第二十九話「暗闇を飛ぶ声(前編)」 ケース8:コウモリが出す音と、届かなかった声
三月に入っても、空気はまだ冷たかった。
梅が咲き終わって、桜の芽がまだ固い。
庭の土は湿っていた。
昨夜から降っていた細かい雨が、朝になってようやく上がったところで、地面に残った水が光を弾いていた。
遥はコートの前を合わせたまま、出勤した。
鞄の中に、今日のお弁当が入っていた。
鶏の梅肉焼きとほうれん草の和え物、ひじきの煮物。
まだ春とは言えないが、梅の風味を使った。
季節の境目はいつも、食材が先に教えてくれる。
執務室に入ると、烏丸がいつも通り書類を読んでいた。
でも今日は、メモ帳が開いていた。
何かを書きかけたまま、止まっていた。
「おはようございます」
「おはようございます。今日から、新しいファイルです」
遥は弁当を置きながら、メモ帳を見た。
「コウモリ」と書いてあった。
「先生のメモ帳、すぐ開いていますね、新しい案件のたびに」
「考えながら書くので」
「コウモリ、ですか」
「ええ。今日のファイルを読んで、最初に浮かんだので」
ファイルを確認した。
被告人の名前は村田 恭子。
四十七歳。
無職。
前職は介護支援専門員——いわゆるケアマネージャーだった。
起訴事実を読んだ。
被告人は令和三年四月から令和六年三月にかけての三年間にわたり、実際には提供されていない訪問介護サービスについて介護保険の給付申請を繰り返し、○○市の保険者を欺いて介護給付費として合計二百七十八万円を詐取した。
罪名:詐欺罪。
刑法第二百四十六条。
十年以下の懲役。
「介護保険の不正請求ですね」と遥が言った。
「ええ。でも動機が、単純ではなかった」
「調書に何かありますか」
「義母を十三年間介護していた、とあります。認知症です。夫は仕事で多忙で、実質的に一人で担ってきた。不正請求を始めたのは、義母の症状が重くなった三年前からです」
遥は調書を読み進めた。
村田は義母の状態が悪化した際、認定区分の変更申請を行ったが、審査では「要介護三」のまま据え置かれた。
実態として必要な介護は「要介護四」から「五」相当だったが、正規の範囲では賄いきれなかった。
介護費用の不足を自費で補おうとしたが、限界に達した。
そこから、ケアマネージャーとしての専門知識を使った不正請求が始まった。
「金銭目的、ではなかったということですか」
「調書では、そう語っています」
「でも、詐欺は詐欺ですね」
「そうです」
烏丸がファイルを閉じた。
「でも、その間に何があったかを、聞かなければわかりません」
午前十時、第三法廷。
「起立」
烏丸が入廷した。
被告人席に、一人の女性が座っていた。
遥の第一印象は「整っている」だった。
疲れているのに、整っている。
スーツは古びていたが、丁寧にアイロンが当たっていた。
髪もきれいにまとめられていた。
でも、目の下に影があった。
寝ていないのではなく、長い間、充分に眠れていなかった人の目の色だった。
「着席。令和七年第三十一号、詐欺被告事件、第一回公判を開廷します」
「人定質問を行います。お名前をお聞かせください」
「村田 恭子です」
声は小さかったが、はっきりしていた。
「生年月日は」
「昭和五十二年、八月十一日です」
住所の確認が終わり、検察官が起訴状を読み上げた。
二百七十八万円。
三年間。
「被告人にお聞きします。ただいまの内容について、間違いや付け加えたいことはありますか」
村田が少し間を置いた。
「事実は、認めます」
そこで止まった。
「でも、ひとつだけ、聞いていただけますか」
法廷の空気が変わった。
烏丸が少し前に傾いた。
「なぜそうなったか、ここで言わせていただいてよいですか」
弁護人の安田弁護士が立ち上がりかけたが、烏丸が先に言った。
「認否の段階では、まず起訴事実の確認をお願いします。詳しい事情については、次回の被告人質問で必ず時間を取ります」
「……はい。わかりました」
「弁護人から確認します」
「被告人は起訴事実を全て認めます。ただし、犯行の背景には十三年に及ぶ介護の実態があり、情状の主張を次回以降で行います。被害弁償についても協議中です」
「承知しました。次回、証拠調べと被告人質問を行います」
「起立」
廊下に出た。
羽田が遥の隣に立ち、少しの間、黙っていた。
「『聞いていただけますか』って言いましたね、村田さん」
「言いましたね」
「法廷の場で、ああいう言い方をする人、初めて見ました」
「認めているのに、説明させてほしい、ということですね」
「聞いてもらえないと思っていたから、言ったのかな」
羽田がゆっくり言った。
「それとも、聞いてもらえる場所がここしかなかったから」
「どっちかはわかりませんが」
遥が廊下の窓を見た。
「どちらにしても、ずっと言えなかったことがあったんだと思います」
「あの目の下の影、ずっとああいう目をしていたのかなと思って」
「羽田さんはよく人の目を見ますね」
「先生を見てきたから、うつったのかも」
お弁当は午後に少し遅れた。
「梅肉焼きです」と遥が言った。
「ありがとうございます。梅の主成分のクエン酸は疲労回復に効果があり、また殺菌作用が」
「三分の二食べてから、という約束です」
「……今日は、少し話してもよいですか。弁当の話ではなく」
「はい」
「コウモリの話をしてもよいですか」
遥がお茶を一口飲んで、うなずいた。
「コウモリは、暗闇の中を飛べます。目がほとんど見えないのに。どうやっているかというと、超音波を出して、その反響音で周囲の空間を認識します。これをエコーロケーション、あるいは反響定位と言います」
「自分の声で、世界を作るんですね」
「そうです。声を出し続けることで、暗闇が地図になる。止まれば、何も見えなくなる」
「声を出すのをやめた瞬間に、壁にぶつかる」
「ええ」
烏丸が少し間を置いた。
「村田さんは、何年ごろから、声を出すのをやめたのだと思いますか」
「まだわかりません」
「私も、わかりません。聞かなければ」
遥は窓の外の濡れた庭を見た。
雨は上がっていたが、まだ空は低かった。
曇り空の下で、梅の残り花が一輪、ぼんやりと白かった。
「逆さに眠るのは、なぜですか。コウモリが」
「飛び立つためです」
烏丸が答えた。
「逆さになっていれば、重力に従って落下しながら翼を広げるだけで、すぐに飛べる。地面から助走して離陸するより、はるかに速い」
「逆さに眠ることが、飛ぶための準備なんですね」
「ええ。他の動物から見れば、おかしな姿勢です。でも彼らにとっては、最も合理的な在り方です」
遥はその言葉を、少し長く持った。
(他者から見ておかしく見えるものが、その人には最も合理的な在り方のことがある)
「三分の二、食べ終わりましたか」と遥が聞いた。
「あと少しです」
「では、コウモリの話の続きは、食べ終わってから」
「……了解しました」
烏丸が静かに食べた。
雨上がりの庭が、少し明るくなっていた。




