第二十五話「タカの飛ぶ空(前編)」 ケース7:確信という名の視野
一月は、静かだった。
裁判所の庭に残っていた雪が、午前中の光で少しずつ溶けていた。
足跡のついていない白い部分が、午後には消えて、土が顔を出した。
それがまた翌朝には薄く凍って、また溶ける。
冬は毎日そういうことをくり返していた。
遥はコートの前を合わせて出勤した。
執務室に入ると、烏丸はすでにいた。
「おはようございます。今日は少し暖かいですね」
「北西の風が弱まっているので」
烏丸が書類から顔を上げた。
「タカが飛びやすい日です」
「タカが飛びやすい日、というのがあるんですか」
「風が強すぎると、急降下のコントロールが難しくなります。タカ科の鳥は、比較的穏やかな風の日に狩りをすることが多い。今日のような日は、上空から獲物を見ていることが多いです」
「先生、今日の案件の被告人のことを、そうやって思い出すんですね」
烏丸が少し止まった。
「……そうかもしれません」
遥は弁当を置きながら、本棚を少し見た。
あの焼けた背表紙の本が今日も同じ場所にある。
前から少し右に動いた気がしたが、気のせいかもしれなかった。
でも今日は、何かを聞きたい気分ではなかった。
ファイルをもう一度確認した。
被告人の名前は田中 洸介。
三十八歳。
株式会社ディライト・ベンチャーズ代表取締役。
会社設立から五年で従業員三十名規模に成長させた、自他ともに認める経営者だった。
起訴事実の要点を読む。
田中は昨年三月、業績悪化に瀕した自社を救うため、取締役会の決議を経ることなく、独断で会社資金四千八百万円を、破産申請中であったスタートアップ企業への出資として支出した。
その企業は翌月に破産し、出資金は全額回収不能となった。
被害総額四千八百万円。
背任罪。
刑法第二百四十七条。
五年以下の懲役または五十万円以下の罰金。
「この人の主張は」と遥が聞いた。
「弁護人によれば、会社のためにした行為であり、背任の故意はないと争います」
「会社のためにしたのに、会社に損害を与えた、ということですか」
「そうです」
烏丸がファイルを閉じた。
「タカが獲物だけを見て飛ぶとき、それは狩りのためです。でも途中で風が変わったとき、周囲を見ていなければ、崖にぶつかる」
「先生の見立ては、もう出来ているんですね」
「出来てはいません。まだ聞いていないので」
午前十時、第三法廷。
「起立」
烏丸が入廷した。
被告人席の田中洸介は、遥の想像より背が高かった。
三十八歳というより少し若く見えた。
目が鋭かった。
しぼんでいた田所とも、遠くを見ていた小堀とも、違う種類の存在感があった。
この人は、今もここに完全にいる、と遥は思った。
ここにいて、戦う準備をしている。
「着席。令和七年第三号、背任被告事件、第一回公判を開廷します」
「人定質問を行います。お名前をお聞かせください」
「田中 洸介です」
声が、低くて、はっきりしていた。
「生年月日は」
「昭和六十一年、四月十五日です」
住所の確認が終わり、検察官が起訴状を読み上げた。
「公訴事実。被告人は、株式会社ディライト・ベンチャーズ代表取締役として、取締役会の決議を経ることなく、独断にて同社の資金四千八百万円を破産申請中のスタートアップ企業への出資として支出し、もって同社に財産上の損害を加えた。罪名及び罰条。背任、刑法第二百四十七条」
「被告人にお聞きします。ただいまの内容について、間違いや付け加えたいことはありますか」
田中が少し間を置いてから答えた。
「金額とタイミングは事実です。ただ、私が間違っていたとは思っていません」
法廷の空気が、わずかに変わった。
遥はペンを動かしながら、田中の目を見た。
怒っているのではなかった。
怯えてもいなかった。
ただ、確信している人の目だった。
「私は正しかった」という確信が、この人の全身に詰まっていた。
「弁護人から確認します」
田中の弁護人、橋本弁護士が立ち上がった。
五十代の落ち着いた女性弁護士だった。
「被告人は、四千八百万円の出資という事実は認めます。しかし、当該行為は被告人が会社の利益のために行った経営判断であり、背任罪の成立要件である任務違背の故意、すなわち自己または第三者の利益を図る目的は存在しませんでした。この点を主に争います」
「承知しました。次回、証拠調べと被告人質問を行います。期日は追って調整します」
「起立」
廊下に出ると、羽田が小さく口笛を吹いた。
「強いですね、あの被告人」
羽田が言った。
「起訴状を読まれながら、まったく揺れていなかった」
「確信を持っている人は、揺れません」と遥が言った。
「先生はどう思うんですかね。会社のためにやった、というのは本当だと思いますか」
「本当だと思います」
「でも損害は出ている」
「本当に会社のためだと思っていても、その行為が背任になることはあります。経営判断として著しく不相当だった場合、取締役の善管注意義務違反として背任が成立します」
「難しいですね」
羽田が廊下の窓を見た。
「正しいことをしようとして、罪になるって」
「動機と結果が、いつも一致するとは限らないので」
羽田がため息をついた。
「タカが狩りに失敗したときみたいですね」
「先生みたいなことを言いますね」
「うつるんですよ、いるとね」
羽田が少し笑った。
夕方、遥が書類をまとめていると、烏丸が窓の外を見ながら言った。
「オオタカの視力は、人間の四倍から八倍あります」
「それだけ見えれば、狩りが得意なのは当然ですね」
「ええ。でも面白いことに、急降下して獲物を掴む瞬間、タカは目を閉じます」
遥が顔を上げた。
「閉じるんですか」
「獲物が暴れて目を傷つけないよう、保護のために瞬膜という半透明の膜が閉じます。つまり、最も集中する瞬間に、視覚が失われる」
「タカが一番確信を持って飛ぶとき、目が見えていない」
「そうです。感覚と経験だけで、掴む」
遥はその話を聞きながら、本棚の古い本のことを思った。
『正義の法と人間の精神』。
あの焼けた背表紙の本。
この人の父が読んでいた本。
正義とは何か、を考え続けた人の本が、この部屋にある。
烏丸は毎日その本の隣で仕事をしている。
一度も開かない日も、何かを考える日も、同じ場所にある。
(この人の目が見えている部分と、見えていない部分は、どこなんだろう)
タカが目を閉じて獲物を掴むように、烏丸が目を閉じて届けようとしている何かが、この部屋のどこかにある気がした。
「難しい案件ですね、今回も」と遥は言った。
「ええ」
烏丸が振り返った。
「でも、面白い案件です。確信を持った人が、その確信のまま法廷にいる。正しいと思っていることが罪になるとき、人はどこに立てばいいのか」
「先生は、どう思いますか」
「まだわかりません」
烏丸が静かに言った。
「聞いてから、考えます」
窓の外の空は、冬の紺色になっていた。
どこかで、タカが飛んでいるかもしれなかった。




