第二十六話「タカの飛ぶ空(中編)」 ケース7:確信という名の視野
第二回公判は、一月の下旬に開かれた。
その朝の弁当は筑前煮にした。
根菜の甘みが冬によく合う。
「筑前煮です」と遥が言った。
「ありがとうございます。蓮根、牛蒡、こんにゃく、鶏肉——これだけの食材が一緒に煮られているのに、それぞれの味が消えていない。出汁の役割が」
「三分の二食べてから、という約束です」
「……少し多めに食べてから、ではいかがですか」
「三分の二という数字は変わりません」
「……わかりました」
烏丸が静かに食べ始めた。
遥は今日の公判の記録用紙を確認しながら、窓の外を見た。
一月の空は青く、高かった。
今日もタカが飛びやすい日かもしれなかった。
午前十時、第三法廷。
「証拠調べを行います。検察官から請求をお願いします」
書証の請求が始まった。
「弁第一号証。株式会社ディライト・ベンチャーズの取締役会議事録、過去三期分です。被告人が今回問題となった投資の前後で、重要事項は常に取締役会決議を経ていたことを示す記録です。弁第二号証。被告人が作成した投資提案書。日付は昨年三月一日で、投資先企業への出資を被告人が単独で検討した記録です。弁第三号証。被告人と投資先企業幹部との電子メールのやりとり。投資の打診から三日間で契約に至った経緯が記録されています。弁第四号証。投資先企業の財務記録。被告人が出資を決めた時点で、すでに銀行からの融資打ち切りが決定されており、実質的な経営破綻状態にあったことを示します」
「弁護人の意見は」
「第一号証から第三号証は採用に異議なし。第四号証については、被告人が出資当時にその情報を知り得たかどうかについて意見があります。被告人は投資先企業から『今週中に資金調達できなければ来週には申請せざるを得ない』との通告を受けており、内部の財務状態の詳細は開示されていませんでした」
「採用します。いずれも本日確認します。では被告人質問に移ります」
「田中さん」
橋本弁護士が立ち上がった。
「会社がどのような状況にあったか、教えてください」
「昨年春の時点で、主要取引先との契約が二件終了し、売上が三割落ちていました。資金繰りが厳しくなっていた」
「そのとき、投資先企業からどういう連絡がありましたか」
「三月一日の夜です。先方の役員から電話があって、『今週中に五千万円の調達ができなければ、来週に破産申請するしかない』と言われました。うちに出資を求めてきた」
「その企業は、御社にとってどういう位置づけでしたか」
「開発中のソフトウェアを持っていた会社です。そのソフトが完成すれば、うちの事業の核になるはずだった。失ったら、立て直しが三年は遅れる計算でした」
「なぜ取締役会に諮らなかったのですか」
田中がわずかに止まった。
「三月一日の夜から、四日以内に答えを出さなければならなかった。取締役会は定足数が揃わない状況でした。三名いる取締役のうち一名が海外出張中で、緊急に開催できなかった」
「だから、独断で決めた」
「はい。会社のために、今しかないと思いました」
「取締役会で反対されると思いましたか、もし相談できていたなら」
検察官の反対尋問での問いだった。
田中がそこで初めて、少し長い間を置いた。
「……反対されたと思います」
「なぜですか」
「あの人たちには、リスクを取る判断ができなかった。過去の実績だけを見て動く人間ばかりだったので」
「その取締役の方々は、あなたより長く会社にいましたか」
「二名は、創業時からいます」
「七年です」
「はい」
検察官が書類に視線を落とした。
「投資先企業の実態について、あなたは正確な情報を持っていましたか」
「先方から伝えられた内容を信じました」
「内部の財務状態は」
「開示されなかった。でも、急いでいたので確認する時間が」
「確認できなかったのか、しなかったのか、どちらですか」
田中が止まった。
「……しなかった、のかもしれません」
「裁判官から補充質問があります」
烏丸が口を開いた。
田中が顔を上げた。
「取締役会に諮らなかった、とおっしゃいました。でも、一名の取締役は出張中だったとしても、残りの二名には相談できましたか」
田中が少し考えてから言った。
「電話は、できたと思います」
「なぜしなかったんですか」
「……時間がなかったので」
「電話の時間はありましたか」
田中がまた止まった。
遥はペンを動かしながら、その沈黙を記録した。
「ありました」
「では、なぜしなかったのですか」
「わかりません」
田中がゆっくり言った。
「今考えると、なぜしなかったか、説明できません」
「わかりました」
烏丸が静かに言った。
「ありがとうございます」
廊下に出ると、羽田が遥の隣を歩きながら言った。
「田中さんって、なんか、人に相談するのが苦手な人なんですかね」
「そう見えましたか」
「だって、相談できたのにしなかった、ってことになるじゃないですか。それって、もともとそういう人なのか、あのときだけそうなったのか、どっちなんだろうって」
「どっちだと思いますか」
「子どもの頃からそういうタイプだったのかな、と」
羽田が前を向いたとき、廊下の向こうから烏丸が戻ってきた。
「先生って」
羽田が少し遠慮がちに言った。
「子どもの頃、人に相談できる友達はいましたか」
遥は少し驚いた。
直接聞いた。
烏丸は止まらずに歩きながら、少し考えて言った。
「フナムシと仲良くしていました」
羽田が止まった。
「……え」
「ダンゴムシに似ていますが、等脚目フナムシ科で分類が異なります。動きが速く、追いかけると面白かった」
「せ、先生、今、友達いなかったって言いましたよね」
「フナムシがいたので」
「それは友達とは言わないと思うんですが」
「追いかけると逃げないんです、フナムシは。待っていると戻ってくる」
羽田が遥を見た。
「先生、すごく寂しいことを言っていますよね」
「寂しかったとは思っていませんでした。当時は」
烏丸が少し間を置いてから言った。
「今は、少し、そうだったかもしれないと思いますが」
廊下が静かになった。
羽田が小さく「ありがとうございます」と言って、先に歩いていった。
遥は烏丸の隣を歩きながら、何も言わなかった。
この人が子ども時代に一人でフナムシを追いかけていた、という景色を、しばらく持っていた。
昼に食堂で遥と羽田が話した。
「フナムシって、何ですか」と羽田が言った。
「海岸や水辺にいる節足動物です。平べったくて、素早い」
「……先生の子ども時代の友達が、それ」
「それだけじゃないと思いますが」
「でも、今より楽しそうではない気がします。子どもの頃の方が」
遥がコーヒーを飲みながら言った。
「田中さんも、子どもの頃から相談しない人だったのか、あの投資のとき初めてそうなったのか、はっきりしませんね」
「どっちだと思いますか、先輩は」
「今日の田中さんを見ていて」
遥は少し考えた。
「なぜしなかったかわからない、と言ったとき、初めて本当のことを言った気がしました」
「それって」
「タカが急降下するとき目を閉じる、という話を、先生が前に言っていました。一番集中しているときに、視覚が遮断される。田中さんも、あの瞬間に何かが閉じていたんだと思います。相談できる、でもしない。説明できない、でもした。それが、確信というものの怖さかもしれません」
羽田が黙って、それを聞いていた。
夕方、遥が帰り支度をしていると、烏丸が言った。
「今日の補充質問で、田中さんに聞きたいことは聞けました」
「何がわかりましたか」
「相談しなかったことの説明が、彼自身にできない、ということが」
「それは、何を意味しますか」
「確信が視野を遮っていたとき、人は自分が見えなくなっていることに気づかない。急降下中のタカが目を閉じているように。事後的にも、なぜ閉じたかを説明できない」
遥は窓の外の冬の空を見た。
「先生は、子どもの頃、フナムシと仲良くしていたという話」
「はい」
「待っていると戻ってくる、と言っていましたが」
「ええ」
「それって」
遥が静かに言った。
「フナムシを待つのが好きだったというより、待つことが得意だったということですか」
烏丸が少し止まった。
「……そうかもしれません。待つことが、苦ではなかったので」
「今も、そうですか」
「今も」
烏丸が遥を見た。
「そうです。苦ではありません」
遥はそれ以上聞かなかった。
でも、その答えがどこに向かって言われたかは、わかった気がした。




