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第二十二話「冬ごもりの終わる日(中編)」 ケース6:ヤマネの眠りと、春の名前

 第二回公判は、十一月の末に開かれた。


 朝、裁判所に向かうとき、遥は吐く息が白いことを確認してから、建物の中に入った。

 今日のお弁当は鮭の西京焼きと蓮根のきんぴら、里芋の煮付け。

 保温できる弁当箱に変えた。

 温かいうちに食べてもらえるように。


「保温の弁当箱です。今日から」と遥が言った。

「ありがとうございます。蓮根はレンコンとも書きます。ハスの根茎で、あの穴の数は」

「三分の二食べてから、という約束です」

「……覚えています」

「先生が覚えていることも、知っています」

 烏丸が少し止まった。

「……それは、どういう意味ですか」

「毎回わかっていてやっているんだろうと思って」

「……」

 沈黙があった。

 耳が、少し赤かった。

 遥は小さく笑いながら、ファイルを開いた。


 午前十時、第三法廷。

 第二回公判。


「証拠調べを行います。検察官から請求をお願いします」

 今回の証拠は少なかった。

 事実関係に争いがないため、書証は診断書と現場写真、田所が隣人に送った苦情の手紙のみだった。


「弁第一号証。被害者の診断書です。肋骨三本の骨折、全治三週間。弁第二号証。事件現場の写真。弁第三号証。被告人が被害者に送付した苦情の手紙の写し、計三通。令和六年七月から九月にかけて送付されたものです」


「弁護人の意見は」

「いずれも採用に異議ありません」

「採用します」


 手紙が読み上げられた。

 丁寧な文体だった。

「ご迷惑をおかけするようで恐縮ですが」から始まり、「生活音のご配慮をいただけますと助かります」で終わる。

 礼儀正しい、しかし距離のある文章だった。


 遥は三通を聞きながら、田所を見た。

 手紙の文章と、この法廷に座っている男の印象が、どうしても一致しなかった。

 丁寧に書ける人が、なぜあの日、両手で押したのか。


「では被告人質問に移ります」

「田所さん、三十年間、どんな仕事をされていましたか」と弁護人の森田弁護士が聞いた。

「機械部品の製造会社で、主に品質管理の仕事をしていました」

「どんな内容ですか」

「工場から上がってきた製品の検査と、品質基準の策定、および取引先との交渉です。後半はチームのマネジメントも担当していました」

「三十年間、きちんとやってきたということですね」

「……そう思っていました」

「退職の日、どんな気持ちでしたか」

 田所が少し間を置いた。


「夢みたいな感じでした。送別会をしてもらって、花束をもらって、挨拶をして。でも帰りの電車の中で、何もなかったような気がしていました。明日から来なくていい、という実感が、最後までなかった」

「退職後、日々の生活はどうでしたか」

「……よくわかりません」

「よくわからない、とは」

「三十年間、会社の時間割で動いていたので。六時に起きて、七時に家を出て。それだけは続けていました。起きて、着替えて。でも、行く場所がなかった」

 法廷が静かになった。


「趣味は」

「特にありません」

「友人と会う機会は」

「会社の知人はいましたが、退職してから連絡は来なかったです。私も、番号を知らなくなっていたので」

「ご家族は」

「妻はパートに出ています。息子が一人、大阪にいます。年に一度か二度、帰ってくるかどうか」

「息子さんとは、連絡を」

「……あまり取っていませんでした。元気か聞くと、元気だと言うので」


「隣人との問題が始まったのはいつですか」

「六月ごろです。週末に音楽が聞こえるようになりました」

「それまでは気にならなかったですか」

「仕事をしている頃は、週末は外にいることが多かったので。退職してから、家にいる時間が増えて、気になり始めました」

「手紙を三通送りましたね」

「送りました。でも、あまり変わらなかったので」

「手紙以外に、管理組合や自治会への相談は」

「……しませんでした。面倒をかけたくなかったので」

「その後、直接会いに行ったんですね」

「はい。言わなければ変わらないと思って」

「言い合いになったとき、何が一番、腹が立ちましたか」

 田所がしばらく黙った。


「『あなたの方が非常識です』と言われたことです」

「なぜそれが」

「……わかりません。何か、それだけが、ずっと頭の中でぐるぐるしていて」


 検察官の反対尋問では、「意図的に押したかどうか」の確認が中心だった。

 田所は「押しました、意図して」と短く答えた。

 弁解はしなかった。


 烏丸が口を開いた。

「裁判官から補充質問があります」

 田所が顔を上げた。


「退職されてから今日まで、一日の中でどんな音を聞いて過ごしていましたか」

 田所が少し考えた。

「……テレビをつけていました。ほとんど一日中」

「なぜですか」

「静かすぎるので」

「退職する前は、日中にテレビをつける習慣はありましたか」

「ありませんでした。夜だけです」

「退職してから、日中の静けさが変わりましたか」

「変わりました。前は、静かでも気にならなかった。でも、退職してからは、静かなのが、怖かった」

 田所が初めて、「怖かった」という言葉を使った。

 法廷がしんとした。


「怖い、というのは、どういう意味ですか」

「……何かがなくなったような気がして。でも何がなくなったか、わからなかった。だからテレビをつけていました。音があれば、怖くなかった」

「隣人の音楽が気になったとき、テレビはついていましたか」

「ついていました」

「それでも、気になりましたか」

「気になりました。テレビの音より、音楽の方が大きくて。それが、誰かがそこで生きているという音で」

 田所がそこで止まった。


 その意味を、田所自身もまだ整理できていないように見えた。

「わかりました」烏丸が静かに言った。

「ありがとうございます」


 廊下に出ると、羽田がしばらく黙っていた。

「誰かがそこで生きているという音、か」羽田がゆっくり言った。

「ええ」

「田所さんって、息子さんがいるんですね。大阪に」

「調書にありました」

「年に一度しか帰ってこない。連絡もあまり取らない」

 羽田が壁に背中をもたせた。

「息子の側からすると、親が元気でいてくれれば安心、ってなりがちなんですよね。でも、元気かどうかしか聞かないと、気づけないことがある」


「羽田さん」

「はい」

「帰りましたか、お父さんのところに」

 羽田が少し止まった。

「……まだです。次の休みに、帰ろうと思ってます」

「いいですね」

「怖いんですよね、少し。何か変わってたら、とか」

「変わっていても、話せますよ、羽田さんは」

 羽田が少し驚いたような顔をして、それから笑った。

「ありがとうございます」と言って、廊下の奥へ歩いていった。


 夕方、遥が記録を閉じながら言った。

「田所さんが言った、誰かがそこで生きているという音、というのが、頭から離れないんです」

「私もです」烏丸が静かに言った。

「隣人の音楽が嫌いだったのではなくて、その音の意味が、きつかったんですね」

「ええ。自分の生活に音がないことを、突き付けられていた」

「春が来ないヤマネみたいな」

「そうです」烏丸が窓の外を見た。夕方の空が、もうオレンジから紫になりかけていた。「ヤマネは春になれば目を覚ます。でも、田所さんの春がどこにあるか、まだわかりません。判決の前に、少し聞いてみたいことがあります」

「何を聞くんですか」

「田所さんが最後に、本当に楽しいと思ったのはいつか、です」


 遥はその問いを、自分の手帳には書かなかった。

 でも、胸のどこかに、そっとしまった。

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