第二十八話「タカの飛ぶ空(終章)」 ケース7:確信という名の視野
二月の終わりになると、裁判所の庭の梅が咲き始めた。
白い小さな花が、枯れ枝の先にいきなり開いていた。
昨日まで何もなかった枝に、今日は花があった。
冬の終わりはいつもそういうふうに来る。
宣言せずに、気づいたらそこにいる。
遥は今日の弁当に、菜の花のおひたしを入れた。
今シーズン初めての春野菜だった。
「菜の花です。今日から少し、春の食材を」
「ありがとうございます。菜の花はアブラナ科の花序で、ビタミンCとβカロテンが豊富です。ほろ苦さは植物が虫や菌から身を守るためのアルカロイドに」
「三分の二食べてから、という約束です。それと今日は、三分の二まで待てば菜の花の話は聞きます」
烏丸が少し止まった。
「……それは、追加ルールですか」
「はい。ご褒美です」
烏丸がゆっくり食べ始めた。
目が、少し柔らかかった。
午前中に、橋本弁護士から報告書が届いた。
田中洸介は先月末、代表取締役を辞任した。
しかし会社は解散しなかった。
残った二名の取締役が中心となり、従業員と話し合いを重ねた結果、新体制での事業継続を決定した。
田中は個人として損害の一部弁償の手続きを弁護士を通じて開始している。
最後に一行だけ付け加えてあった。
「先週、田中氏は創業時からいた取締役と二時間ほど話したと聞いています」とだけ。
遥はその一行を読んで、烏丸に渡した。
烏丸が読んだ。
何も言わなかった。
でも、書類をファイルに収める手が、いつもより少し丁寧だった。
「会いに行ったんですね」遥が言った。
「ええ」
「謝罪のためではなく、聞くために、と先生が言った通り」
「田中さんが動いたんです」
「でも、先生が言ったから、動いた」
烏丸が少し止まって、答えなかった。
遥は笑いながら、菜の花のおひたしを食べた。
午後、廊下で事件があった。
会計担当の職員が烏丸に書類を持ってきて、「今期の経費精算、これで問題ないですよね」と確認を求めた。
烏丸が書類を一枚見て、即座に言った。
「三ページの交通費の記載が、実費より二百円多いです」
職員が固まった。
「計算ミスです。直してください」
「あ、はい……」
職員が書類を持って帰った後、羽田が遥の隣に立って小声で言った。
「先生って、『まあ誤差ですし大丈夫ですよ』って言えないんですね」
「言えないと思います」
「なんで言えないんですかね」
「事実と違うことを言うのが、苦手なんだと思います。白い嘘も含めて」
「でも、あの職員さん、傷ついてませんでしたか」
「傷ついていたかもしれません」
遥が廊下の先を見た。
「でも、嘘をついて傷つけないことと、本当のことを言って傷つけることを、先生は毎回選んでいるんだと思います。そしてたぶん、本当のことしか言えないので、選ぶ余地があまりない」
「それって」
羽田がゆっくり言った。
「すごく不便ですよね、生きていく上で」
「不便だと思います」
遥が少し笑った。
「でも、その不便さが、法廷では武器になっている」
「どういう意味ですか」
「嘘をつけない人は、言葉の重みが違うんです。先生の言葉が被告人に届くのは、あの人が本当のことしか言わないから、だと思っています」
羽田が少しの間、考えていた。
「……なんか、先輩って先生のこと、よく見てますよね」
「書記官ですから」
「それだけじゃないですよ、どう見ても」
遥は答えなかった。
代わりに廊下を歩き始めた。
夕方、遥が今日の記録を整理していると、烏丸が急に窓の外を見て止まった。
「何か、気になることがありますか」と遥が聞いた。
「いいえ」
「今日、先生が苛立っていた場面がありました」
烏丸が振り返った。
「どのあたりですか」
「午後、会計の書類を直してもらった後です。廊下を戻るときに、少し声が固かったので」
「……そうでしたか」
「はい」
「気づいていませんでした」
烏丸が少し考えた。
「何に苛立っていたのか」
「なんとなくですが」遥が言った。
「先生は、事実と違う数字が混ざっていることが、うまく受け流せない方だと思います。それがわかっていて、あの場面では直してもらうしかなかった。その、受け流せない自分への少しの苛立ちが、出ていたのかもしれません」
烏丸が遥を見た。
少し長い間、見た。
「……よく見ていますね」
「書記官ですから、と今日も羽田さんに言いました」
「書記官の仕事は、記録を取ることです。私の感情の観察は含まれていません」
「では、超過業務です」
「……手当を出せるか確認します」
「結構です」遥が笑った。
「お弁当で充分なので」
烏丸が少し困ったような、でも嬉しいような顔をした。
耳が赤かった。
帰り支度をしていると、羽田が執務室に顔を出した。
「あ、そうだ。忘れてました。来月、視察官の方が来るらしいですよ」
「視察官」と遥が聞いた。
「裁判所の運営視察で、岩倉さんという方だそうです。大河内さんが今朝言っていました。何か特別なことはないと思いますけど、一応報告しとこうと思って」
「岩倉、さん」
「はい。それだけです。お疲れ様でした」
羽田が出て行った。
遥は岩倉という名前を、少し持った。
聞いたことがない名前だったが、なぜか残った。
烏丸は書類を見たままだった。
視線を上げなかった。
表情も変わらなかった。
でも、遥は気づいた。
烏丸の手が、書類の上で少し止まっていた。
「先生、岩倉さんという方を、ご存じですか」
「少し、知っています」
「どういう方ですか」
「会えばわかります」
それだけ言って、烏丸は書類に戻った。
遥はそれ以上聞かなかった。
でも「会えばわかります」という言葉の中に、何かが入っていた。
遥には、その何かの形がまだ見えなかった。
帰り際、庭を横切るとき、梅の花がまだそこに咲いていた。
昼間より、夕暮れの中の方が白かった。
「きれいですね、梅が」
「ウメはバラ科サクラ属で、桜より一足先に咲きます。香りは」
「三分の二食べ終わったので、聞きます」
烏丸が少し止まった。
「……今は弁当ではありません」
「では、特例として聞きます」
「……本当ですか」
「本当です。どうぞ」
烏丸がゆっくり、梅の香りの話をした。
春が来る前の、まだ空気が冷たい夕暮れの中で。
遥は横に並んで、その話を聞いた。
裁判所の庭に、春の始まりがあった。




