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第十四話「ツバメの過保護な巣(中編)」 ケース4:歪んだ愛情の檻

 第二回公判の朝、遥は執務室の窓から庭を見た。


 ツバメが二羽、低く飛んでいた。

 巣はもうない。

 先週の末に、雛たちが巣立っていた。

 親鳥たちは空になった軒下の前を何度か往復して、それからどこかへ飛んでいった。

 今日飛んでいるのは、その子供たちだろうか。

 それとも、もう別の鳥だろうか。

 遥にはわからなかった。


「ツバメが飛んでいますね」と烏丸が言った。

「先生も見ていましたか」

「ええ。軒下の巣は先週なくなりました。雛が旅立ちました」

「寂しいですね」

「いいえ」烏丸が淡々と言った。

「それがツバメの正しい在り方です。巣がなくなってから、親も子も本当の意味で自由になる」

 遥はその言葉を、少し長く持った。


 午前十時、第三法廷。

 第二回公判。

 今日は証拠調べと被告人質問が予定されていた。


「証拠調べを行います。検察官から請求をお願いします」

 検察官が立ち上がった。

「まず弁第一号証から。被告人が受け子として加担した詐欺組織との連絡に使用されたメッセージアプリの記録です。組織側からの指示メッセージ、集合場所の指定、受け渡し手順が含まれています」

「弁護人の意見は」

「採用に異議ありません」

「採用します。メッセージの内容を要点のみ朗読してください」

 検察官が読み上げた。


「一月十四日。『本日一三時、○○駅西口コンビニ前でお待ちください。グレーのキャップの男性から封筒を受け取り、指定の住所に届けてください。封筒には触れないでください。玄関先で渡したらすぐに立ち去ってください』。一月二十一日。『先日と同じ手順です。今回は二件連続で対応いただきます。ご協力に感謝します。報酬は本日中に振り込みます』」

 法廷が静かだった。

 前田幸子は、正面を向いたまま、手を膝の上で重ねていた。


「続いて弁第二号証。被告人の銀行口座の入出金記録です。被告人が受け取った報酬、合計二十一万円の振込が記録されています。なお、当初提示された日払い七万円という条件に対し、実際の振込額は一回あたり四万二千円に留まっています」

「採用します」

「以上が主な書証です。続いて証人として被害者の一人、田村八十一郎さんの陳述書を代読します」

 検察官が別の書面を取り出した。


「私は八十七歳の一人暮らしです。市役所の職員を名乗る男性から電話があり、還付金の手続きのために現金が必要だと言われました。指示通りにATMで五十万円を引き出し、来た女性に渡しました。あの女性は丁寧な言葉遣いで、私はてっきり本物の職員だと思いました。後でお金が戻らないとわかったとき、足が震えました。私の年金は月に十二万円です」

 遥はペンを持ったまま、止まった。


 八十七歳、月十二万円。五十万円。


 前田幸子が、その場にいた。

 封筒を受け取り、老人の玄関に届け、立ち去った。

 その場にいた。


 証拠調べが終わり、被告人質問に移った。

 弁護人の黒沢弁護士が立ち上がった。


「前田さん、この仕事に応募したきっかけを教えてください」

「スマートフォンで、見つけました。息子のことが心配で、何かできないかと思っていたので、ついクリックしてしまいました」

「最初に連絡が来たとき、どんな説明がありましたか」

「企業の荷物管理の補助スタッフだと聞きました。守秘義務があるから詳しくは言えないが、日払いで七万円出せると言われました」

「怪しいとは思いませんでしたか」


 前田が少し間を置いた。

「……思いました。でも、思わないようにしました」

 法廷が静かになった。

 弁護人がうなずいた。

「なぜ思わないようにしたんですか」

「息子のためにお金が必要だったからです。考えると、できなくなると思いました」

「一回目の作業のとき、何か気になることはありましたか」

「封筒が、厚かったです。現金だとは思いました。でも、会社の機密書類の輸送かもしれないと、自分に言い聞かせました」

「二回目以降は」

「わかっていたと思います」前田が静かに言った。

「でも、やめませんでした。もう連絡先も知られていたので、怖かったのもあります。でも本当は……息子のために、もう少しお金を稼ぎたいと思っていた方が、大きかったかもしれません」

 遥は記録を取りながら、その言葉を反芻した。


(知っていた。でも止まれなかった)


 検察官の反対尋問は、その点を中心に行われた。

「二回目の作業の際、あなたはすでに詐欺に関与している可能性を認識していた、ということですか」

「……はい」

「三回目は」

「はい」

「四回目、五回目も」

「はい」

「五回の作業を通じて、あなたはお金を受け取り、被害者に接触した。その間、警察に相談しようとは思いませんでしたか」

 前田が少しの間、黙っていた。


「……できませんでした」

「なぜですか」

「息子のことを、話さなければならなくなるので」

 法廷が、また静まった。


 烏丸が口を開いた。

「裁判官から補充質問があります」

 前田が顔を少し上げた。

「前田さん、息子さんは今、面会に来ていますか」

 前田の手が、膝の上でわずかに動いた。

「……来ていません」

「息子さんはこの件を知っていますか」

「……知っているはずです。逮捕のとき、息子にも連絡が行きましたから」

「あなたから、息子さんに連絡しましたか」

「……しませんでした。心配させたくなかったので」

 烏丸はうなずいた。

「借金のことは、全部話してもらっていましたか」

「いいえ」前田が静かに言った。

「全部は教えてもらっていませんでした。私が聞いても、大丈夫だから、と言うので。だから、私の方でどうにかしようと思いました」

「わかりました。ありがとうございます」


 烏丸が退廷の手続きを進めた。

「本日の公判はここまでとします。次回は論告・弁論の手続きに入ります。期日については追って連絡します」

「起立」


 廊下に出ると、羽田が珍しく黙っていた。

 遥が先に聞いた。

「どうしましたか」

「……先生の補充質問、今日は特に」羽田がゆっくり言った。

「面会に来ていますか、って聞いたじゃないですか」

「ええ」

「あの答え、来ていない、って。前田さん、あのとき初めて少し声が揺れましたよね」

「そうですね」

「息子のためにやったのに、息子は来ない。それで、まだ息子を心配している」

 羽田が廊下の窓を見た。

「先生、前田さんのために何かを聞いたんじゃなくて、前田さんが本当に何のために今ここにいるのかを確かめたかったんだと思います」


 遥は羽田を見た。

「羽田さん、成長しましたね」

「そんな気はしないですけど」羽田が苦い顔をした。

「ただ、今日の法廷、しんどかったです。正直」

「それが成長ですよ」


 夕方、執務室に戻ると、烏丸が窓の外を見ていた。

 遥が入ると振り向いた。


「まだいましたか」

「少し残って書いていました。先生こそ」

「判決文の草案を考えていました」

 遥は自分のデスクに向かいながら、少し聞いた。

「今日の補充質問、考えていたんですか。あらかじめ」

「どこかで聞こうとは思っていました。息子が来ているかどうかを」

「なぜですか」

「息子が来ていれば、前田さんには帰る場所がある。息子が来ていなければ、前田さんがここに来る理由を、法廷の外から作らなければならない」

「法廷の外から」

「ええ。執行猶予になったとして、前田さんが次の三年間、何のために生きるか。それがなければ、刑の軽重だけでは意味がない」


 遥は少し考えてから言った。

「息子さんは来るでしょうか、これから」

「わかりません」烏丸が言った。

「でも、前田さんが息子のために飛ぼうとしたのが間違いの始まりなら、今度は前田さん自身のために飛ぶことを、話したいと思っています」


 窓の外から、遠くツバメの声がした。

 もう夕暮れが来ていた。

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