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第十六話「ツバメの過保護な巣(終章)」 ケース4:歪んだ愛情の檻

 判決から四日後、黒沢弁護士から一通の書面が届いた。


 内容は短かった。

 前田幸子は判決の翌日、息子に電話をかけた。

 息子は出た。

 前田は「困っている、会いに来てほしい」と言った。

 息子は翌日、面会に来た。

 二人が何を話したかは記されていなかった。

 弁護士の書面には「被告人の意向により、詳細はお伝えできかねます」とだけあった。


 烏丸はその書面を一度読んで、ファイルに収めた。

「良かったですね」と遥は言った。

「ええ」

「電話、かけられたんですね。困ったと」

「かけました」烏丸が静かに言った。

「かけられた、というより、かけなければならなかった、かもしれません。でも、かけた」

「それで充分だと思います」

「そうですね」


 窓の外で、蝉の声がまだ続いていた。

 でも遥には、数日前より少し、静かになった気がした。

 夏が、終わりを知り始めていた。


 昼になった。

 今日のお弁当は茄子の揚げびたしと、鶏の照り焼き、枝豆のごはん。

 夏の名残りと、少しだけ秋の気配が混ざった献立だった。


「茄子です」と遥が言った。

「ありがとうございます。茄子は九十三パーセントが水分で」

「先生」

「はい」

「今日は半分食べてから、という約束を、もう少し延長して、三分の二まで食べてから話してください」

 烏丸が少し止まった。


「……範囲が狭くなっていますね」

「成長です」

「……わかりました」

 烏丸が黙って食べ始めた。

 遥もお茶を飲みながら、外を見た。

 庭の木々が少しだけ、色が変わり始めていた。

 緑が、深さを失い始めていた。


「先生」と遥が先に言った。

「はい」

「一つ、聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「前から気になっていたんですが、先生はいつから生き物の話を説諭に使うようになったんですか」

 烏丸が茄子に箸を伸ばしながら、少し考えた。


「判事になって二年目のときに、一度だけ説諭をしてひどく後悔したことがありました」

「どういうことを言ったんですか」

「正論を言いました。再犯しないために何をすべきか、社会的な責任とは何か、そういうことを並べました。被告人の方は黙って聞いて、ありがとうございましたと言いました。でも後で担当弁護士から連絡があって、法廷を出たあの人はずっと泣いていた、と聞きました」


 遥はお茶を置いた。

「正論で、泣かせてしまった」

「ええ。正しいことが、人を傷つけることがある。それを知ったとき、何かが変わりました。正しいことではなく、届くことを、言わなければいけないと思うようになりました」

「それから、生き物の話を」

「最初は偶然でした。被告人の方を見ていて、ある生き物が浮かんで、その話をしたら、届いた気がした。それから、続けています」

 遥はしばらく黙って、自分のお弁当を見た。

「私も」と遥が言った。

「一つ、話してもいいですか」

 烏丸が箸を置いた。


「兄が、います」と遥は言った。

「二人兄妹で、三つ年上の兄が」

「はい」

「私が大学三年生のとき、兄が勤めていた会社で、横領事件が起きました」

 烏丸が静かに聞いていた。


「真犯人は別にいました。でも最初に疑われたのが兄で、証拠も曖昧で、起訴はされませんでした。でも職場には居られなくなりました。転職先も続かなかった。噂は広がっていたので」

「それで」

「今は実家に戻っています。細々と、アルバイトをして、暮らしています」

 遥は窓の外を見た。

 庭の木に、小さな鳥が止まっていた。

 ヒヨドリかもしれなかった。


「それが、書記官になった理由のひとつです。法律の場所にいれば、もし何かあったとき、兄を守れるかもしれないと思って。兄のために飛んでいた部分が、私にもあったんだと思います」

 しばらく、執務室が静かだった。

「ミツバチのときに、話していた」

 烏丸が静かに言った。

「自分にも飛び続けてきた部分がある、と」

「ええ。あのときは、まだうまく言えなかったですが」

「そうですか」

 遥は烏丸を見た。


「先生は、知っていましたか。私がそういう人間だということを」

 烏丸は少し間を置いた。

「知っていたのではなく、感じていました」

「何を」

「法律に傷つけられた側から、法律の場所に来た人なんだと。それには理由があるんだと」

 遥は言葉を探した。

 でも見つからなかった。


「確かめなかったのは」

 烏丸が続けた。

「あなたが話すときを、待っていたので」

 遥の手が、膝の上でかすかに動いた。


(待っていた、と言った)

 ホタルの夜に「急ぎません」と言った人が、ここでも同じことを言っていた。

 待つことを、この人はちゃんと知っていた。


「……今日話せてよかったです」遥はゆっくり言った。

「私も、聞けてよかったです」

 烏丸がまたお弁当に向かった。

 三分の二のところで止まって、遥を見た。

「茄子は、九十三パーセントが水分で、残りの多くがカリウムです。夏の体に必要な栄養素で」

「いただきました」

 遥が少し笑った。

「ありがとうございます」烏丸が言った。

 耳が、少し赤かった。


 夕方、帰り支度をしていると、烏丸が窓の外を見て言った。

「見てください」

 遥が窓に近づいた。


 電線の上に、ツバメが集まっていた。

 十羽、二十羽、もっと多いかもしれなかった。

 整列するように並んで、ときどき飛び立って、また戻ってくる。


「旅立ちの前です」と烏丸が言った。

「群れを作って、南へ向かう準備をしています」

「今年の子たちも、いますかね。軒下の」

「いると思います。あの子たちも、もう充分に飛べる」


 遥は電線を見た。

 小さな体が、夕日の中で黒いシルエットになって、並んでいた。


「行ってしまいますね」

「来年、また来ます」烏丸が言った。

「ツバメは帰巣本能が強い。育った場所に戻ってくる」

「また、軒下に」

「ええ。裁判所を選んで、また巣を作る」


 遥はしばらく、電線を見ていた。

 夕日がオレンジに傾いていた。

 夏の最後の光だった。


「秋が来ますね」と遥が言った。

「ええ」烏丸が言った。

「秋も、生き物は動いています」

 遥は少し笑って、コートを取った。


(また、新しい話が始まる)


 次の被告人の顔をまだ知らない。

 でも烏丸がその人を見て、またどこかで生き物が浮かぶ。

 遥がその横で聞く。

 それが、この場所の在り方だと、遥はいつからか知っていた。

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