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第十五話「ツバメの過保護な巣(後編)」 ケース4:歪んだ愛情の檻

 八月の第一週、第三回公判が開かれた。


 蝉の声が、法廷の外からでも聞こえた。

 厚い窓ガラスを通して、遠く低く、それでもはっきりと届く声だった。

 今日は論告と弁論と、被告人の最終陳述が予定されていた。


「論告を行います。検察官、お願いします」


 検察官が起立した。

「被告人は、架空の還付金詐欺を行う特殊詐欺グループの受け子として、五回にわたり詐欺の実行に加担し、高齢の被害者四名に合計二百四十八万円の損害を与えました。被告人が詐欺の故意を有していたことは、被告人質問においても認められており、疑いの余地がありません。受け子という役割はグループの末端に位置しますが、詐欺行為の完遂に不可欠な役割であり、その刑事責任を軽く見ることはできません。また、被害弁償は未了であり、被害者の精神的苦痛は今も続いています。以上の諸点を考慮し、被告人を懲役二年に処することが相当と考えます」

 検察官が着席した。


 次に黒沢弁護士が立ち上がった。

「弁護側弁論を申し上げます。被告人は本件犯行の全てを認め、深く反省しています。犯行の背景には、夫を亡くして以来一人で息子を支えてきた生活と、息子の借金問題に対する強い不安がありました。被告人は組織の実態を充分に認識しないまま関与を始め、継続した部分については未必の故意の範囲にとどまります。また、特殊詐欺組織の末端として利用された側面も否定できません。前科前歴がなく、捜査に全面的に協力し、被害弁償の意向も示しています。以上を総合考慮し、刑の執行を猶予する判決を求めます」


「では、被告人から最終陳述をお願いします」


 前田幸子が立ち上がった。

 今日の彼女は、いつもより少し背が縮まって見えた。

 それでも、声は出した。


「被害に遭われた方々に、申し訳ありませんでした。取り返しのつかないことをしました」

 そこで一度止まった。

「息子には……これ以上、迷惑をかけたくないので、早く終わらせたいと思っています。それだけです」

 前田が座った。


 遥は記録しながら、その最後の一文に引っかかった。

(早く終わらせたい。息子に迷惑をかけたくないから)

 まだ、守っていた。

 息子を。

 法廷の場でも、まだ息子の前から退こうとしていた。


 烏丸が書類を閉じた。

「弁論を終結します。判決は来週火曜日、午前十時に言い渡します」

「起立」


 一週間後、判決の朝。

 遥が執務室に来ると、烏丸はいつもより早く来ていた。

 ただし今日は珍しく、窓の外を見ていなかった。手元のメモを見ていた。


「おはようございます」

「おはようございます。今日は早いですね」

「ええ。今日は少し、言葉を整理しておきたかったので」


 遥はコートを掛けながら、お弁当箱を置いた。

 今日は冷たいおかずだけにした。

 夏の判決の朝に、温かいものは重い気がした。


 烏丸がメモを閉じた。

「ツバメは」と烏丸が言った。

「巣立ちのとき、親が雛を押し出すと言いますが、正確には、親が先に飛んで見せることで、雛が後を追って飛び出すんです」

「先に飛ぶ、んですね」

「ええ。追い出すのではなく、先に飛んで見せる。どうやって飛ぶかを、背中で見せる」

「それが正しい巣立ちの在り方だと」

「そうです」烏丸がメモを再び手に取った。

「前田さんは、息子に背中を見せたことがあったか。それを、今日聞きたいと思っています」


 午前十時、第三法廷。

「起立」


 烏丸が入廷した。

 前田幸子が座っていた。

 今日の彼女はいつもより顔が青白く見えた。


「着席。令和六年第六一四号、詐欺等被告事件の判決を言い渡す」

「主文。被告人を懲役二年に処する。この裁判確定の日から四年間、その刑の執行を猶予する」


 前田の体が、かすかに揺れた。


「理由を告げる。被告人が特殊詐欺グループの受け子として五回にわたり詐欺行為に関与した事実は、証拠調べの結果により明らかである。被告人は詐欺の故意を有しながら犯行を継続したものであり、被害者の損害は合計二百四十八万円に及ぶ。その刑事責任は軽くない」


 烏丸が書類を一枚めくった。


「しかしながら、量刑にあたっては次の事情を考慮する。被告人に前科前歴がないこと。犯行の動機は家族への献身的な感情に基づくものであり、私利を目的とするものではなかったこと。組織の末端として関与したものであり、詐欺の計画に関与した事実はないこと。捜査に全面的に協力し、公判を通じて真摯な反省が認められること。以上を総合考慮し、刑法第二十五条第一項の規定に基づき、主文のとおり刑の執行を猶予することが相当と判断した」


 烏丸が書類を閉じた。

 そして、前田を見た。


「前田さん、少し待ってください」


「ツバメという鳥の話を、聞いてもらえますか」

 前田が顔を上げた。

 今日は、法廷に入ってから初めて、烏丸と目が合っていた。


「ツバメは毎年、同じ場所に戻って巣を作ります。親鳥は雛に餌を運び、外敵から守り、懸命に世話をする。でも時期が来ると、親鳥は先に巣を離れ、空に向かって飛びます。雛は最初、巣の縁で迷います。怖くて、飛べなくて、ただ親の背中を見ている。でも、親が飛んでいる姿を見て、自分も翅を広げる」


 前田は黙って聞いていた。


「あなたは息子さんのために、多くのものを差し出しました。借金のことを全部教えてもらえないまま、それでも何かしてあげようとした。その気持ちは、本物だったと思います」


 遥はペンを持ちながら、また動けなくなった。

 記録は取れていた。

 でも、手が少し重かった。


「ただ、一つだけ聞かせてください。息子さんに、困ったと言いましたか。自分が苦しいと、伝えたことがありましたか」


 前田が少し首を振った。


「言えませんでした。心配させたくなかったので」

「そうですね」烏丸が静かに言った。

「あなたはずっと、息子さんに背中を見せていなかった。困っている背中を。苦しんでいる背中を。だから息子さんは、あなたがどれほど飛んでいたか、知る機会がなかった」


 前田の目が、少し揺れた。


「ツバメの雛は、親が飛ぶのを見て、飛び方を知ります。でも親が巣の中で全てを抱えていたら、雛は巣の外に何があるか、永遠に知れない。あなたが息子さんのために作り続けた巣は、息子さんが飛ぶことを学ぶ機会を、少しずつ奪っていたかもしれません」


 前田の目から、音もなく涙が落ちた。

 加藤みどりのときと同じ、静かな涙だった。


「四年間の猶予があります。その間に、一度だけ、息子さんに困ったと言ってみてください。助けてほしいと、言ってみてください。それが、本当の巣立ちの始まりになると、私は思います」


 法廷が静かだった。

 蝉の声だけが、遠く続いていた。

 前田は涙を拭おうともせず、ただ小さくうなずいた。


 法廷が終わって廊下に出ると、羽田が壁に背中をもたせかけていた。

「先生に補充質問があります」と烏丸が退廷した後に言った。

「何を」と遥が聞いた。

「どうして毎回ちゃんと泣かせられるんですかって」

 羽田が少し苦い顔で言った。

「俺、今日も記録取りながらしんどかったです」

「羽田さんが今日一番しんどかったのは、どの場面ですか」

「前田さんが、最終陳述で『息子に迷惑をかけたくないから早く終わらせたい』って言ったとこです」

 羽田が窓の外を見た。

「あれを、先生は聞いていたんですよね。だから説諭で、困ったと言えたかって聞いた」

「ええ」

「……先生って、怖いですよね。やさしい怖さ、みたいな」


 遥はその言葉を、少しの間、味わった。

「やさしい怖さ」

「そういう人が、一番深いとこまで来る気がします」


 廊下の先で、大河内裁判長が湯呑を持って通り過ぎた。

 羽田の言葉を聞いていたかどうかは、わからなかった。

 でもちらりとこちらを見て、静かに歩いていった。

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