第二十七話「タカの飛ぶ空(後編)」 ケース7:確信という名の視野
論告と弁論は、二月の第一週に開かれた。
検察官は「取締役として取締役会決議を経る義務を明確に認識しながら、相談可能な状況にあったにも関わらず独断で行動した。背任罪における故意は会社への損害を認識していれば足り、会社を救おうとした動機は成否に関係しない」として懲役二年を求刑した。
橋本弁護士は「被告人の動機は一貫して会社の利益のためであり、悪意は存在しなかった。緊急性の判断の中でのやむを得ない判断ミスであり、前科前歴のなさと深い反省の態度を考慮して執行猶予を求める」と述べた。
被告人の最終陳述は短かった。
「被害を与えたことは事実です。会社に損害を出したことは、結果として間違いでした」
そこで止まった。
これまで一度も止まらなかった田中が、止まった。
「なぜ相談しなかったか、今でも説明できません。それだけが、わかりません」
法廷が静かになった。
遥はその言葉を書き留めながら、田中を見た。
今日の田中の目は、変わっていた。
「確信」があのときと同じ強さにはなかった。
何かが、少しだけ空いていた。
「弁論を終結します。判決は来週水曜、午前十時に言い渡します」
二月の第二週、判決の朝。
窓の外の庭に、うっすらと霜が降りていた。
朝の光が当たるとすぐに消えていくはずの薄さだったが、今日は気温が低くて、昼近くまで残っていた。
「今日のお弁当は牡蠣ご飯です。冬が旬で、海のミルクとも言われます」
「ありがとうございます。牡蠣はイタボガキ科の二枚貝で、雌雄同体の種が多く、環境によって性別を変えることがあります。グリコーゲンの含有量が」
「三分の二食べてから」
「……今日は判決の朝なので、昨日と同様、特例を」
「先週も却下しました」
「……覚えていましたか」
「全て覚えています」
烏丸が静かに食べ始めた。
遥は手帳を開いて、今日書くべき記録の準備をした。
「なぜ相談しなかったか、わからない」という田中の言葉が、まだ頭の中にあった。
午前十時、第三法廷。
「起立」
烏丸が入廷した。
田中洸介が座っていた。
今日は傍聴席に数名の人影があった。
社員か、関係者か。
「着席。令和七年第三号、背任被告事件の判決を言い渡す」
「主文。被告人を懲役二年に処する。この裁判確定の日から四年間、その刑の執行を猶予する」
田中が目を前に向けたまま、動かなかった。
「理由を告げる。被告人が取締役会の決議を経ることなく、会社資金四千八百万円を出資し、会社に損害を与えた事実は証拠の結果によって明らかである。被告人は取締役として善管注意義務および忠実義務を負い、重要な財産処分については取締役会の決議を経るべきことを知っていた。他の取締役への相談が不可能ではなかったにも関わらず、これを行わなかったことは、任務違背に当たる。被告人は会社を救うために行動したと主張するが、背任罪の故意は会社への財産上の損害発生の認識で足り、動機の良否は成否に影響しない」
烏丸が一枚、書類をめくった。
「しかしながら量刑にあたって次の事情を考慮する。被告人に前科前歴がないこと。行為の動機が私利を目的とせず、会社の利益を図ろうとしたものであること。被告人は最終陳述において初めて相談しなかったことについての説明ができないことを認め、責任の一端を認識し始めていること。以上を総合考慮し、刑の執行を猶予することが相当と判断した」
烏丸が書類を閉じた。
「田中さん、少し待ってください」
「タカという鳥を、見たことがありますか」
田中がまっすぐ烏丸を見た。
「タカは狩りをするとき、上空から獲物を探します。その視力は人間の四倍から八倍あると言われています。遠く、細かく、鋭く、見えている。そして獲物を見つけたとき、一点に集中して急降下します。その速さは、時速百キロを超えることがある」
田中が黙って聞いていた。
「でも、急降下するその瞬間、タカは目を閉じます。獲物が暴れて目を傷つけないよう、瞬膜という膜が閉じます。つまり、最も確信を持って飛ぶ瞬間に、視覚が失われる」
法廷の空気が、静まった。
「あなたが投資を決めた三日間は、そういう時間だったと思います。会社を救うという確信が、あなたの視野全体を占めた。だから、相談できたのにしなかった。なぜしなかったか、今も説明できない。それは、目を閉じていたからです。確信がそれほどまでに大きかったから」
田中の体が、かすかに前に傾いた。
「あなたのタカの目は、本物です。会社を五年で育てた眼力は、疑いようがない。でも、タカが目を閉じるのはほんの一瞬です。あなたは三日間、目を閉じたまま飛んだ」
遥はペンを持ちながら、動けなくなっていた。
「組織にいるということは、あなたの目が閉じるとき、隣の人の目で見てもらうということです。あなたが信頼しなかった二人の取締役は、七年間あなたと会社を作ってきた人たちです。彼らには、あなたとは違うものが見えていたかもしれない。それを確認しないまま飛んだことが、今回の四千八百万円でした」
田中の目が、揺れた。
「四年間の猶予があります。その期間に、一度だけ、あの二人の取締役に会いに行ってください。謝罪のためではなく、あなたが見えていなかったものを、聞くために。タカが獲物を掴んだ後、目を開けて空を見上げるように。視野を取り戻してください」
田中がゆっくりと、うつむいた。
遥には、そのときの田中の顔が見えなかった。
でも、肩が落ちた、その動きが見えた。
これまで一度も落ちなかった肩が、判決文でも、検察の論告でも落ちなかった肩が、今、初めて、落ちた。
傍聴席で誰かが静かに息を吐いた。
廊下に出た。
羽田が壁に背中をつけて立っていた。
「先生って、毎回すごいとは思うんですが」と羽田がゆっくり言った。
「今日は、田中さんが怖かった分、余計にすごかったです」
「怖かった、というのは」
「あの人、最初から最後まで戦う気でいましたよね。でも、目が閉じていた、と言われたとき、初めて肩が落ちた。怖い人が崩れるのを見ると、なんか、こっちが怖くなって」
「それはなぜですか」
「あれが、誰にでも起こり得ることだと思ったので。確信を持てば持つほど、目が閉じていくって。俺にも、あなたにも」
遥は羽田を見た。
「羽田さん、成長しましたね」
「先輩に言われたくはないです」
羽田がぼやいた。
「でも、ありがとうございます」
夕方、烏丸がコートを手に取りながら言った。
「今日は、良い説諭でしたか」
「良い、というか」
遥は少し考えた。
「田中さんの肩が落ちた瞬間が、今日一番印象的でした」
「そうですか」
「ずっと持ち上げていた何かを、やっと下ろした、という感じで。重かったと思うんです、四千八百万円より重いものを、ずっと一人で持っていたのかもしれなくて」
「確信、というものは重いです」
烏丸が静かに言った。
「軽く持てれば、下ろせる。でも本物の確信は、それ自体が体の一部になっているので、下ろすと自分の一部もなくなる気がする」
「先生も、そういうものを持っていますか」
烏丸が少し止まった。
「あります」
「下ろせそうですか」
「下ろしたくないものなので」
烏丸がコートを着た。
「でも、重さを知っている人がいると、少し、楽です」
遥はそれを聞いて、コートの前を合わせた。
「帰りましょう」と言った。
「ええ」と烏丸が言った。
二人で廊下を出た。
冬の夕暮れが、廊下の窓から斜めに差して、床に影を作っていた。




