第二十一話「冬ごもりの終わる日(前編)」 ケース6:ヤマネの眠りと、春の名前
十一月に入ると、緑ヶ丘地方裁判所の空気が変わった。
廊下を歩くと、足音が澄んで聞こえる。
夏は湿気が音を吸っていたのだと、冬になって初めて気がつく。
窓ガラスが少し曇り、執務室の中は外より暖かかった。
遥は今朝、コートの前を合わせながら出勤した。
吐く息が、わずかに白かった。
烏丸はいつも通り、もうデスクにいた。
でも今日は、少し違うことがあった。
遥がコートを掛けて、お弁当を置こうとしたとき、烏丸が「少し外に出てきます、寒くなってきたかの確認を」と言って席を立った。
「外気温を確認するために出るんですか」
「ハクセキレイが来ていないか確かめたいので」
「ハクセキレイが来たら冬ですか」
「厳密には渡り鳥ではないのですが、冬になると数が増えます。見かけたら、そういう季節です」
烏丸が廊下へ出た。
遥は一人、執務室に残った。
お弁当を置いて、コートをもう一度掛け直して。
それからふと、本棚を見た。
以前から気になっていた本があった。
生物学の専門書が並んだ棚の、右端のあたり。
一冊だけ、明らかに違う本があった。
背表紙が焼けて、色が飛んでいた。
縦書きの古いタイトルが、辛うじて読める。
遥は少し近づいた。
『正義の法と人間の精神 ── 法哲学序論』
出版社の名前は読めなかった。
でも、奥付のあたりから、一枚の紙が覗いていた。
栞の代わりに挟んであるのか、それとも何か書いたものか。
遥は手を伸ばしかけて、止めた。
取り出すのは、違う気がした。
本を棚に戻して、離れた。
廊下から足音がして、烏丸が戻ってきた。
「ハクセキレイは」と遥が聞いた。
「いました。三羽」
「では、冬ですね」
「ええ。今日から冬です」
遥は少し間を置いてから言った。
「あの本、古いですね」
烏丸が本棚を見た。
すぐにどの本かわかったようだった。
「父のものです」
「そうですか」
それだけだった。
烏丸はデスクに戻り、遥もデスクに向かった。
説明は、なかった。
遥も聞かなかった。
でも、この人にも父がいた、という当たり前のことが、その朝から少しだけ、遥の中にあった。
今日の弁当は根菜の味噌汁を別のポットに入れてきた。
寒くなったから、温かいものを一つ追加した。
「汁物です」と遥が言った。
「ありがとうございます」
烏丸がポットを受け取った。
「根菜は冬に甘みが増します。糖分が凍結防止のために蓄積されるので」
「三分の二食べてから、という約束です」
「……ポットは食べるものではないので、例外かと思いましたが」
「汁物も食べるものです」
「……わかりました」
烏丸が静かに食べ始めた。
遥もポットを手に取って温めながら、新しいファイルを開いた。
令和六年第七九三号。
傷害。
被告人の名前は田所 泰雄、六十一歳。無職。
元会社員、三十年間勤めた機械部品メーカーを昨年三月に定年退職した。
事件の概要を読んだ。
退職後、田所は自宅に引きこもるようになった。
趣味も友人も持っておらず、妻はパートに出ており、日中は一人でいることが多かった。
近隣との交流もほとんどなかった。
六月から、隣家の音楽が気になり始めた。
隣に住む三十代の男性が、休日に音楽をかけることが増えていた。
田所は何度か苦情を伝えたが、「生活の範囲内の音量です」と言い返された。
そのやりとりが、三ヶ月続いた。
九月のある日曜日の午後、田所は隣家のインターホンを押した。
出てきた隣人に「いい加減にしてほしい」と言い、言い合いになった。
隣人に「あなたの方が非常識です」と言われた瞬間、田所は両手で相手の胸を押した。
隣人が転倒し、肋骨三本を骨折した。
罪名:傷害罪。
刑法第二百四条。
遥はファイルを閉じた。
(三十年。それが終わって、一人になって、六ヶ月)
午前十時、第三法廷。
「起立」
全員が立ち、烏丸が入廷した。
被告人席の田所泰雄は、遥の想像より小さかった。
正確には、小さいのではなかった。
しぼんでいた。
かつて何かがそこにあって、それが少しずつ抜けていった後のような体格だった。
猫背。
視線が下。
手を膝の上で重ねているが、力がない。
「着席。令和六年第七九三号、傷害被告事件、第一回公判を開廷します」
「人定質問を行います。お名前をお聞かせください」
「田所、泰雄です」
声が低く、平らだった。
怒りがあるわけでも、怯えているわけでもない。
ただ、ここにいる、という声だった。
「生年月日は」
「昭和三十八年、一月二十九日です」
住所を確認し、烏丸が検察官に目を向けた。
「起訴状の朗読をお願いします」
「公訴事実。被告人は令和六年九月二十二日、自宅隣家において、近隣住民の胸部を両手で強く押し、同人を転倒させ、よって肋骨三本の骨折を伴う傷害を負わせた。罪名及び罰条。傷害、刑法第二百四条」
「被告人にお聞きします。ただいまの内容について、間違いや付け加えたいことはありますか」
「……ありません」
田所が静かに言った。
「弁護人から確認します」
弁護人の森田弁護士が立ち上がった。
三十代後半の女性で、きびきびした印象だった。
「被告人は事実関係を全て認めており、弁護側からも争いはありません。ただし、量刑の判断にあたっては、被告人の退職後の生活状況および継続的な近隣トラブルの経緯を情状として提出したく存じます。また、被害者との示談交渉は現在進行中で、被告人は弁償の意向を示しています」
「承知しました。次回、証拠調べと被告人質問を行います。期日についてはのちほど調整します」
「起立」
廊下に出た。
羽田が遥の隣に立った。
しばらく何も言わなかった。
「退職後、一年たたないうちに、ですね」と羽田がゆっくり言った。
「三十年、同じ場所にいた人が、急にそこからいなくなったんです」
「……それって」
羽田が言いかけて、止めた。
「何ですか」
「俺の父親、今年で定年なんです」
羽田がぽつりと言った。
「最近、少し元気がない気がして。帰るたびに、何か聞いてやればよかったかなって」
遥は羽田を見た。
「聞いてあげてください」
「うん」羽田が少し遠くを見た。
「今度帰ったときに」
夕方、遥が片付けをしていると、烏丸が窓の外を見て言った。
「ヤマネという生き物を知っていますか」
「ヤマネ、は……聞いたことはあります」
「日本に一種だけいる、ヤマネ科の小型哺乳類です。体長は六センチほどで、尾を含めても十二センチ程度。秋になると木の洞や枯れ葉の中に潜り込んで、春まで眠ります。本当に眠る。体温が外気温と同じになるまで下がって、心拍も呼吸も最小限になる。見つけると石ころのように動かない」
「それが、冬ごもりですね」
「ええ。ヤマネにとって、冬ごもりは生きるための手段です。食べ物がない冬を、眠ることで乗り越える。それ自体は間違っていない」
「でも」と遥が続けた。
「ずっとは眠れない」
「そうです」
烏丸が振り返った。
「春になれば、必ず目を覚まさなければならない。目を覚まさなかったヤマネは、そのまま死んでいる」
遥はその言葉を、しばらく持っていた。
「田所さんは、冬ごもりのつもりだったんでしょうか。退職してから」
「わかりません。まだ、始まったばかりです」
窓の外は、もう暗くなりかけていた。
十一月の夕暮れは早かった。




