第三十話「暗闇を飛ぶ声(中編)」 ケース8:コウモリが出す音と、届かなかった声
第二回公判の朝、遥は弁当を作りながら、村田恭子のことを考えていた。
昨日の夜、調書をもう一度読んでいた。
十三年。
認知症の義母を、ほとんど一人で。
夜中に何度も起きて、連れ戻して、また眠る。
それをくり返してきた人間の言葉が、紙の上に並んでいた。
今日の弁当は、白和えと切り干し大根、炊き込みご飯にした。
温かくて、滋養のありそうなものを選んだ。
村田のためではない。
でも、なんとなく、そういう気持ちだった。
執務室に入ると、烏丸は今日も書類の上にメモ帳を開いていた。
「今日の被告人質問で、聞きたいことがあります」と烏丸が言った。
「何を聞くんですか」
「まだ言いません」
「教えてくれないんですか」
「聞いてから、一緒に考えたいので」
遥は弁当を置いた。
聞いてから一緒に考えたい——烏丸がそういう言い方をしたのは初めてだった。
証拠調べは、分厚かった。
弁護人が提出した証拠の中に、一冊の手書きのノートがあった。
村田が十三年間つけてきた介護日誌だった。
義母の状態、食事の量、夜中の起床回数、医師への連絡内容。
毎日、几帳面に書かれていた。
そのノートが証拠として読み上げられた。
全部ではなく、抜粋だったが、それだけで十分だった。
「今夜も三回、夜中に起きた。義母は自分が誰かわからなくなっている。私は誰ですかと聞かれた」。
「義母の体重が二キロ減った。食事を食べさせるのに一時間かかる」。
「今日で一万日目。この数字に意味はないが、書いた」。
羽田が遥の隣で、一度だけ、そっと息を吐いた。
「証拠調べを終わります。被告人質問に移ります」
「村田さん、義母さんとの関係を教えてください」と安田弁護士が聞いた。
「夫の母です。夫と結婚した翌年から同居しています。二十五年になります」
「介護が本格的に始まったのはいつですか」
「十三年前です。義母に認知症の診断が出ました。最初は軽度でした。鍵を忘れる、同じことを繰り返す、その程度でした」
「今は」
「会話がほとんどできません。私が誰かも、わからない日が多いです。食事も、一人ではできなくなりました」
「夜はどうですか」
「夜中に何度か起きます。自分がどこにいるかわからなくなって、外に出ようとするので。鍵を替えてあります。声をかけて、落ち着かせて、布団に戻って。それを一晩に三度か四度」
「お父さんは」
「仕事が多い人で。帰りが遅いことが多かった。今は少し早くなりましたが、夜中は私が対応しています」
「区分変更の申請を出しましたよね」
「三年前に出しました。症状が重くなったので、区分を上げてほしいと」
「結果は」
「通りませんでした。要介護三のままでした」
「なぜ通らなかったと思いますか」
「認定調査の日、義母が落ち着いていたので。普段の様子が伝わらなかったのかもしれません。調査員の方に一生懸命説明したのですが、その日の状態を見ての判断なので、と言われました」
「その後、不正請求を始めましたね」
「はい。同じ年の秋からです」
「なぜですか」
村田が少し間を置いた。
「お金が、なかったので」
「あなたはケアマネージャーの資格を持ち、介護保険制度に精通していましたね」検察官が立った。
「はい」
「違法であることを知っていましたか」
「知っていました」
「それでもやった理由は」
「義母が、死なないようにするためです」
法廷がしんとした。
「正規の手段を、他に探すことはできなかったですか」
「あの頃は、考えられませんでした」
「生活保護の申請は」
「していません」
「なぜ」
村田がわずかに止まった。
「夫に知られるのが、怖かったので」
「夫の母上の介護費用が足りないという事実を、夫に伝えることができなかった、ということですか」
「……はい」
「ケアマネージャーとして、介護に関わる公的支援制度の知識はありましたか」
「ありました」
「なぜ使わなかったのですか」
「……わかりません」
「裁判官から補充質問があります」
烏丸の声が、静かに法廷に落ちた。
「村田さん。三年間、一度でも、誰かに助けを求めたことはありましたか」
沈黙が来た。
長い沈黙だった。
遥はペンを持ったまま、動けなかった。
「一度、ケースワーカーの方に相談しました。区分変更の申請が通らなかったあとで」
「どんな返答でしたか」
「現状の区分でできることをやっていきましょう、と言われました」
「それ以外には」
「……ありませんでした」
「ご主人には」
「言えませんでした。あれは夫のお母さんです。私が弱音を言う立場ではないと、思っていたので」
「ご自身の親御さんや、ご友人には」
「仕事を辞めていたので、友人と会う機会が減って。それに、言っても何も変わらないと思っていたので」
「何も変わらないと思っていた、とおっしゃいました」
「はい」
「声を出しても、届かないと思っていたんですね」
村田が止まった。
ゆっくりと、目を伏せた。
「……そう、だったかもしれません」
「わかりました」
烏丸が静かに言った。
「ありがとうございます」
廊下に出た。
三人とも、しばらく何も言わなかった。
「介護って」
羽田がゆっくり言った。
「こんなに一人でやるものなんですか」
「本来は、一人でやるものではないと思います」遥が言った。
「でも、気づいたら一人になっていることがある。助けを求める声が届かないことが重なって、やがて声を出すのをやめる」
「コウモリみたいですね」
「ええ」
「俺、田所さんのとき、父親のことを考えましたけど」
羽田が廊下の窓を見た。
「今日は、母親のことを考えました。うちの母も、父のことをずっと一人でやってきた部分があって。父が定年になって少し楽になったかもしれないけど、その前の何十年か、ちゃんと聞いたことがなかったな、と」
「聞いてみてください、帰ったときに」
「はい」
羽田が少し笑った。
「先輩に言われると、すぐ動けます」
夕方、遥が記録を閉じると、烏丸が言った。
「声を出しても届かないと思っていた、という言葉が残っています」
「私もです」
「声が届かないという経験が重なると、人は声を出すのをやめます。それは正しい反応です。ただ、やめた瞬間から、暗闇の中の地図が消えていく」
「コウモリが超音波を止めたとき、みたいに」
「そうです。村田さんは、声をやめてから三年間、どうやって飛んでいたのか」
「記憶と経験だけで、ですかね。ケアマネージャーとしての知識と、十年以上の経験だけで」
「それは、どれほど消耗することか」
烏丸が窓の外を見た。
「声を出さずに飛ぶ生き物は、コウモリにはいません。体の作りが、声に依存しているから」
「人も、声に依存しているのかもしれませんね。届く届かないに関わらず、出し続けることで、飛べる」
「そうかもしれません」
遥はお茶を飲みながら、烏丸の言葉を手帳に書いた。
「先生は、判決で何を言うか、もう考えていますか」
「少しだけ、あります」
「教えてくれますか」
「まだ言いません。でも」
烏丸が振り返った。
「あなたが今日言ったことと、近いです」
遥はその言葉を、しばらく持った。
今日の法廷で、最も静かで、最も重かったのは、あの沈黙だったと思う。
村田が助けを求めなかった三年間が、あの沈黙の中にあった。
コウモリが超音波を止めた、あの暗闇が。




