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幕間 「ヒメボタルの夜に、ひとりでいたこと」 ── 次の季節が来るまで

 十月の第二週の日曜日、烏丸から連絡が来た。


 正確には、土曜日の夕方に、執務室の片付けを終えてそれぞれ帰ろうとしていたとき、烏丸が「明日、少し時間がありますか」と言ったのだった。

「ある、と思いますが」

「見せたいものがあります。写真ですが」

「写真?」

「ヒメボタルの写真を撮ったんですが、一人で見ていてももったいないと思って」


 その言い方が、何か初めての感じがした。

「一人で見ていてももったいない」。

 以前なら、一人で見て終わりにしていた人が、今は、そう言う。

「見ます」と遥は言った。


 日曜日の午後、烏丸の指定した場所は、緑ヶ丘駅から三つ先の駅にある、小さな喫茶店だった。

 外は雨だった。

 十月の雨は細くて、冷たかった。

 店に入ると、窓ガラスに水滴が斜めに走っていた。

 烏丸はすでにいた。いつも通りの格好で、テーブルにカメラが置いてあった。


「こんにちは」

「こんにちは。雨の中、すみません」

「傘がありますから」


 遥は向かいに座った。

 注文を取りに来た店主に、ホットのコーヒーを頼んだ。

 烏丸はすでに何か飲んでいた。


「見せてもらえますか」

 烏丸がカメラを手に取り、ディスプレイを遥に向けた。


 最初の写真を見た瞬間、遥は声を出した。

「……綺麗」

「七月に撮りました。山の中の林道です。三十分かけて登ったところに、小さな沢があって、そこの周辺の林に毎年出ます」


 写真の中に、光があった。

 ゲンジボタルとは違う光だった。

 もっと細かく、速く、点滅している。

 暗い林の中で、黄色みがかった光が、無数に瞬いていた。

 それぞれが独立していて、リズムも方向もばらばらで、でも全体として何か一つのものを形作っているように見えた。


「ヒメボタルという種です」と烏丸が言った。

「ゲンジボタルより体が小さい。ゲンジが河川沿いに生息するのに対して、ヒメボタルは林の中、腐葉土の多い斜面を好みます。水辺には近づかない」

「水辺ではないんですか」

「ええ。幼虫が食べるものが違います。ゲンジボタルの幼虫は川の中のカワニナという貝を食べますが、ヒメボタルの幼虫は陸上のカタツムリを食べます。だから生息地が完全に違う」


「見に行く人も、ゲンジボタルより少なそうですね」

「少ないです。川に行けば会えるゲンジボタルと違って、ヒメボタルのいる林に行き着くまでに、かなり歩かなければならないので。知っている人しか、知らない場所にいる」


 遥は次の写真を見た。

 角度が変わっていた。

 光が木の幹の間をすり抜けている写真だった。

 暗い林の中で、点滅が続いていた。


「静かそうですね」

「静かです。ゲンジボタルの川沿いは、夏になると見物客が来ます。でもあの林には、誰も来ません。私が行くとき、たいてい一人でした」

「たいてい」という言葉を、遥は聞き逃さなかった。

「たいてい、というのは」

「一人でした。複数形で言う必要がないほど、一人でした」

 遥はコーヒーを一口飲んだ。

 窓の外を雨が叩いていた。


 烏丸がカメラを置いた。

「初めてヒメボタルを見たのは、八年前です」

「そんなに前から」

「判事になって二年目の夏でした。当時、仕事のことで少し行き詰まっていた時期があって。土曜の朝に思い立って、この山に一人で登りました」

「行き詰まっていた、というのは」

「うまく言葉が届いていないと感じていた時期です。正しいことは言えている。でも誰にも届いていない。そういう感覚が続いていました」


 遥は思った。

 九月の第三週ころに、初めて話していた。

 何も感じられなかった時期、のこと。


「帰り道に日が暮れてきて、林の中に入ったとき、気づいたら光っていたんです。ヒメボタルが。たくさんではなかった。二十匹か三十匹程度だったと思います。でも、その林の中に立って、その光が自分の周りで点滅しているのを見ていたとき、初めて、息ができる気がしました」


「息ができる、気がした」

「それまで、気づかずに息を詰めていたんだと思います。法廷に立って、判決を読んで、帰って、また来て。それを繰り返しながら、何かが少しずつ固まっていた。ヒメボタルを見たとき、それが初めて緩みました」


 遥は雨の窓を見た。

 水滴が合流して、細い筋になって流れていく。


「それから毎年、七月に行くようになりました。一人で。カメラを持つようになったのは三年前からです。写真に残しておきたくなったので」

「どうして残したくなったんですか」

「……わからなかったんですが、今ならわかります」

 烏丸が静かに言った。

「誰かに、いつか、見せたかったんだと思います」


 遥は烏丸を見た。

 烏丸は窓の外を見ていた。


「だから、今日お誘いしました」

「……ありがとうございます」

「こちらこそ」


 しばらく、二人で雨を見ていた。

 遥はカメラのディスプレイをスクロールした。

 写真が次々と出てくる。

 同じ林だが、角度が違う。

 一枚、また一枚、烏丸が一人で立って、シャッターを切った夜の記録だった。


「先生は、一人でいることが多かったんですか。この仕事を始めてから」

「多かったです。仕事の外で人と話すことが、得意ではないので」

「執務室以外で話せる人は」

「以前は、ほとんどいませんでした。羽田くんが来てから、少し変わりましたが」

「私が来てからは」

 烏丸が少し間を置いた。


「あなたが来てから、一人でいる時間の意味が変わりました」

「どういう意味ですか」

「以前は、一人でいることが当たり前の状態でした。比べる対象がなかったので、孤独だとも思っていなかった。でも今は、一人でいると、誰かがいない、という感覚があります」

 遥はコーヒーカップを持ったまま、少し止まった。


「それは……先生にとって、良いことですか」

「良いことです」烏丸が迷わず言った。

「孤独に気づけるほど、いる場所ができたということなので」


 遥は何も言えなかった。

 言える言葉が、すぐには見つからなかった。

 窓の外で雨が続いていた。


 コーヒーを飲み終えた頃、遥は聞いた。

「ヒメボタルの光の速さは、どのくらいですか。ゲンジボタルと比べて」

「ゲンジボタルは約四秒に一回、ゆっくりと明滅します。ヘイケボタルは約〇・五秒。ヒメボタルはさらに速く、〇・三秒以下で点滅します。肉眼で見ると、まるで星が瞬いているような速さです」

「それぞれ、見る人には全然違う光に見えますね」

「見え方も、見つけ方も違います。ゲンジボタルはゆっくりした光なので、遠くからでも目に入る。ヒメボタルは速くて小さいので、じっとしていないと見えない。動いていると、光に気づけない」

「じっとしていないと、見えない」

「そうです」


 遥はその言葉を、しばらく持っていた。

(じっとしていると、見える。動いていると、気づけない)


 法廷のことを思った。

 烏丸が被告人を見るとき、動かずにじっと見ている。

 だから見える。

 生き物を観察するときも、動かない。

 だからホタルが来る。

 この人はずっと、じっとして、見てきた人なのだ。


「先生の見方は、そこからきているんですね」

「どういうことですか」

「生き物も、人も、じっとして見る、ということが。ヒメボタルを見るために、一人で山に登って、動かずに立っていた、その見方が」

 烏丸が少し目を細めた。


「気づいていませんでしたが、そうかもしれません」

「それが、先生の鋭さの原点だと思います。法廷での」

「……そういう見方は、したことがありませんでした」

「私がしました」


 烏丸が遥を見た。

 少し長い間、見た。

 遥は見返した。

 そのままで、少し時間が経った。


 どちらも、何も言わなかった。

 でも、それで充分だった。


 帰り際、店を出ると雨は少し小さくなっていた。

 傘をさして、駅まで歩いた。

 道幅は広かったのに、自然と距離が近くなっていた。

 烏丸のカメラが、バッグの中に収まっていた。

 ヒメボタルの写真が、その中にある。


「来年の七月、また行きますか」と遥が聞いた。

「行きます」

「また、写真を見せてもらえますか」

「もしよければ」

 烏丸が言った。

「一緒に見に行きますか。現地で」

「行きます」遥は言った。

「絶対に行きます」


 烏丸が少し驚いたような顔をした。

「絶対に」という言葉を、遥が使ったのが、珍しかったのかもしれない。

「そんな顔をしないでください」

 遥は少し笑った。

「行きたいんです。本当に」

「……わかりました」

 烏丸が言った。

 静かに、でも確かな声で。

「来年の七月、一緒に行きましょう」

 雨の中の約束だった。

 来年の七月まで、まだずいぶんある。

 でも、その約束は、今日からもうそこにあった。


 駅の改札の前で、二人は別れた。

 遥は電車に乗って、窓の外の雨を見ながら、烏丸が言った言葉をひとつ、手帳に書いた。

 法廷でも、執務室でも書かなかった言葉を、今日初めて書いた。


 『一人でいると、誰かがいない、という感覚があります』

 遥はその一文を見て、少し笑った。

 笑ってから、少し泣きそうになった。

 でも泣かなかった。

 帰ったら、また月曜日のお弁当のことを考えなければならないから。

 来週から始まる次の案件の調書も、読んでおかなければならないから。

 それに、来年の七月の約束が、もうそこにあるから。


 電車が動いた。

 雨の町が、窓の外を流れていった。

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