第三十一話「暗闇を飛ぶ声(後編)」 ケース8:コウモリが出す音と、届かなかった声
判決の朝、空が白かった。
春の光は夏より柔らかく、冬より長い。
窓から差し込む光が、執務室の床を斜めに渡っていた。
遥は今日の弁当を置きながら、その光の線を少し見た。
「今日のお弁当は、フキつぼみの天ぷらです。春の最初の香りです」
「ありがとうございます。フキのつぼみはフキの花芽で、独特の苦みはフキノリドという成分に由来します。この苦みが春の体に作用することで」
「三分の二食べてから、という約束です」
「……今日は判決の朝ですが」
「それはいつも言います」
「……わかりました」
烏丸が静かに食べ始めた。
遥はお茶を飲みながら、今日の記録用紙を確認した。
村田恭子の最終陳述と、判決と、説諭が今日ある。
論告と弁論は先週、終わっていた。
検察官は「専門的知識を用いた組織的・継続的な詐欺行為であり、三年間にわたる不正請求の規模と期間を考慮して、懲役一年六月を求刑する」と述べた。
安田弁護士は「被告人の動機は義母の生命と生活を守るためであり、得た金銭は全て介護費用に充てられている。十三年に及ぶ介護の実態と、社会的支援の不足という背景事情を情状として最大限考慮し、執行猶予を求める」と述べた。
そして今日、被告人の最終陳述があった。
「義母の介護を続けることしか、考えられませんでした」
村田の声は、これまでと同じだった。
小さく、でもはっきりしていた。
「間違ったことをしたと思っています。でも」
少しの間、止まった。
「後悔は、していません。義母が今日も生きていること、それが今の私にとって正しいことです」
法廷が静かになった。
遥は記録を取りながら、この人の言葉の重さを、しばらく体の中で持った。
「弁論を終結します。判決は来週水曜、午前十時に言い渡します」
一週間後、三月の後半。
外では桜の芽が少しずつ膨らんでいた。
まだ開いていないが、もう少しで開く、その直前の静けさがあった。
午前十時、第三法廷。
「起立」
烏丸が入廷した。
傍聴席に、今日は一人だけいた。
五十代くらいの男性で、遥には見覚えがなかった。
背筋が真っ直ぐで、静かに座っていた。
「着席。令和七年第三十一号、詐欺被告事件の判決を言い渡す」
「主文。被告人を懲役一年六月に処する。この裁判確定の日から三年間、その刑の執行を猶予する」
村田の肩が、わずかに落ちた。
安堵なのか、悲しみなのか、その中間なのか、遥には判断できなかった。
「理由を告げる。被告人が三年間にわたり介護保険制度を利用した詐欺行為を行い、二百七十八万円の財産上の損害を与えた事実は証拠の結果によって明らかである。被告人はケアマネージャーとしての専門的知識を有しており、行為の違法性を十分に認識していた。継続的・反復的な不正行為であり、その刑事責任は軽視できない」
烏丸が一枚、書類をめくった。
「しかしながら量刑にあたって次の事情を考慮する。被告人の動機は義母への介護を継続するためであり、詐取した金銭は全て介護費用に充てられており私的な利得はなかった。被告人は本件を全て認め、深く反省している。前科前歴がなく、長期にわたる介護の実態と社会的支援の不足という状況が、本件の背景にあったことは否定できない。以上を総合考慮し、刑の執行を猶予することが相当と判断した」
烏丸が書類を閉じた。
「村田さん、少し待ってください」
「コウモリは、目がほとんど見えません。でも暗闇の中を飛べます。どうやっているかというと、声を出すことで飛ぶ。超音波を出して、その反響で空間を認識する。声を出し続ける限り、暗闇の中でも地図が作られる。止まれば、壁が見えなくなる」
村田が静かに聞いていた。
「あなたは三年前、声を出すことをやめました。ケースワーカーに話しかけて、届かなかった。それが最後でした。その後は、自分の経験と記憶だけで、暗闇を飛んだ。それがどれほどのことか、私には想像しかできません」
遥はペンを持ちながら、記録を取り続けた。
手が、いつもより少し重かった。
「でも、聞いてください」
「あなたの声が届かなかった、というのは、本当でしょうか」
烏丸が少し間を置いた。
「十三年間、あなたは一人の人に声をかけ続けました。夜中に起きて、名前を呼んで、ここにいますよと言い続けた。認知症が進むにつれて、義母さんはあなたのことがわからなくなった。それでも、あなたはそこにいた。声を出し続けた。その声が届いていたかどうかは、言葉の形では証明できません。でも、義母さんは今日も生きています。それは、届き続けた声の重さです」
村田の目が、揺れた。
「あなたの声は届いていた。ただ、向きが一方向だっただけです。あなたから義母さんへ。それだけでした」
村田が手を、かすかに口元に当てた。
「これから三年間の猶予があります。その間に、一度でいいので、声の向きを変えてみてください。ご主人でも、友人でも、初めて会う支援者でも。助けてほしいと言う必要はありません。ただ、しんどかったと話すだけでいい。コウモリが声を出し続けることで暗闇を飛ぶように、人も声を出し続けることで、一人では見えなかった空間が見えてくることがあります」
法廷が、静かだった。
「あなたは、ずっとそこにいました。義母さんのそばに。それは間違っていない。でも、あなた自身がどこにいるかを、誰かに伝えてください。あなたの声が届く人が、あなたの隣にまだいます」
村田の目から、涙がひとすじ、流れた。
拭こうとして、止まった。
そのまま、ただ、そこに座っていた。
廊下に出た。
羽田が何も言わなかった。
遥も言えなかった。
しばらく三人で、廊下の窓の光の中に立っていた。
そのとき、遥は気づいた。
廊下の向こうに、傍聴席にいた男性が立っていた。
年齢は五十代前半だろうか。
白いシャツにグレーのジャケット。
整った、でも温かみのない印象だった。
廊下の端に立ち、こちらを見ていた。
遥と目が合った。
男性は口元だけで微かに笑い、そのまま廊下を歩いていった。
烏丸が出てきた。
男性の背中を、一瞬だけ見た。
何も言わなかった。
「先生、あの方は」と遥が聞いた。
「知っています」
「どういう方ですか」
「会えばわかります、と先月も言いました」
烏丸は廊下を歩き始めた。
遥は男性の消えた方向を一度だけ見て、後に続いた。
夕方、大河内裁判長が執務室の前で遥を呼び止めた。
「少し、よろしいですか」
「はい」
「今日の判決、傍聴していました」
「ご存じでしたか、村田さんの件を」
「少しね。それよりも」大
河内が廊下の窓を見た。
「今日、岩倉くんが来ていたでしょう」
「あの方が、岩倉視察官ですか」
「そうです」
大河内が穏やかに言った。
「来月から、少し忙しくなるかもしれません。烏丸くんも、あなたも。心づもりをしておいてください」
「どういうことが起きますか」
大河内が少し間を置いた。
「ちゃんと見ていてあげてください、烏丸くんを。あの人は、自分のことを後回しにする癖があるので」
それだけ言って、大河内は廊下を歩いていった。
遥はその背中を見ながら、大河内の言葉を持った。
(ちゃんと見ていてあげてください)
心づもり、とはどういう意味か。
まだわからなかった。
でも、大河内が遥に言いに来た、という事実が、何かを告げていた。
執務室に戻ると、烏丸が窓の外を見ていた。
外には桜の芽が、もうすぐ開く直前の色をしていた。
「先生」
「はい」
「今日の説諭、届きましたか」
「村田さんに、ですか」
「ええ」
「届いた、と思います」
烏丸が振り返った。
「届かない、と思って出した声が、実は届いていることがある。今日そのことを、村田さんが気づいてくれたなら」
遥はそれを聞いて、窓の外の桜の芽を見た。
「来週には、咲きますかね」
「来週の初めには」
烏丸が言った。
「今年も、咲きます」




