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第十二話「ホタルの残像(終章)」 ケース3:承認という名の幻

 判決から五日後、緑ヶ丘地方裁判所の特設更生分室に一通の書面が届いた。

 差出人は田中弁護士。

 島田佐和子の担当弁護人だった。


 内容は、島田が被害者の青山美保に対して損害賠償の協議を申し入れ、両者の代理人間で示談交渉が始まったという報告だった。

 具体的な金額の合意にはまだ至っていないが、島田は「できる限りの補償をしたい」という意向を明確に示しているという。


「来ましたね」と遥が言った。

「ええ」烏丸は書面を一度読んで、ファイルに収めた。

「あの後、少し変わったんだと思います」

「あの後、というのは」

「ホタルの後、です」

 遥は少し考えてから言った。


「島田さんは、ホタルを見ましたか。法廷で」

「見ていたと思います。あの人の目が、ホタルを追っていたので」

「先生は、どっちを先に見ましたか。ホタルを、それとも島田さんを」

 烏丸は少し間を置いた。

「島田さんを、見ていました」

「ホタルが来ても」

「ホタルが来ても。何が起きているかは見えましたが、見続けるべきは島田さんだと思ったので」

 遥はその答えを、少しの間持っていた。

(この人は、どんなときでも、人を見ている)


 昼になった。

 今日の弁当は冷やしうどんにした。

 つゆは烏丸が苦手そうな辛いものを避け、だしの効いた薄口にした。


「冷やしうどんです」

「ありがとうございます」

 烏丸が箸を取った。

 今日は一口食べてから話した。

「美味しいです」

「ありがとうございます」

「うどんは小麦粉と塩と水だけでできているんですが、その比率によって食感が大きく変わります。塩分濃度が高いほど」

「先生」

「はい」

「今日は半分まで食べてから話してください」

「……半分まで」

「はい」


 烏丸は黙って食べ続けた。

 ちょうど半分に差し掛かったところで、箸を置いて遥を見た。

「半分です」

「はい」

「続けていいですか」

「はい、どうぞ」

 烏丸が少し首を傾けた。

「……なんだか、段階を踏んでいますね、私たち」

「そうですね」

「悪くないと思います」

 遥は何も言わなかった。

 でも、少し、目が笑った。

 烏丸はそれに気づいて、また食べ始めた。

 耳が、またわずかに赤かった。


 夕方、烏丸が帰り支度をしながら、少し遠回りな声で言った。

「今夜、川沿いに行きます。ゲンジボタルの最後の時期なので」

「ええ」

「もし、今夜、お時間があれば」

 遥はファイルを棚に収める手を止めた。

「……ご一緒してもいいですか」

「来られるなら、ぜひ」烏丸が言った。

 今度は、止まらなかった。

「遅くはならないです。一時間ほどで」

「行きます」


 緑ヶ丘川の遊歩道は、駅から歩いて十二分だった。

 七月の夜は蒸し暑かったが、川沿いの風は少し違った。

 水の匂いがして、空気が柔らかかった。

 遥は普段より薄い上着を着てきた。

 烏丸が先に立って、川べりの木立の手前で立ち止まった。

「ここです」

 遥が横に並んだ。


 暗かった。

 街灯のない川べりで、最初はよく見えなかった。

 でも、しばらく目を慣らすと、見えた。

 光っていた。

 木立の奥の暗がりで、ゆっくりと、緑がかった光が明滅している。

 一つ、また一つ、別の場所でも光る。

 遥が数えようとして、諦めた。

 どこまでが一匹でどこからが別の個体かわからない。

 ただ、光が、暗い川べりのあちこちで、静かに呼吸していた。


「ゲンジボタルです」と烏丸が言った。

 小さな声だった。

 法廷の声でも、執務室の声でも、生き物の話をするときの声でもなく、ただ、静かな声だった。

「今年はまだいますね」

「きれいですね」

「ええ」

 二人でしばらく、黙って見ていた。


 川の音と、遠くの虫の声と、ときどき風の音だけがあった。

 法廷の厳粛さとも、執務室の日常とも違う、ただ暗くて静かな場所だった。


「先生は、毎年ここに来るんですか」と遥は聞いた。

「ええ。三年前から。この場所を羽田くんに教えてもらいました」

「羽田さんが」

「彼は詳しいんです、こういうことは。なぜか」

 遥は少し笑った。


「先生は、ホタルが光っているのを見て、どう思いますか」

 烏丸は少しの間、光を見ていた。

「届いているかどうかわからなくても、光り続けている。それが、尊いと思います」

 遥は黙って聞いた。

「どこに届くか、届かないか。受け取った相手がいるかいないか。ホタルにはわからない。それでも光る。その光が誰かの夜を照らしたかどうか、知ることなく消えていく」


 遥はゆっくりと言った。

「先生の説諭も、そういうものだと思います。届いたかどうか、すぐにはわからない。でも光り続けている」

 烏丸が遥を見た。

 暗がりの中でも、その視線はわかった。


「あなたが隣にいると、届いた気がします」

 遥の手が、少し動いた。

 でも動かなかった。


 川のほとりで、ホタルが三つ、続けて光った。

 遥は何も言えなかった。

 言わなかった。

 でも、ここに来てよかった、とだけ思った。

 それだけで、充分だった。


 帰り道、二人は川沿いの遊歩道を並んで歩いた。

 道幅が狭くて、自然と距離が近かった。

 烏丸が時々、川の方を見た。

 遥は時々、烏丸の横顔を見た。

 互いに気づいていたと思う。

 でも、どちらも何も言わなかった。


 駅の手前で道が広くなった。

 距離が、少し戻った。

「今日は、ありがとうございました」と遥が言った。

「こちらこそ」

「毎年一人で来ていたんですね」

「ええ」烏丸が言った。

「来年も来ますが、もし良ければ」

 遥は少し先を見て、歩きながら言った。

「来ます」

 烏丸が何も言わなかった。

 でも遥には、その沈黙が返事だとわかった。


 翌週の月曜日、新しいファイルが届いた。

 令和六年第六一四号。

 表紙の罪名欄に「詐欺、組織的犯罪処罰法違反」とあった。


 被告人の欄を見ると、五十三歳の女性だった。

 職業:無職(主婦)。

 事件の概要を読んだ。

 息子の消費者金融への多額の借金を返済するため、闇バイトの受け子として特殊詐欺に加担した。


「どんな事件ですか」と遥が聞いた。

「調書を読んでみてください」と烏丸が言った。

「ただ」

「ただ?」

「夏の終わりに、ツバメが巣立ちをします」

 遥はそれだけで、少し理解した。

(また始まる)

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