第十七話「抜け殻の蝉時雨(前編)」 ケース5:鳴き声の行方
九月に入っても、蝉は鳴き続けていた。
盛夏のような力強さはもうなかった。
でも、執務室の窓を開けると、まだそこに声があった。
アブラゼミとツクツクボウシが混ざり合って、どこか切迫したような音をたてていた。
「そろそろ終わりますね」と遥は言った。
「ツクツクボウシは九月に鳴き始め、十月まで鳴き続けます」
烏丸が書類から顔を上げた。
「あの声は、晩夏から秋の始まりを告げるものです。終わりではなく、次への橋渡し、と言った方が正確かもしれません」
「先生にはどう聞こえますか、蝉の声は」
「力が尽きる直前の声だと思います。地中で何年も過ごして、地上に出て、すべてをあの短い時間に懸けている。だから、あの音は静かなのに、どこか必死なんです」
遥はそれを聞きながら、窓の外の庭を見た。
木の幹の几所に、薄い透明な抜け殻が残っていた。
蝉が羽化した後に置いていった、空っぽの形だった。
今日、新しいファイルが届いた。
令和六年第七〇八号。罪名の欄に「恐喝」とあった。
被告人は小堀 賢司、四十七歳。
無職。
元株式会社マルシン食品、商品開発部課長。
遥はファイルを読んだ。
二十年間、食品メーカーで働いた。
商品開発の実績は社内でも評価されていたと調書にある。
だが四十五歳のとき、会社の組織再編でリストラされた。
その後、小堀は在籍中に知り得た情報を使った。
会社の主力商品のひとつに、産地偽装があったことを、退職時に証拠書類とともに持ち出していた。
退職から八ヶ月後、小堀は会社の役員に連絡をとり、「この情報をメディアに公表する前に、誠意を見せてほしい」と要求した。
役員が面会に応じた。
小堀は五百万円を要求した。
会社は一度、五十万円を支払った。
その後、警察に相談した。
恐喝罪。
刑法第二百四十九条。
十年以下の懲役。
遥はファイルを閉じた。
(告発しようとしていたのか。それとも最初から金が目的だったのか)
どちらなのか、調書だけではわからなかった。
午前十時、第三法廷。
「起立」
全員が立ち、烏丸が入廷した。
今日の被告人席には、大柄な男性がいた。
がっちりした体格で、スーツは古びているが、姿勢は良かった。
かつて職場で一定の地位にあったのだろうと、遥には思えた。
でも、顔が、どこか遠かった。
視線が定まっていない、という感じではなく、ちゃんと前を見ているのに、ここではないどこかを見ているような目だった。
「着席。令和六年第七〇八号、恐喝被告事件、第一回公判を開廷します」
「人定質問を行います。お名前をお聞かせください」
「小堀 賢司です」
低い声だった。
落ち着いていた。
怯えている様子はまったくない。
「生年月日は」
「昭和五十一年、十一月八日です」
住所の確認が済み、烏丸が検察官に目を向けた。
「起訴状の朗読をお願いします」
検察官が立ち上がった。
「公訴事実。被告人は、令和六年一月十四日、株式会社マルシン食品の常務取締役である高橋某に対し、同社製品の産地偽装に関する内部資料の存在を示唆した上で、これを外部に公表する旨の脅迫的言辞を用いて、金五百万円を要求し、もって人を恐喝した。なお被告人は同月二十一日、同社より金五十万円の交付を受けた。罪名及び罰条。恐喝、刑法第二百四十九条第一項」
「被告人にお聞きします。ただいまの内容について、間違いや付け加えたいことはありますか」
小堀は少しの間、黙っていた。
「事実関係は、概ねその通りです」
「概ね、というのは」
「金を受け取ったことは事実です。ただ、私がしたことは告発の前段としての交渉であって、恐喝の意図はなかった。その点については、争いたいと思っています」
烏丸が書類にメモを取った。
「弁護人から確認します」
弁護人の木村弁護士が立ち上がった。
五十代、温和な印象の男性だった。
「被告人は起訴状に記載された金銭の受け取りは認めております。ただし、その行為が刑法上の恐喝に当たるか否かの点、特に脅迫の意図の有無と、告発予告が正当行為の範囲内に含まれるかについて争います。なお、産地偽装の事実については、被告人が在職中に認識した実態であり、本件と並行して、その告発を行う意向がございます」
「承知しました。双方の主張を踏まえ、次回以降で争点を整理します。本日の公判はここまでとします」
「起立」
廊下に出た。
「告発と恐喝の境界線、ですね」と羽田が言った。
「そうです。難しい線引きです」
「産地偽装が本当にあったなら、告発自体は正しい行為ですよね。でもそこに金を要求すれば恐喝になる」
「おっしゃる通りです。判例では、正当な権利の行使であっても、その手段が脅迫的であれば恐喝罪が成立するとされています」
「先生は今日の被告人を見てどう思うと思いますか」
「先生に聞いてみてください」遥は言った。
「怖くないですか、先生に直接聞くの」
「聞かないと教えてくれません」
羽田がため息をついて、廊下の奥へ歩いていった。
遥は小さく笑った。
昼のお弁当は、今日からさつまいもを入れた。
秋らしく。
「さつまいもです」
「ありがとうございます。さつまいもはヒルガオ科のサツマイモ属で、原産は中南米です。江戸時代に九州から伝わり、飢饉対策として普及しました。甘みは貯蔵するほど増し」
「先生」
「はい」
「三分の二食べてから、という約束です」
「……覚えていましたか」
「覚えています」
烏丸は静かに食べ始めた。
遥は窓の外を見た。
庭の木の葉が、一枚、また一枚、静かに揺れていた。
「今日の被告人の方、どう見ましたか」と遥は聞いた。
「遠い目をしていました」
烏丸がさつまいもを一口食べてから言った。
「法廷の外のどこかを見ているような。でも怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。ただ、遠くにいる」
「産地偽装の告発と恐喝の間で、自分でも整理がついていないのかもしれません」
「整理がついていない、というより」
烏丸が少し考えた。
「最初の動機が、時間の中でどこかへ行ってしまったのかもしれません。告発しようとした、というのは本当だったかもしれない。でも二年間、誰にも相手にされないうちに、その怒りが変質した。何かを動かしたかっただけになった。それ以上の理由は、もうどこかへ消えてしまって」
「抜け殻みたいですね」
遥は思わず言った。
言ってから、朝の庭の木の幹の話を思い出した。
「抜け殻」と烏丸が繰り返した。
「ええ。鳴いていた蝉が、殻だけ残して飛んでいってしまった、ということかもしれません」
窓の外で、まだ蝉が鳴いていた。
でも、少し前より、声は少なかった。




