第十三話「ツバメの過保護な巣(前編)」 ケース4:歪んだ愛情の檻
七月の末、緑ヶ丘地方裁判所の庭から、ツバメの声が聞こえた。
軒下に巣を作っているらしかった。
遥が気づいたのは、朝の出勤途中に玄関前を通りかかったときで、ちょうど親鳥が二羽、餌をくわえて戻ってくるところだった。
雛の声がした。
(まだいたんだ)
七月の末にしては遅い。
南へ渡る前の最後の子育てだろうか。
遥はしばらく見上げてから、執務室へ向かった。
烏丸はいつも通り、もうデスクにいた。
でも今日は少し違うことがあった。
遥がコートを掛けると、烏丸が顔を上げて言った。
「おはようございます」
それだけで、以前と何かが違うことを、遥は感じた。
何が違うかは、うまく言葉にならない。
ただ、以前より少しだけ、自然だった。
ホタルの夜から、何かが少しずつ変わっていた。
「おはようございます。玄関にツバメの巣がありました」
「知っています。今年もここで子育てをしていますね。裁判所の建物は人の出入りが多いので、カラスが近づきにくい。ツバメは人の建物を選んで巣を作る賢い鳥です」
「賢いんですね」
「ええ。天敵を利用する、という点で」
「それは賢いというより、したたかでは」
「したたかと賢いは同義に近いと思いますが」
遥は少し笑ってデスクに向かった。
お弁当箱を置いた。
今日は鶏そぼろごはんと夏野菜の煮びたし、ゴーヤの白和え。
「今日はゴーヤを入れました」
「苦い野菜ですね」
「夏バテに効きます。白和えにすると少し食べやすいです」
「ゴーヤはウリ科の植物で、苦味の成分はモモルデシンという物質です。この苦味が実は」
「先生、半分まで食べてから話す、という約束を覚えていますか」
烏丸が止まった。
「……覚えています」
「今日は食べる前に始まりました」
「……申し訳ありませんでした」
遥は首を振った。
悪くなかった。
そういう人だとわかっているから、もう怒れなかった。
午前中、遥は新しい案件の調書を読んだ。
令和六年第六一四号。詐欺、組織的犯罪処罰法違反。
被告人は前田 幸子、五十三歳。
無職、元主婦。
七年前に夫を病気で亡くし、以来一人暮らし。
息子が一人いる。
二十六歳。
調書によれば、前田の息子は消費者金融四社に合計三百八十万円以上の借金があった。
ギャンブルが主な原因だった。
前田はその返済を助けようと、スマートフォンのSNSで見つけた「日払い七万円、荷物の受け渡し補助スタッフ募集」という広告に応募した。
指示通りに動いた。
駅前で見知らぬ人から封筒を受け取り、指定された住所に届ける。
それだけの作業を、前田は五回繰り返した。
合計報酬は二十一万円。
息子の借金の一部に充てた。
その封筒の中身は現金だった。
架空の還付金を信じた高齢者四名が、自らの預金から引き出して「役所の職員」を名乗る詐欺師に渡したお金だった。
起訴罪名は刑法第二百四十六条(詐欺罪)の共同正犯、および組織的犯罪処罰法第三条の適用。
遥は調書を閉じた。
(七万円で、七万円のために)
息子の三百八十万円の借金に対して、五回で二十一万円。
焼け石に水だということは、前田自身もわかっていたはずだ。
それでもやった、という事実が、遥には重く引っかかった。
午前十時、第三法廷。
「起立」
全員が立った。
烏丸が入廷した。
今日の被告人席には、小柄な女性がいた。
肩が丸く、白髪の混じった短い髪。
手を膝の上で重ねていた。
法廷に入ってから、一度も顔を上げなかった。
「着席。令和六年第六一四号、詐欺等被告事件、第一回公判を開廷します」
人定質問が始まった。
「お名前をお聞かせください」
「前田、幸子です」
声が、小さかった。
でも、はっきりしていた。
「生年月日は」
「昭和四十五年、三月三日です」
「住所は」
前田が住所を答えた。
烏丸がそれを確認してから、検察官に目を向けた。
「起訴状の朗読をお願いします」
検察官が起立した。
「公訴事実。被告人は、氏名不詳の者らと共謀の上、架空の還付金名目で高齢者を欺いて現金を詐取する特殊詐欺に加担した。具体的には、令和六年二月十四日から同年四月二十日までの間、前後五回にわたり、詐欺の被害金員を受け子として受け取り、指定された場所に届けることにより詐欺を実行した。被害者は四名、被害総額は二百四十八万円である。罪名及び罰条。詐欺、刑法第二百四十六条第一項、刑法第六十条。組織的犯罪処罰法第三条第一項第十三号」
前田は起訴状の朗読の間、視線を下げたままだった。
「被告人にお聞きします。ただいまの内容について、間違いや付け加えたいことはありますか」
前田は首を振った。
「弁護人から認否をお願いします」
弁護人の中年女性、黒沢弁護士が立ち上がった。
「被告人は、荷物の受け渡しに関与した事実は認めております。ただし、当初、自身が関与している行為が詐欺であるという認識は有していなかったと主張しており、詐欺の故意の点については争います。また、組織的犯罪処罰法の適用についても、組織性の認識という点で争いがございます」
「承知しました。争点については次回以降の審理で確認します。本日の認否はここまでとします。次回の期日について調整します」
検察官と弁護人が手帳を確認し、次回期日が十日後に決まった。
「では本日の公判はここまでです」
「起立」
全員が立ち、烏丸が退廷した。
廊下に出ると、羽田が遥の隣に来た。
「故意を争ってきましたね」
「ええ。知らなかったと言えば情状が変わる可能性がありますが、五回も繰り返して知らなかったというのは難しい立場ですね」
「そうなんですけど」羽田が少し間を置いてから言った。
「調書、読みましたか」
「はい」
「息子の借金のために、ですよね」
「ええ」
羽田は廊下の窓の外を見た。
蝉の声がした。
「……気持ち、わからなくもないですよね」
遥は羽田を見た。
「どっちが、ですか」
「前田さんの、です」羽田が静かに言った。
「自分の子供がお金に困っていたら、何かしてやりたいって、思う親は多いと思うんです。それがたとえ、間違った方法だとしても」
廊下の向こうから、誰かが歩いてくる音がした。
遥が振り向くと、大河内裁判長がいた。
六十一歳。
白髪で、少し猫背で、湯呑を持っていた。
特設更生分室を管轄する刑事部の裁判長だった。
烏丸の直属の上司にあたる。
大河内は羽田の言葉を聞いていたのかいなかったのか、ただ静かに歩いてきて、二人の前で立ち止まった。
「羽田くん、今日は傍聴していたんですか」
「ええ、少し」
「前田さんの件」
「はい」
大河内がお茶を一口飲んで、窓の外を見た。
「そういうことを言える若い人を見るのは、久しぶりだね」
「え?」
「気持ちがわからなくもない、と言えること。法律的に正しいかどうかとは別の話として、そう言える人間が法曹にはなかなかいない」
羽田が少し戸惑ったような顔をした。
大河内はそれ以上何も言わず、湯呑を持ってまた歩き始めた。
「ごちそうさまでした」
それだけ言って、廊下の奥へ消えていった。
羽田が遥を見た。
「ごちそうさまでした、って何の話ですか」
「わかりません」遥は言った。
「でも、良いことを言われた気がしますよ」
夕方、執務室で遥が片付けをしていると、烏丸が調書から顔を上げた。
「築地さん、今日の法廷で前田さんをどう見ましたか」
「小さい人だと思いました」遥はファイルを棚に収めながら言った。
「加藤さんと似たようなことを思いました。疲れている顔だって」
「そうですね」
「調書の中で、息子さんとの関係が気になりました。前田さんが逮捕されたとき、息子さんはどうしていたか」
「調書によれば」烏丸が言った。
「息子は母親が逮捕されて初めて、借金のことを全部話したそうです。それまで前田さんは、息子に借金の全容を聞かされていなかった」
「知らずに助けようとしていた」
「ええ。金額も、原因も、教えてもらっていないまま」
遥は少し黙った。
「……それは、かわいそうな話ですね」
「どちらが、ですか」
「両方が、です」
烏丸が静かにうなずいた。
「ツバメは、雛を押し出す前に、充分に飛び方を見せます。でも、飛び方を見せてもらえなかった雛は、どうやって飛び立てばいいかわからない。そういう話かもしれません」
遥はその言葉を、自分のノートには書かなかった。
でも、胸のあたりに、しまった。
庭の方向から、ツバメの声がした。
もうすぐ、雛たちが巣立つ。




