幕間 「湖畔の午後、秋待ち」 幕間 ── 次の判決まで
九月の第一土曜日、烏丸から連絡が来た。
メッセージアプリではなく、前日の夕方に執務室で直接、だった。
「明日、少し時間がありますか」
「ある、と思いますが」
「野鳥の観察に行くところがあります。緑ヶ丘湖という、ここから電車で二十分ほどの場所で。もし、良ければ」
烏丸が「もし良ければ」と言い切った。
今回は止まらなかった。
ホタルの夜から、少しずつ、言葉が最後まで届くようになっていた。
「行きます」と遥は言った。
緑ヶ丘湖は、想像より広かった。
駅から歩いて十分、木立の間を抜けると、静かな水面が広がっていた。
対岸の山が逆さまに映っている。
九月に入ったばかりなのに、湖の周囲の木々はすでに少しだけ色づき始めていた。
「来たことがありますか」と烏丸が聞いた。
「初めてです。こんな場所があるとは知りませんでした」
「毎年、秋の渡りの時期に来ます。水辺には、水鳥が立ち寄ります」
烏丸は双眼鏡を取り出しながら歩いた。
遥はその隣を、少し後ろ気味に歩いた。
湖岸の木製ベンチのあたりで、烏丸が立ち止まった。
水辺に、数羽の鳥がいた。
「アオサギです。日本最大のサギ科の鳥で、全長は九十センチほどになります」
「大きいですね」
「ええ。あの静止した姿が特徴的です。一時間でも二時間でも、あのまま動かないことがある」
遥はアオサギを見た。
確かに、石のように立っていた。
「忍耐強いんですね」
「忍耐ではなく、あれが普通の状態なんだと思います。待つことが、生きることと同じになっている」
遥はその言葉を、少し長く持った。
二人はベンチに座った。
烏丸が紙コップを二つ取り出した。
自販機で買ってきたホットの緑茶だった。
「ありがとうございます」
「冷えますから」
九月の湖岸は確かに、少し涼しかった。
遥はコップを両手で持った。
しばらく、水面を見ていた。
アオサギがまだそこにいた。
「兄の話、もう少し聞きますか」と遥が言った。
「聞かせてもらえますか」
烏丸が言った。
「あなたが話したければ」
「話したいです。昨日、初めて少し言えて、それからずっと、もう少し話したいと思っていたので」
烏丸が静かに正面を向いた。
遥の方を見るのではなく、水面を見ながら、耳だけをこちらに向けているような体勢だった。
それが、遥には話しやすかった。
「兄は、とても真面目な人です。律儀で、几帳面で。そういう人が、なぜ疑われたのかと今でも思います。あの会社で横領をしていたのは別の人でした。でも状況が兄に不利で、弁護士を立てるお金もなくて。会社も、起訴されなかったからということで、それ以上動いてくれませんでした」
「そのとき、あなたは」
「大学三年でした。就活が始まる直前で。兄のことが頭から離れなくて、でも私に何もできなくて」
遥はコップを握った。
「兄は実家に戻ってから、しばらく部屋から出られなかったです。私が電話するたびに、大丈夫だから就職活動に集中しなさいと言って、切るんです。心配させたくない、という意味だったと思うんですが、私は余計に心配で」
「電話は今も続けていますか」
「はい。週に一度は必ず。最近は声が少し軽くなってきて」
烏丸が少し間を置いてから言った。
「それはあなたが電話するからですよ」
遥は手の中のコップを見た。
「……それは」
「週に一度、続けてかけてきてくれる人がいることを、お兄さんは知っている。それが支えになっていると思います。あなたが飛んできた、ということです」
遥は何も言えなかった。
言えなかったが、胸のあたりが少し、緩んだ。
しばらく、二人とも黙っていた。
水面に小波が立って、アオサギのシルエットが揺れて、また静まった。
「先生は、どうして生き物が好きなんですか」と遥は聞いた。
烏丸が少し考えてから言った。
「人間より、理由がないので」
「理由が、ない?」
「ホタルは誰かのために光っているのではない。コオロギは誰かのために鳴くわけでもない。ただそういうものだから、そうしている。人間のように、愛情なのか義務なのか打算なのかを混ぜながら動いていない。それが、楽だと思うことがあります」
遥はその言葉を聞きながら、烏丸という人の少し内側を、初めて見た気がした。
(この人も、疲れることがある)
あれだけ人を見続けて、言葉を選び続けて、届けようとし続けて。
生き物を見ているときだけ、休んでいる。
「先生にとって、鳥を見ているときは休んでいるときなんですね」
「……そうかもしれません」
「良かったです」
「なぜですか」
「先生にも休める場所があるとわかったので」
烏丸が遥を見た。
少し驚いたような、でも困ったような顔だった。
遥はそれに気づいて、少し笑った。
烏丸が前を向いた。耳が赤かった。
夕方近くなって、二人は立ち上がった。
帰り道、湖岸を歩きながら、烏丸が空を見上げた。
「あれはカワセミです」
遥も見上げた。
小さな青い影が、矢のように湖面をかすめて飛んでいった。
一瞬だった。
「きれいでしたね」
「ええ」烏丸が言った。
「見られるとは思っていませんでした」
「先生でも、予想外のことがあるんですね」
「あります」
烏丸が少しだけ、口元を緩めた。
「良い方の予想外が、今日は続いています」
遥はその言葉の意味を、すぐには問わなかった。
でも、わかった気がした。
電車に乗るまでの道を、二人で並んで歩いた。
距離は、行きよりも少し近かった。




