第十九話「抜け殻の蝉時雨(後編)」 ケース5:鳴き声の行方
論告と弁論は、九月末の第三回公判で行われた。
検察官は「恐喝の手段が明確であり、金銭を受領した事実は動かない」として懲役二年を求刑した。弁護人は「消費者庁への申告という正当な行為の後に、六ヶ月の孤立状態があった。その末の行為であり、純粋な財産目的ではなかった」として執行猶予を求めた。
被告人の最終陳述で、小堀賢司は初めて少し声が変わった。
「被害者の方々、および会社の関係者に、深く謝罪します。やり方が間違っていました」
そこで少し止まって、続けた。
「産地偽装の件については、いずれ、正しい形で社会に届けたいと思っています。それだけは、変わっていません」
法廷が静かだった。
遥はその言葉を、記録しながら、少し長く止まって聞いた。
まだある、と思った。
どこかへ行ってしまったと思っていた何かが、まだある。
十月になった。
第一週、判決の朝。
庭の木々は、もう確かに色づいていた。
緑の中に、黄と橙が混ざり始めていた。
蝉の声はまったく聞こえなかった。
代わりに、コオロギの声がした。
「おはようございます」
「おはようございます」
遥がお弁当を置いた。
今日は栗ごはんにした。
秋らしく。
「栗です」と遥が言った。
「ありがとうございます」
烏丸がファイルから目を上げた。
「栗はブナ科の落葉樹で、学名はCastanea crenata。渋皮に含まれるタンニンは抗酸化作用があり」
「三分の二食べてから、という約束です」
「……今日は判決なので、特例を申請したいのですが」
「却下です」
「……そうですか」
烏丸は黙って弁当を見た。
遥は少し笑いながら、窓の外のコオロギの声を聞いた。
午前十時、第三法廷。
「起立」
烏丸が入廷した。
小堀賢司が座っていた。
今日もスーツは古びているが、姿勢は変わらず良かった。
遠い目も、変わっていないように見えた。
「着席。令和六年第七〇八号、恐喝被告事件の判決を言い渡す」
「主文。被告人を懲役一年六月に処する。この裁判確定の日から三年間、その刑の執行を猶予する」
小堀の肩が、わずかに動いた。
「理由を告げる。被告人が恐喝の手段を用いて金銭を要求し、五十万円の交付を受けた事実は、証拠の結果により明らかに認定できる。被告人は脅迫的な文言を記したメールを送付し、面会の席で金銭を要求しており、恐喝罪の成立に疑いはない」
烏丸が書類を一枚めくった。
「しかしながら、量刑にあたっては次の事情を総合考慮する。被告人は告発に先立ち、消費者庁への正式な申告という正当な手段を講じており、初期の動機が公益的な性格を有していたこと。その後の六ヶ月間の申告処理の経過において、被告人が孤立した状況に置かれていたこと。金銭要求の動機が純粋な財産的欲求ではなく、被告人自身が説明し得ないほどに複合的であったこと。前科前歴がなく、公判を通じて反省の姿勢が認められること。以上を総合考慮し、刑法第二十五条第一項の規定に基づき、主文のとおり刑の執行を猶予することが相当と判断した」
烏丸は書類を閉じた。
立ち上がりかけた小堀に、静かな声が届いた。
「小堀さん、少し待ってください」
法廷が、また静まった。
遥はこの瞬間を、何度経験しても慣れないと思った。
烏丸がその言葉を言うたびに、法廷全体の重力が少し変わる気がした。
「蝉という生き物の話を、聞いてもらえますか」
小堀が、座り直した。
「蝉の幼虫は、地中で過ごします。種によって違いますが、数年から、長いものでは十年以上を、地の下で生きる。外からは見えません。光も届かない。それでも、根の汁を吸い、時間をかけて、地上へ出るための体を作り続ける」
烏丸の声は、いつも通り穏やかだった。
「あなたは二十二年間、会社という地中で過ごしました。積み重ねて、実績を作り、力を蓄えた。そして地上に出た。産地偽装の事実を携えて、消費者庁の扉を叩いた。それがあなたの羽化でした」
小堀の体が、少し、前に傾いた。
「でも、声が届かなかった。鳴いたのに、世界は動かなかった。六ヶ月間、あなたは鳴こうとして、声を出せないまま、日々を過ごした。そしてその間に、最初の目的がどこかへ消えてしまった」
遥はペンを持ったまま、動きを止めた。
「それがあなたの六ヶ月間だったと思います。鳴き声を失った蝉のように、ただ日差しの中に立ち尽くす時間だった」
小堀の視線が、少し変わった。
遥には気づけた。
遠かった目が、少しだけ、今ここに戻ってきていた。
「でも私は、あなたのことを、抜け殻だとは思っていません」
その言葉が落ちた瞬間、小堀の体がわずかに揺れた。
「木の幹に残る抜け殻は、蝉がそこから出て行った後の形です。でも今のあなたはまだ、その殻の中にいる。出ていった蝉ではなく、まだ羽化の途中にある蝉です」
法廷が、静かだった。
蝉の声は、もうない。
でも、あの晩夏の喧しさの中に、確かにこの人の声もあったのだと、遥は思った。
「三年間の猶予があります。その間に、消費者庁への申告を続けてください。弁護士を通じて、正式な告発として仕上げてください。あなたが二十二年かけて地中で育てたものを、正しい出口から出してください。あなたの蝉は、まだ鳴けます。正しい場所で、もう一度声を上げてください」
小堀が、うつむいた。
肩が震えた。
声は出なかった。
でも、何かが動いていた。
遠かった目が戻ってきたことで、今度は感情が追いついてきたのだと、遥には見えた。
烏丸は何も言わず、ただ待った。
しばらくして、小堀が顔を上げた。
「……ありがとうございました」
声が、掠れていた。
でも、ここにある声だった。
廊下に出ると、羽田がいた。
「抜け殻じゃない、って言い方」と羽田が言った。
「あれ、ずるいですよ。先生、あそこで急に」
「ずるい、というのは」
「刺さりすぎる」
羽田が少し顔を赤くした。
「法廷で泣くなんて、まずいんですけど」
「記録してませんから大丈夫です」
「そういう問題じゃないです」
羽田が廊下の奥へ行った。
遥は少し笑った。
夕方、烏丸が帰り際に言った。
「今日の判決文の草案を、昨夜ずっと書いていました」
「そうでしたか」
「その隅に、また書いてしまいました」
「何を」
「蝉は、まだ中にいる、と」
遥は少し黙ってから言った。
「見せてもらえますか」
「え?」
「今日の草案の、その隅を」
烏丸が少し戸惑った顔をして、引き出しからメモを取り出した。
遥はそれを受け取った。
判決文の文章の左隅に、細い字で書かれていた。
『蝉の声は、まだ中にある。出口を間違えただけだ』
遥はそれを、ていねいに烏丸に返した。
「ありがとうございます」
「何の感謝ですか」
「見せてくれたことへの」
烏丸が少し照れた顔をして、メモをしまった。
窓の外で、コオロギが鳴いていた。
秋が、確かにそこにあった。




