

 遥の手が少し止まった。

 四割。

 六ヶ月で、四割の客が消えた。


「採用します」


 証拠調べに続いて、証人尋問が行われた。

 呼ばれたのは青山 美保、リストランテ・アオヤマのオーナーシェフだった。

 四十歳。

 中肉中背で、落ち着いた顔立ちの女性だった。

 宣誓の後、弁護人から先に尋問が始まった。


「青山さん、被告人の投稿を最初に知ったのはいつですか」

「昨年の十月頃です。常連のお客様から『こういう投稿がある』と教えていただいて」

「最初はどう思いましたか」

「驚きました。食中毒の投稿が最初だったので、すぐに保健所に連絡して調査を受けました。もちろん、問題は何もありませんでした」

「その後、投稿は続きましたか」

「はい。月に二、三件のペースで。内容も、衛生面から接客態度、価格設定への批判へと変わっていきました」

「売上への影響は」

「投稿が増えてから、予約のキャンセルが続きました。来てくださったお客様でも、帰り際に『ネットで悪いことが書いてある』とおっしゃる方が何人もいました。銀行への返済が厳しくなってきて、今年に入ってから閉店を考えました」


 青山の声は、抑えてはいたが、少し震えていた。

「閉店を、」と弁護人が言いかけたとき、青山が続けた。

「でも、やめませんでした。十二年間、一人で作ってきた店です。知らない人の投稿で閉めるのは、どうしても嫌だと思いました」

 法廷が静かになった。

 遥は記録を取りながら、ペンを少し強く握った。

 烏丸は証人の話を、いつも通り静かに、でもまっすぐに聞いていた。


 検察官からの主尋問が終わり、弁護人からの反対尋問があった。

 弁護人は「被告人の投稿の一部は被告人が実際に食事をした経験に基づくものであり、主観的な意見の表明にすぎない可能性があること」を問うたが、青山は「どの投稿も、私の店では起きていないことです」と静かに答えた。


 烏丸が補充質問をした。

「青山さん、一点確認させてください。投稿者が被告人であることが判明する前、あなたはこの投稿者のことをどう思っていましたか」

「……誰なのか、わかりませんでした。見当もつかなかったです。来てくれたお客様かもしれないし、面識のない方かもしれないし」

「面識があるかもしれない、とは考えましたか」

「はい。だから、スタッフ全員に聞きました。思い当たる方がいないか。でも誰もわからなくて」

「ありがとうございました」


 午後から、被告人質問が行われた。

 弁護人の中沢弁護士が最初に立った。

「島田さん、SNSを始めたのはいつですか」

「六年前です」

「きっかけは」

「子供が中学に上がったときです。手が離れたので、何か始めようと思って」

「グルメレポートを選んだ理由は」

「料理が好きで、外食も好きだったので。夫の転勤で引っ越す前、以前住んでいた街でも美味しいお店を発掘するのが趣味でした」

「六年間で、フォロワーはどのくらい増えましたか」

「三千五百人ほどです」

「その活動は、ご家族に評価されていましたか」

 島田が少し止まった。


「……家族は、そういうことに詳しくないので。夫も子供も、あまりSNSを見ない方で」

「リストランテ・アオヤマを初めて訪れたのはいつですか」

「二年前の秋です」

「そのときの感想は」

「美味しかったです。シェフが一人でやっているのも知っていて、応援したいと思いました。だから投稿しました」

「その投稿の反響はどうでしたか」

「……少なかったです」島田の声が、かすかに変わった。

「いいねが三十ほどでした。私の投稿では少ない方でした」

「その後、お店の評判が上がっていきましたね」

「はい。別のインフルエンサーの方が大きく取り上げて、フォロワーが一気に増えたようでした」

「あなたはそのことを知っていましたか」

「……はい」

「どう思いましたか」


 島田は少しの間、答えなかった。

「私が最初に紹介したのに、と思いました」

 その声は、初めて、少しだけ揺れていた。


 検察官の反対尋問では、「食中毒の投稿は実際の体験か」という事実確認が中心に行われた。

 島田は「食べた後に体調を崩したのは本当」と主張したが、「翌日の行動記録」と「医療機関への受診歴がない事実」を指摘されると、答えが詰まった。


 反対尋問が終わり、烏丸が口を開いた。

「裁判官から補充質問があります」

 島田が、かすかに背筋を正した。

「島田さん、あなたが六年間に投稿したお店の紹介記事、それらを読んだ方から、直接連絡が来たり、お礼を言われたことはありましたか」

 島田は少し考えてから答えた。

「……たまに、コメントで『行ってきました』というのはありました」

「そのとき、どう感じましたか」

「うれしかったです」

「あなたの投稿を見てお店に行った人がいた、ということですね」

「……はい」

「リストランテ・アオヤマを紹介したあなたの投稿は、あなたのフォロワーの中の誰かが、そのお店に行くきっかけになったかもしれない」

 島田が、黙った。


「あなた自身の投稿が持っていた力を、あなたは知っていましたか」

「……知りませんでした」

 烏丸は静かにうなずいた。

「わかりました。ありがとうございます」


 法廷が終わって廊下に出ると、羽田が遥の隣に来た。

「先生の補充質問、今回も予想外のとこ突いてきましたね」

「ええ」

「島田さん、自分の投稿の価値を、ちゃんとわかってなかったんですね」

「そうみたいです」

 遥は廊下の窓から外を見た。

 蝉の声が聞こえた。

「自分が誰かの役に立っていたことを、知らないまま、ずっといたんだと思います」

 羽田がしばらく黙ってから言った。

「それって、一番しんどいやつですね」


 夕方、執務室に戻ると、烏丸がデスクに座って、手元のメモを眺めていた。

「先生」

「はい」

「今日の補充質問は、どこから来たんですか」

「島田さんが、自分の投稿の意味を見失っていると思ったからです」

 烏丸はメモから顔を上げた。

「六年間、人に何かを届け続けていた。でもその届いた先が見えていなかった。だから、光が消えたと思ってしまった」


 遥は窓の外を見た。

「ホタルみたいですね」

 烏丸が、静かに遥を見た。

「……そうです。あなたは、ちゃんと聞いていますね」

「先生の話を聞いてきたので」

 烏丸はメモを閉じた。

 少しの間があった。


「今週末、ホタルを見に行きます」

「毎年行くとおっしゃっていましたね」

「ええ。もし、来られるなら」

 烏丸が言いかけて、止まった。

 遥は待った。

「……いえ、何でもないです。おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 烏丸が出て行った後、遥はしばらく、その場に立っていた。

(言いかけた)

 何を言いかけたのか、わかっていた。

 遥はコートを取って、でも少し遅く、立ち上がった。

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