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第十一話「ホタルの残像(後編)」 ケース3:承認という名の幻

 七月の第二週、判決の日は朝から雲が厚かった。


 梅雨明け前の蒸し暑さが廊下の端まで充ちていて、遥は執務室の窓を少し開けて出勤した。

 庭に面した窓だった。

 裁判所の庭には小さな池があって、紫陽花がまだ咲き残っていた。


「今日は判決ですね」と遥は言った。

「ええ」烏丸は書類を閉じた。

「今日で、島田さんの審理が終わります」


 遥はお弁当を置いた。

 今日はそうめんを小さな容器に入れてきた。

 つゆは別添えにした。


「夏らしくしました」

「ありがとうございます。そうめんは」

「はい、そうめんです」

「そうめんの細さには規格があって、直径一・三ミリ以下とされています。ひやむぎとの違いは」

「先生、今日は判決の朝なので、食べてから話してください」

「……そうでした。いただきます」


 烏丸が静かに箸をつけた。

 窓から、庭の湿った空気が入ってくる。

 どこかで小鳥が鳴いていた。


「今日の判決文、仕上がりましたか」と遥は聞いた。

「昨夜、書き終えました」

「ミツバチのときみたいに、説諭のメモも書きましたか」

 烏丸は少し間を置いた。

「書きました。ただ、今回は、言葉より先に何かが来てしまって、なかなかまとまらなかった」

「何が来たんですか」

「光が、です。ホタルの光の話をしていると、光が先に浮かんでしまって、言葉がついてくるのに時間がかかりました」

 遥はそれを聞いて、窓の外を見た。池のほとりに、今朝は靄がかかっていた。


 午前十時、第三法廷。

 全員が立ち、烏丸が入廷した。


 今日の島田佐和子は、濃いグレーのジャケットだった。

 整った髪。

 背筋は相変わらず伸びている。

 ただ、前回と少し違うのは、手元だった。

 膝の上に置いた両手が、かすかに動いていた。

 指と指が、ときどき触れ合う。

 遥には、島田がそれに気づいていないように見えた。


「着席。令和六年第五八二号、業務妨害被告事件の判決を言い渡す」

 烏丸の声が、静かに法廷に広がった。


「主文。被告人を懲役一年に処する。この裁判確定の日から三年間、その刑の執行を猶予する」

 島田の肩が、わずかに動いた。

 安堵ともとれる、でも安堵だけではない動きだった。


「理由を告げる。本件公訴事実のうち、被告人による二十三件の投稿のうち十五件については、被告人が実際に当該飲食店を訪問した経験に基づく主観的な評価および意見の表明の範囲内であると認め、信用毀損及び業務妨害罪の成立を認めない」

 弁護人が書類にメモを取った。


「しかしながら、残る八件、具体的には食中毒の被害を申告する内容の三件、および衛生上の問題を具体的に指摘した五件については、事実の裏付けなく虚偽の情報を不特定多数に流布したものと認定する。これらの投稿は被害店舗の信用を著しく毀損し、実質的な業務妨害を生じさせたことは明らかである」

 法廷が、静かに聞いていた。

 遥は記録を取りながら、島田の横顔を見た。

 変わらず、まっすぐ前を向いていた。


「量刑の理由を述べる。被告人に前科前歴がないこと。公判を通じて部分的ながら自己の行為を認め、反省の意が認められること。被害者に対する損害賠償の意向を示していること。これらの情状を総合考慮し、刑法第二十五条第一項の規定により、刑の執行を猶予することが相当と判断した」

 烏丸は書類を閉じた。


 立ち上がりかけた島田を、静かな声が止めた。

「島田さん、少し待ってください」


 法廷の空気が、変わった。

 遥はそれをいつも感じる。

 烏丸がその言葉を言った瞬間の、空気の変わり方を。

 検察官の手が止まり、弁護人がペンを置き、廷吏が少しだけ体の向きを変える。

 島田が、また座り直した。


「ホタルという生き物をご存知ですか」

 島田は答えなかった。

 でも、聞いている、ということは伝わった。

「日本には、ゲンジボタルとヘイケボタル、代表的な二種類のホタルがいます。ゲンジボタルは体が大きく、光がゆっくりと、大きく明滅する。ヘイケボタルは体が小さく、光が細かく素早く瞬く。どちらも暗い夜にしか光らず、成虫の寿命は二週間ほどです」

 烏丸の声は穏やかだった。

 急がない、追い詰めない、ただ話しかける声だった。


「どちらのホタルが正しい光り方をしているか、という問いに、意味はありません。それぞれが、それぞれの光り方をして、暗闇を照らす。ゲンジがヘイケの光り方を真似ることもないし、ヘイケがゲンジを消そうとすることもない」

 遥はそこで、ふと気がついた。

 窓だ。


 今朝、執務室の窓を開けて、そのまま来てしまった。

 でも今、遥が気になったのは執務室ではなく、この法廷の窓だった。

 第三法廷の庭側の窓が、一枚、少し開いていた。

 遥は自分が開けたことを思い出した。

 開廷前に蒸し暑くて、数センチだけ開けて、そのままにしていた。


(しまった)

 閉めに行こうとした、そのときだった。

 何かが、窓から入ってきた。


 最初はほとんど見えなかった。

 薄暗い夏の法廷の空気の中を、小さな光が、ふわり、と動いた。

 誰かが息を呑んだ。

 ホタルだった。


 一匹のホタルが、開いた窓の隙間から迷い込んで、法廷の中を静かに漂っていた。

 厚い雲に覆われた今日の空の薄暗さが、その小さな発光体を際立たせた。

 緑がかった淡い光が、ゆっくりと、ゆっくりと、明滅していた。

 ゲンジボタルだった。


 遥は動けなかった。

 廷吏も、検察官も、弁護人も、誰も動かなかった。

 烏丸だけが、止まらなかった。

 表情ひとつ変えず、ホタルが法廷に入ってきたことを確かめるように一瞬だけ視線を動かし、また島田を向いた。

 そして、続けた。


「あなたは六年間、自分の光を使って、誰かに何かを届けようとしてきた」

 ホタルが、島田の方へ、ゆっくりと近づいていく。

「その光が、届いた場所を、あなたは見ていなかった。届いた先に人がいたことを、知らなかった」

 ホタルが、被告人席の上を漂った。

「あなたの投稿を読んで、あのお店に行った人がいる。あなたの光を受け取った人が、確かにいる。なのにあなたは、その光が届いたことを信じられなくて、他のホタルの光を消そうとした」

 島田の目が、ホタルを追っていた。

「でも島田さん、他のホタルの光を消しても、あなたの暗闇は晴れない。あなたに必要だったのは、他の光を消すことではなく、自分の光が届いていることを、信じることだったはずです」

 ホタルが、また一度、静かに光った。


 その瞬間、島田の顔が崩れた。

 何年も整えてきたような、整った顔が、静かに崩れた。

 唇が震えた。

 目から、涙が落ちた。

 声も上げず、ただ涙だけが、続けて落ちた。


 烏丸は待った。

 法廷の誰も、動かなかった。

 ホタルだけが、静かに光りながら、誰にも触れられないまま、窓へ向かって戻っていった。


 法廷が終わった後、廊下は静かだった。

 羽田が遥の横に来て、しばらく何も言わなかった。

「私、窓を開けたままにしてしまいました」遥が先に言った。

「知ってます」

「怒りますか」

「怒らないですよ」

 羽田がゆっくり首を振った。

「むしろ……なんか、あれはそういうものだったんじゃないかって、思いました」

「そういうもの、というのは」

「先生の説諭の途中に、あれが来た。それがあまりにもぴったりで」


 遥は窓の外を見た。

 空はまだ厚い雲に覆われていた。

 どこかにホタルがいるとは、思えないような昼間の光だった。


「先生は動じなかったですね」

「知ってましたかね、先生」

 羽田が言った。

「あのホタルが来ること」

「知るわけないですよ」

「でも、驚かなかった」

 遥は何も答えなかった。

 でも心の中で、少し違うことを思っていた。

(驚かなかったんじゃない。驚いたけど、続けた)

 それが烏丸 護という人だった。


 夕方、遥が書類を整理していると、烏丸が静かに言った。

「今日は、ありがとうございました」

「え? 私は何も」

「窓を開けていてくれたので」


 遥は思わず烏丸を見た。

 烏丸は書類に視線を落としたまま、でも口元がわずかに緩んでいた。

「……あれは私のミスです」

「ええ」烏丸が言った。

「でも、良いミスでした」

 遥は何も言えなかった。


 ただ、窓の外を見た。

 池のほとりの紫陽花が、今日もまだ咲いていた。

 夕方になって、少し明るさが戻ってきた空の下で、静かに。

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