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第十八話「抜け殻の蝉時雨(中編)」 ケース5:鳴き声の行方

 第二回公判は、九月の第三週に開かれた。


 廊下の窓を開けると、蝉の声はもうほとんど聞こえなかった。

 代わりに、どこかで虫が鳴き始めていた。

 何の虫かはわからなかった。

 でも確かに、季節が動いていた。


「証拠調べを行います。検察官から書証の請求をお願いします」

「はい。まず弁第一号証。被告人が株式会社マルシン食品の常務取締役に送付した電子メールおよびその返信の記録です。令和六年一月十四日から同月二十日にかけての全七通で、被告人による金銭要求の文言が含まれています」


「弁護人の意見は」

「採用に異議ありません」

「採用します。要点をお願いします」

 検察官が書面を読み上げた。


「一月十四日。件名『ご相談について』。本文『長年お世話になったマルシン食品が、消費者に対して誠実であってほしいと願っています。私が在職中に知り得た情報について、お伝えすべきことがあります。ご面会いただけますでしょうか』。同日の返信、件名『Re:ご相談について』。本文『お気持ちはわかりますが、退職された方との面会はお断りしております』。一月十六日。被告人の再送信メール、本文『あなた方が面会を拒むなら、私が持っている情報を然るべき場所に提供します。この件は世間に相応の影響を与えるでしょう。判断はそちらにお任せします』」

 法廷が静かになった。


「一月二十一日に面会が設定されており、その席上で被告人が五百万円を要求した旨は、会社側関係者の証言でも確認されています。同日、口座への振込という形で五十万円が支払われました。以上が恐喝の経緯です」

「採用します。続けてください」


「弁第二号証。被告人の銀行口座の入出金記録です。令和六年一月二十一日に、マルシン食品の関連口座から五十万円の振込が確認されています」

「採用します」


 烏丸が弁護人を見た。

「弁護人から提出予定の書証がありましたね」

「はい。弁護側から三点提出します。弁弁第一号証。被告人が令和五年六月十八日付で消費者庁に提出した申告書の写しです。マルシン食品の産地偽装に関する内部資料を添付した、正式な申告の記録です。弁弁第二号証。消費者庁から被告人に宛てた令和五年八月二日付の受理通知です。弁弁第三号証。社内メールの写しで、被告人が在職中に産地偽装の事実を認識していた経緯が確認できるものです」

 検察官が異議を唱えなかった。


「採用します。いずれも本日中に確認します。以上で書証の採用は終わりましたか」

「はい」

「では被告人質問に移ります」

 弁護人の木村弁護士が立ち上がった。


「小堀さん、マルシン食品に入社したのは何年前ですか」

「二十二年前です」

「二十二年間、主にどんな仕事を」

「商品開発です。新製品の企画から原材料の調達まで、一貫して担当していました」

「産地偽装の事実を最初に知ったのはいつですか」

「四年前です。ある原材料の調達担当が変わったとき、ラベルに記載している産地と実際の仕入れ先が異なることに気づきました」

「その時、社内で上司に報告しましたか」

 小堀がわずかに間を置いた。


「上司には、口頭で報告しました。でも、会社の方針上の問題だから、という答えで終わりました。それ以上は動かなかった」

「それ以上、あなた自身も動かなかったんですか」

「……動きませんでした」

「なぜですか」

「当時は、まだ会社にいたかったので」

 その言葉が、法廷に静かに落ちた。


「その後、リストラになりましたね」

「はい。二年前の秋です。組織再編だと言われました」

「退職後、消費者庁に申告したのはなぜですか」

「会社を辞めてから、このままではいけないと思いました。自分は何もしないまま四年間いた。せめて、退職後に正しいことをしたいと思いました」

「消費者庁に申告してから、どのくらい後に会社に連絡しましたか」

「六ヶ月後です」

「その六ヶ月間、何かありましたか」

「何もありませんでした」小堀が言った。

「受理通知は来ました。でも、その後、何も変わらなかった。会社は通常通り営業していて、製品は変わらず店頭に並んでいて、私は……何もしていないのと同じだと感じました」

「会社に連絡しようと思った理由は」

「もう待てなかった、ということです。それ以外に、言いようがありません」


 検察官の反対尋問では、「金を要求した事実」に集中した。

「あなたは面会の席で、五百万円を要求しましたか」

「しました」

「その金は何に使うつもりでしたか」

 小堀が少し止まった。

「……考えていませんでした」

「考えていなかった?」

「はい。要求するという行為に至るまで、いろいろ考えた気がしていたんですが、実際に席に着いたとき、何のために金を求めているのか、自分でもわからなくなっていました」

 検察官が少し戸惑ったような間を置いた。


「しかし、実際に要求した」

「しました。だから、間違っていたと思っています」


 烏丸が口を開いた。

「裁判官から補充質問があります」

 小堀が顔を上げた。


「消費者庁に申告してから、会社に連絡するまでの六ヶ月間、毎日どのように過ごしていましたか」

 小堀は少し長い間、黙っていた。


「……家にいました」

「ほとんど毎日ですか」

「ほとんど。ときどき近所のコンビニに行く程度で」

「その間、何を考えていましたか」

「最初は、消費者庁から動きがあるだろうと思っていました。でも一ヶ月経って、二ヶ月経って、何もなかった。そのうちに、何も考えなくなりました」

「考えることが、なくなった」

「はい。朝起きて、ご飯を食べて、夜になって眠る。それの繰り返しでした。何かを感じることが、だんだん難しくなっていった気がします」

 烏丸が静かにうなずいた。


「最後に一つ。会社に連絡したとき、本当に欲しかったものは何でしたか。金ですか」

 小堀は長い時間、答えなかった。


「……わかりません。金だと思っていました。でも今思うと、何かに、反応してほしかっただけかもしれません。誰かに、こっちを向いてほしかっただけかもしれません」

「わかりました。ありがとうございます」


 廊下で、羽田が遥の隣に立った。

「何かに反応してほしかっただけ、か」と羽田が言った。

「告発でも恐喝でも、本当はそういうことだったんですね」

「そうかもしれません」

「六ヶ月、家にいて、何も感じなくなった、って。それって」

 羽田がゆっくり言った。

「その方が、裁くの難しくないですか。悪意がちゃんとあった方が、わかりやすい」

「難しい案件ですね」遥は言った。

「法律的にも、人間的にも」

「先生はどう判断するんでしょう」

「それは先生に聞いてください」

「だから怖いってば」と羽田が言った。

 でも今回は笑っていた。


 夕方、執務室で遥が記録を整理していると、烏丸が静かに言った。

「今日は、しんどい一日でしたか」

 遥は手を止めた。


「……少し。被告人質問を聞いていたとき、ペンが何度か止まりました」

「そうですね」烏丸が言った。

「私も、補充質問をしながら、少し、しんどかったです」


 遥は烏丸を見た。

 この人がそういうことを言うのを、初めて聞いた気がした。


「先生も、しんどいことがあるんですね」

「あります」

 烏丸が静かに言った。

「六ヶ月間、何も感じなくなったという話を聞いたとき、それがどういうことか、少しわかった気がして」

「先生にも、そういう時期がありましたか」

「ありました。判事になりたての頃、しばらく。うまくいかないことが続いて、何のためにここにいるのかわからなくなった時期が」

 遥はその言葉を、大切に持った。


「でも今は」

「今は」

 烏丸がゆっくり言った。

「わかっています」


 窓の外では、虫の声が続いていた。

 蝉ではない、秋の虫の声。


 烏丸がそれ以上何も言わなかったから、遥も何も聞かなかった。

 でも、「今はわかっている」という言葉の中に、自分の名前がある気がした。

 聞こえない声で、でも確かに、そこにある気がした。

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