表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/42

第二十話「抜け殻の蝉時雨(終章)」 ケース5:鳴き声の行方

 十月も半ばを過ぎると、蝉の声はまったく聞こえなくなった。


 代わりに裁判所の庭は、銀杏の葉が少しずつ黄色くなり始めていた。

 まだ完全に色づいてはいないが、光の当たり方が夏と違っていた。

 秋の光は斜めに差して、葉の黄色を静かに引き出す。


 遥はその庭を窓から見ながら、スマートフォンのニュースに目を止めた。

 『消費者庁、大手食品メーカーに立入調査 産地偽装の疑い』

 記事の冒頭に、株式会社マルシン食品という名前があった。

 遥はしばらく画面を見て、それから烏丸を見た。

 烏丸は書類を読んでいた。


「先生」

「はい」

「これを見てください」

 烏丸が画面を受け取った。

 黙って読んだ。

 三十秒ほど経ってから、返した。


「消費者庁が動いたんですね」遥は言った。

「ええ」

「小堀さんが最初に申告したのは、一年以上前ですよね」

「一年と四ヶ月前です」

「やっと、届いたんですね」


 烏丸が窓の外を見た。

「鳴き声が、届きましたね」

「届きましたね」遥は繰り返した。

「遠回りの上に、裁判まで経て」

「それでも、届いた」

 烏丸が静かに言った。

「あの人の声は、まだ中にありましたから」

 遥はスマートフォンをしまった。

 窓の外の銀杏が、また一枚、葉を落とした。


 その三日後、木村弁護士から報告書が届いた。

 内容は短かった。

 小堀賢司は執行猶予期間中に、弁護士を立てた上で消費者庁への告発を正式に行う手続きを開始した。

 今回の立入調査との関連については今後の捜査の推移を見守る予定だが、被告人は「これが、本来するべきだったことです」と述べている、とだけ書いてあった。


 烏丸はその一文を読んで、書類をファイルに収めた。

「これが本来するべきだったこと、か」と遥が言った。

「ええ」

「先生の説諭が、届いたんだと思います」

「小堀さん自身が気づいたんだと思います。私は話しただけです」

「先生はいつもそう言いますね」

「事実ですから」

 遥は少し笑った。

 烏丸は少し照れたような顔をして、また書類に向かった。


 金曜日の昼過ぎ、羽田が執務室に顔を出した。

「今夜、刑事部の秋の懇親会があるんです。先生も来ますか」

「行きません」

「去年も言ってました、それ」

「そうですか」

「先々年も」

「そうですか」

 羽田が遥を見た。

 遥は記録を取りながら、少し笑いをこらえていた。


「先生って、毎年断るんですか」と遥が後から聞いた。

「懇親会というものが、苦手なので」

「何が苦手ですか」

「大勢のところで、何を話せばいいのかわからないので」

「法廷ではあんなに話せるのに」

「法廷には、話す順番と役割があります。懇親会には、ありません」

 遥はその答えを、しばらく持っていた。

 そういうことか、と思った。

 場のルールがあればどこでも動ける人が、ルールのない場所では動けなくなる。


「築地さんは行きますか」烏丸が聞いた。

「少しだけ。顔を出してすぐに帰ります」

「そうですか」

 少し間があった。

「早く帰れたら、また来ます。ここに」

「……そうですか」烏丸が言った。

 耳が、少し赤かった。


 夜になった。

 懇親会は刑事部の食堂を使った簡単な立食パーティだった。

 大河内裁判長が最初の挨拶をした。

 羽田がビールを二杯飲んで、誰かと話していた。

 遥はノンアルコールのものを持って、一時間ほど過ごした。


 途中で大河内が遥の隣に来た。

「烏丸くんは今年も来なかったね」

「苦手だとおっしゃっていました。懇親会が」

「毎年同じことを言う」

 大河内が穏やかに笑った。

「あの人はね、昔からそうなんだよ。どこ行っても一人で鳥を見てる。判事になる前も、なってからも」

「先生の昔を、ご存じなんですか」

「少しはね」大河内が湯呑を持ち直した。

「でも、人を見るのに理由がいるかね。ただそういう人なんだよ、烏丸くんは。ずっと前から、変わらない」

 それだけ言って、大河内は別のグループの方へ歩いていった。

 遥はその言葉を持って、一時間が経った頃に会場を出た。


 執務室の灯りがついていた。

 遥がドアを開けると、烏丸がデスクでファイルを読んでいた。

 顔を上げた。

 驚いた様子はなかった。

「おかえりなさい」と烏丸が言った。

「ただいま帰りました」


 遥はコートを掛けて、鞄から小さな包みを取り出した。

 懇親会のデザートで出ていた、小さなモンブランのケーキだった。

「一つ余っていたので、持ってきました」

「……ありがとうございます」

「懇親会に来なかった分です」

「そういう計算ですか」

「はい」

 烏丸がケーキを受け取った。

 包みを少し丁寧に開けて、一口食べた。


「美味しいです」

「良かったです」


 遥は向かいのデスクに座った。

 片付けていなかった書類を整理し始めた。

 二人で、しばらく静かに仕事をした。

 廊下を誰かが通る音がした。

 懇親会の帰りだろう。

 笑い声が少し聞こえて、遠くなった。

 執務室の中は、静かだった。

 でも、静かなのに、空っぽではなかった。


 帰り際、烏丸が窓の外を一度見て言った。

「今年の蝉は、もう全部終わりましたね」

「ええ、聞こえなくなりました」

「来年の夏に、また鳴きます」烏丸が言った。

「今はもう幼虫として地中に戻って、次の夏を待っている」

「来年には新しい声が聞こえるんですね」

「ええ」

 烏丸がコートを取った。

「もうすぐ、渡り鳥が来ます。北から南へ向かう途中に、ここで少し休んでいく鳥たちが」

「冬の訪れですね」

「冬は冬で、動いている生き物がいます」

 遥は烏丸の隣に並んで、電灯を消した。

 執務室が暗くなった。

 廊下の光だけが、部屋の端を照らしていた。

 二人で廊下に出た。


 一週間後、新しいファイルが届いた。

 令和六年第七九三号。

 罪名:傷害。

 被告人は六十一歳の男性だった。


 調書の末尾に、担当検察官による一行のメモがあった。

「被告人は冬ごもりをしていた」と。

 遥はそれを読んで、烏丸を見た。

 烏丸はすでに読んでいた。 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ