第二十三話「冬ごもりの終わる日(後編)」 ケース6:ヤマネの眠りと、春の名前
論告と弁論は、十二月の第一週に開かれた。
検察官は「傷害の結果が肋骨三本の骨折に及び、相応の刑事責任を問うべき」として懲役一年を求刑した。
弁護人は「退職後の孤立という背景、被害者との示談交渉が進んでいること、前科前歴のなさ、被告人の年齢と反省の態度」を理由として、執行猶予を求めた。
被告人の最終陳述は短かった。
「被害を与えたことを、深く反省しています。ご迷惑をかけて、申し訳ありませんでした。妻に、苦労をかけて、申し訳なかったと思っています」
遥は記録を取りながら、田所が「妻」という言葉を使ったことを、少し長く止まって聞いた。
被害者ではなく、息子でもなく。
妻、だった。
弁論を終結しようとした烏丸が、少し間を置いた。
「田所さん、弁論終結の前に、一つだけ聞かせてもらえますか」
田所が顔を上げた。
「あなたが、本当に楽しかったと感じた時間が、人生の中でありましたか」
法廷に、薄い静けさが広がった。
田所はしばらく黙っていた。
遥には、その沈黙が「思い出せない」のではなく「どれにするか、選んでいる」ように見えた。
「……妻と二人で、北陸に旅行したことがあります。結婚して三年目のときです。冬で、雪が積もっていて、日本海の海が荒れていました。温泉の宿で、二人でお酒を飲みながら、その先のことをたくさん話しました」
「その先のこと、とは」
「これからどんな家族になるか、子供が生まれたらどう育てるか、老後はどこに住むか。たくさん話しました」
「そのとき、楽しかったですか」
「楽しかったです」
田所が静かに言った。
「とても」
「ありがとうございました。弁論を終結します。判決は来週の水曜日、午前十時に言い渡します」
一週間後、十二月の第二週。
判決の朝は、冬晴れだった。
庭の木の葉はほとんど落ちて、枝だけが空に向かっていた。
冬の空は高く青く、光が鋭かった。
遥はその庭を見ながら、今日の弁当箱を置いた。
烏丸は、お昼を待たずに遥のお弁当を食べるようになっていた。
「お昼、食べる時間があるかわからないので、温かいものにしました」
「ありがとうございます。今日は何ですか」
「粕汁です。昨日作りました。先生に合うかわかりませんが」
「粕汁は、酒粕を用いた汁物で、江戸時代から」
「三分の二食べてから」
「……今日は判決の日ですので」
「それはいつも言います。却下です」
烏丸が静かに食べ始めた。
遥はポットから粕汁を出しながら、ふと言った。
「先生は、昨日何をしていましたか」
「冬の野鳥の観察記録を書いていました」
「一人で」
「ええ。毎年この時期に整理します」
遥は粕汁を飲んだ。
体が温まった。
「田所さんの答え、覚えていますか。北陸の旅行の話」
「覚えています」
「妻と一緒に、これからのことを話した、という部分が」
遥はポットを手に持ったまま言った。
「良かったです、あの答えが」
「なぜですか」
「春が、まだそこにある、と思ったので。田所さんの隣に」
烏丸が遥を見た。
少しの間、ただ見ていた。
「……そうですね」と烏丸が言った。
「私も、そう思っています」
午前十時、第三法廷。
「起立」
烏丸が入廷した。
田所が着席していた。
今日は傍聴席に、一人だけ女性がいた。
六十歳前後、白髪の混じった髪を丁寧にまとめていた。
田所の妻だろうと、遥には思えた。
「着席。令和六年第七九三号、傷害被告事件の判決を言い渡す」
「主文。被告人を懲役十月に処する。この裁判確定の日から三年間、その刑の執行を猶予する」
田所の体が、わずかに揺れた。
傍聴席の女性が、目を閉じた。
「理由を告げる。被告人が近隣住民に傷害を与えた事実は争いなく認められ、被害者の傷は全治三週間にわたる肋骨骨折であった。その刑事責任は軽くない。しかしながら、被告人は本件犯行の全てを認め、深く反省している。前科前歴がなく、被害者との示談が成立し、損害は弁償済みである。本件犯行の背景に、長期の勤務を終えた後の急激な生活環境の変化と、そこから生じた社会的孤立があることは否定できず、被告人の刑事責任を考えるうえで無視できない事情である。以上を総合考慮し、刑法第二十五条第一項の規定により、刑の執行を猶予することが相当と判断した」
烏丸が書類を閉じた。
田所は立ち上がりかけた。
その動きを、静かな声が止めた。
「田所さん、少し待ってください」
「ヤマネという生き物をご存知ですか」
田所が顔を上げた。
今日はまっすぐ、烏丸を見た。
「日本にいる哺乳類の中で、本当に冬ごもりをするのは、ヤマネだけです。秋のうちに体に脂肪を蓄えて、気温が下がると木の洞や枯れ葉の中に潜り込む。体温が外気温と同じになるまで下がって、心拍も呼吸も最小限になる。見つけると、石のように動かない。でも死んでいるのではなく、生きている。ただ、眠っている」
田所がじっと聞いていた。
傍聴席の女性も、静かに聞いていた。
「あなたは、退職してから六ヶ月間、ヤマネのように眠っていたのだと思います。社会から、人から、音から、遠ざかって、静かな場所に潜り込んだ。それはあなたの体が、変化についていけなかったからで、責める言葉ではありません。ヤマネの冬ごもりが、生きるための知恵であるように、あなたが静かになろうとしたことも、体の正直な反応だったと思います」
遥は記録を取りながら、田所の肩が少し下がったのを見た。
何かが、少し緩んだ。
「でも、ヤマネが眠れるのは、春が来ると知っているからです。体がそれを知っている。冬の終わりを知っているから、眠れる。あなたには、その春が見えなかった。退職という冬が、いつ終わるのかわからなかった」
田所がうつむいた。
「先ほどあなたが話してくれた、北陸への旅のことを覚えていますか。雪の日本海と、温泉と、奥さんと二人で話したこれからのこと。あなたは今日もその話をしながら、とても楽しかったと言いました。その声が、今日の法廷でいちばん生きていた」
田所の体が、小さく震えた。
「あなたの春は、まだそこにあります。三十年の仕事の記憶の中にではなく、ずっと隣にいた人の中に。三年間の猶予があります。ヤマネが春に目を覚ますように、その人と、もう一度、これからのことを話してみてください。温泉でなくても、台所でもどこでもいい。あなたの冬は、あなたが思うより短いかもしれません」
田所が顔を上げた。
目が、濡れていた。
傍聴席の女性が、ハンカチを目に当てた。
法廷はしばらく、その静けさのまま、時間が止まっていた。
廊下に出たとき、羽田が壁に背中をつけて立っていた。
「先生の説諭、毎回すごいと思うんですけど」
羽田がゆっくり言った。
「今日は特に」
「どのあたりが」
「春は隣にいる、というところです。田所さんが求めているものが、ずっとそこにあったっていう。それを烏丸先生が見つけた、ということが」
「先生が見つけたのではなくて、田所さんが話してくれました」
「でも、聞いたのは先生ですよ」
遥はそれを言えなかった。
言う代わりに、廊下の窓を見た。
冬の光が斜めに差していた。
「羽田さん」
「はい」
「お父さんのところ、帰れましたか」
羽田がにっこりした。
「先週末、帰りました。何も変わってなかったです。母がいつも通りうるさくて、父がいつも通りテレビを見ていて。でも、一緒に夕飯食べながら、仕事のこととか、これからどうするとか、少し話しました」
「良かったです」
「田所さんの話、聞いてたから、なんか、話せた気がします」
夕方、遥が帰り支度をしていると、烏丸が言った。
「今日は、良い判決でしたか」
遥は少し考えてから答えた。
「判決ではなくて、今日の法廷全体が」
「全体が」
「ええ。田所さんが話してくれた旅の話と、傍聴席の奥さんが来ていたことと、先生の説諭と、羽田さんが帰ったことと。全部が、一つの話みたいで」
烏丸がそれを聞いて、少しの間、黙っていた。
「あなたはいつも、法廷全体を見ていますね」
「記録を取っているので」
「記録を取る人の目は、記録だけを見ます。でも、あなたの目は、もう少し広い」
遥はコートの前を合わせながら、窓の外を見た。
冬の空が暗くなっていた。
星が一つ、出ていた。
「先生に言われると、少し恥ずかしいですね」
「事実ですから」
烏丸が立ち上がり、コートを取った。
二人で廊下へ出た。
電灯を消した後の執務室に、窓からの冬の星明かりだけが、静かに差していた。




