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第二十四話「冬ごもりの終わる日(終章)」 ケース6:ヤマネの眠りと、春の名前

 十二月になった。


 緑ヶ丘地方裁判所の庭から、ほとんどの葉が落ちていた。

 銀杏も欅も、枝だけになっていた。

 その枝に、ときどきヒヨドリが止まった。

 冬の鳥はよく鳴いた。

 夏の蝉より、遠くまで届く声だった。


 遥は今日も、出勤してすぐに弁当箱を置いた。

 今週はブリの照り焼きにした。

 脂が乗って、冬のブリは美味しい。


「ブリです」と遥が言った。

「ありがとうございます。ブリはスズキ目アジ科の魚で、成長段階によって名前が変わります。関西ではワカナ、ツバス、ハマチ、メジロ、ブリと」

「三分の二食べてから、という約束です」

「……ブリは食べながらでも話せます」

「聞きながら食べるのが難しいんです」

「……それは申し訳ありませんでした」


 烏丸が静かに食べ始めた。

 遥は笑いながら、今日届いた書類を開いた。


 森田弁護士からの短い手紙だった。

 田所泰雄の件について、近況報告とあった。

 田所は妻と、今は毎朝、近所を三十分歩いているという。

 最初は黙って歩いていたが、先週から少し話が出るようになった。

「台所で話す機会も増えてきた」と、田所本人が弁護士に伝えてきたらしい。


 遥はその手紙を読んで、烏丸に渡した。

 烏丸が読んだ。

「台所で、話すようになった」と遥が言った。

「ええ」

「先生が言った通りになりましたね」

「田所さんが動いたんです」

 烏丸が手紙をテーブルに置いた。

「私は話しただけです」

「でも、話したから、動いた」

「……そうかもしれません」

 窓の外で、ヒヨドリが鳴いた。鋭くて、澄んだ声だった。


 午前中、裁判所の廊下に若い人たちが来ていた。

 司法修習生だった。

 法曹の卵——司法試験に合格して、実務研修を受けている段階の若者たちだった。

 年齢は二十代後半が多かった。

 今日は刑事部の公判を傍聴してから、裁判所内を見学するプログラムらしかった。

 羽田が案内を担当していた。


 遥が廊下を歩くと、羽田が四人の修習生を連れて歩いているところに出くわした。

「ちょうど良かった、築地さん。刑事部の書記官の方です。何か聞きたいことがあれば」

 修習生の一人が遥に向かって頭を下げた。

「今日の公判で、裁判官の方が最後に被告人に話しかけていましたが、あれはいつもあることなんですか」

「いつもではないですが、このコートでは、よくあります」

「法廷外での行為ですか、それとも判決の一部として」

「正式には、法廷の中での裁量的行為です。義務ではありませんが、禁止でもない」

 修習生がうなずいた。


 そこへ烏丸が廊下を歩いてきた。羽田が「ちょうど」という顔をした。

「先生、修習生の方々です。少し話してもらえますか」

 烏丸が立ち止まった。

 修習生たちが緊張した顔で頭を下げた。

「今日の公判を傍聴されましたか」と烏丸が聞いた。

「はい」

「何か、気になったことは」


 一人が少し考えてから言った。

「被告人に最後に話しかけていた場面が、印象的でした。ああいうことを、なぜ裁判官がするのか、教えていただけますか」

「判決文には書けないことが、世界にはあるので」

 修習生がメモを取った。


 別の一人が聞いた。

「先生は、弁護士や検察官ではなく裁判官を選ばれたのには、何か理由がありましたか」

 法廷の外でこういう質問を受けることは、烏丸には珍しかったと思う。

 でも表情は変わらなかった。

 少し間を置いてから、答えた。


「どちらの側にも立てない人間が、どちらの話も聞けます。その場所が、ちょうど良かった」

「どちらの側にも立てない、というのは」修習生が続けた。

「どちらかが正しいと決めてから話すことが、私にはできません。事実を全部読んでから、それを言葉にする。それ以外の順序で仕事ができなかったので、裁判官が合っていました」

 修習生が黙って、それを手帳に書いた。


 烏丸が羽田に目を向けた。

「案内を続けてください」

「はい」

 烏丸が廊下を歩いていった。

 修習生の一人が、その後ろ姿を少し見ていた。


 昼になって、羽田が執務室に顔を出した。

「先生の、どちらの側にも立てない、って言葉、修習生のみんなに刺さってましたよ」

「そうですか」

 烏丸が書類から顔を上げた。

「俺、司法試験受ける前、弁護士か検察か少し迷ったんですよね。結局書記官になりましたけど」

「書記官を選んだ理由は」

「法廷を動かす仕組みが、後ろから支えるのが好きで。あと、正直に言うと、試験が一番楽で通れそうだったので」

「正直ですね」

「先生に嘘ついても意味ないし」と羽田が言って、少し笑った。

「先生って、嘘つかれたら全部わかりますよね、なんとなく」

「わかりません」

「わかってますよ絶対。だって、嘘つく人の目の動きとか、すぐ気づいてるじゃないですか、法廷で」

 烏丸が少し止まった。


「法廷では、注意して見ています。日常では、そこまでは」

「日常でもわかってると思いますよ」

 羽田が出て行った。

 遥は弁当の片付けをしながら、それを聞いていた。

(日常でもわかってると思う)

 遥は少し、自分の胸を点検した。

 烏丸に嘘をついたことはない。

 でも、言っていないことはある。

 それはまだ、ただの「言っていないこと」なのか、それとも——


「何を考えていますか」烏丸が静かに言った。

「え?」

「今、少し遠くを見ていました」

「……あ、すみません。羽田さんの話を聞いていて、少し考えていました」

「何を」

「先生に嘘はついていないな、と」

 烏丸がほんの少し、目を細めた。

「そうですか」

「でも、言っていないことはあります」

「知っています」

「……どんなことか、わかりますか」

「わかりません」

 烏丸が穏やかに言った。

「でも、あなたが言う日が来ると思っているので、待っています」


 遥は弁当箱の蓋を持ったまま、少し止まった。

(また、待っている)

 この人はいつも、そう言う。

 急がない、待っている。

 何度そう言われても、慣れない。

 慣れない方が、正しいと思う。


 午後も仕事をしながら、遥はふと言った。

「兄から昨日、電話がありました」

「お兄さんが」

「古本屋でアルバイトを始めたと言っていました。本の整理をしているのが好きなんだそうです」

「それは」

 烏丸が静かに言った。

「良かったです」

「電話の最初から、声が明るくて。今まで電話すると少し遠慮したような声だったので、そうじゃなかったから」

「電話を続けてきたからですよ」

「先生は前もそう言いましたね」

「事実なので、また言います」


 遥は窓の外を見た。

 冬の空は低く、鉛色だった。

 でも、その色が今日はそんなに寒くなかった。


「説諭、何本くらい書きましたか、これまで」

「正確には数えていませんが」

 烏丸が少し考えた。

「二十本以上は」

「全部、届いたと思いますか」

「全部はわかりません。届いていないものも、あると思います」

「でも続けているんですね」

「ええ。届かなくても、言い続けることが、私にできることだと思っているので」


 遥はその言葉を、今日は手帳に書いた。

 胸ではなく、手帳に。

 残しておきたかった。


 烏丸が書いているのに気づいた。

「何を書いたんですか」

「先生が言ったことです」

「どの部分を」

「届かなくても言い続ける、という部分を」

 烏丸が少し照れた顔をした。

 耳が赤かった。

「……そんな大したことを言った覚えはありませんが」

「大したことです」


 夕方、帰り支度をしていると、羽田が廊下から首を出した。

「来週から冬休みですね。先生、年越しはどこかに」

「家にいます」

「一人でですか」

「ええ」

「……来年もよろしくお願いします、先生」

「こちらこそ」

 羽田が引っ込んだ。

 遥が「お父さんのところに帰りますか」と廊下に向かって言うと、「帰ります」という声が聞こえた。

 二人になった執務室に、冬の夕暮れが入ってきた。


「先生は、年越しを一人で過ごすのが、苦ではないですか」と遥は聞いた。

「以前は何も思いませんでした」

「今は」

「今は」

 烏丸がコートを手に取った。

「少し、長い気がします。一人の時間が」

 遥は何も言えなかった。

 代わりに、「良いお年を」と言った。

「あなたも」烏丸が言った。

「来年も、よろしくお願いします」

「こちらこそ」


 二人で廊下を出た。

 裁判所の玄関を出ると、空から細かいものが落ちてきた。

「雪ですか」と遥が言った。

「みぞれです。雪と雨の中間です。気温が高いと、地上に落ちる前に溶けてしまう」

「消えてしまう前の雪、か」

「ええ。でも、溶けた後は、地面を湿らせます。消えても、何かが残ります」


 遥はみぞれの中に手を出した。

 細かい冷たさが、掌に落ちて、すぐに消えた。

 でも、確かに何かが残った。


 年が明けた。

 正月の三日に、遥は裁判所の前を通りかかった。

 用事があったわけではなかった。

 ただ、冬休みの間に一度、この場所を見たかった。

 閉まっている裁判所の建物は、思ったより小さく見えた。

 でも、灯りが一つだけついていた。

 執務室の窓だった。

 遥は少し立ち止まってから、歩き続けた。

 笑えるような、でも笑えないような気持ちで。

 でも、どちらかといえば、温かかった。


 仕事始めの朝、烏丸が言った。

「明けましておめでとうございます」

「明けましておめでとうございます。先生、休み中も来ていたんですか」

「少し、書いていたので」

「何を」

「判決文の草案と、あと」

 烏丸が引き出しを開けた。

「生き物の話を、少し」

「どんな生き物ですか」

「タカです」

 遥が顔を上げた。

「冬の空を飛ぶタカは、獲物だけを見て飛びます。視野が狭い。でも速い。その速さと狭さが、強さでもあり、弱さでもある」


 遥は新しいファイルを引き取った。

 令和七年第〇〇三号。

 背任。

 表紙に、被告人の年齢と職業があった。

 三十八歳。

 会社役員。

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