第三十二話「暗闇を飛ぶ声(終章)」 ケース8:コウモリが出す音と、届かなかった声
四月になった。
裁判所の庭の桜が咲いた。
一晩で一気に開いた、というほどではなかった。
毎朝、少しずつ花が増えて、ある朝気づいたら満開になっていた。
梅は咲いてから散るまでが静かだったが、桜は散るときも音がしそうな勢いで散った。
今日の弁当は、桜の塩漬けを乗せたご飯にした。
「桜ご飯です」と遥が言った。
「ありがとうございます。桜の塩漬けはサクラの花びらをシオで」
「三分の二食べてから、という約束です」
「……今日は桜が咲いているので、特例を」
「桜が咲いていることと食事のルールは、関係がありません」
「……関係がある場合もあると思いますが」
「どんな場合ですか」
烏丸が少し考えた。
「……ないかもしれません」
「はい。どうぞ召し上がってください」
烏丸が静かに食べ始めた。
遥は窓の外の桜を見た。
春は毎年来るのに、毎年少し驚く。
それで良いと思う。
午前中に、安田弁護士から短い報告が届いた。
村田恭子は判決の翌週、夫にこの三年間のことを全部話したという。
夫は長い間、何も言わずに聞いた。
最後に「遅くなってごめん」と言ったとだけ、安田弁護士は書いた。
それから二人で、地域の介護相談センターに一緒に行った。
義母は現在、週三回のデイサービスを利用することになった。
村田の睡眠時間が、少し改善されているようだと聞いている。
「夫が『遅くなってごめん』と言ったんですね」
遥が烏丸に報告書を渡しながら言った。
「ええ」
「夫が謝ったんですね。村田さんではなくて」
「そうです」
「先生が言った通りになりましたね。声の向きが、変わった」
「村田さんが話したからです」
烏丸がゆっくり言った。
「話してくれたから、夫に届いた。コウモリが声を出したから、空間が見えた」
遥はその言葉を聞いて、報告書の中の「遅くなってごめん」という一行を、もう一度読んだ。
長かったんだろう、その「遅くなった」時間が。
でも届いた。
それで充分なのかもしれない。
昼過ぎ、遥が廊下を歩いていると、大河内裁判長に声をかけられた。
「ちょうど良かった。少し歩きませんか」
大河内と並んで廊下を歩いた。
桜が見える渡り廊下を通った。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
「先日の村田さんの件、傍聴しました」
大河内が口を開いた。
「ありがとうございます」
「いい判決でしたよ。烏丸くんらしかった」
「先生はいつもああいう判決を」
「ああいう説諭を、ということね」
大河内が笑った。
「そう、毎回ああいうことをする」
遥は少し間を置いてから、聞いた。
「先生は、なぜあんなに説諭に力を入れるんでしょうか。毎回、法廷が終わった後に、あれほどの言葉を。判決文だけで充分な場合も多いと思うのに」
大河内が歩きながら、しばらく前を見ていた。
「あの人ね、昔から同じだよ」
「昔から?」
「どこ行っても一人で鳥を見てる。判事になる前も、なってからも。法廷の中でも、外でも。あなたも気づいているでしょう」
「気づいています」
「鳥を見るみたいに、人を見てる。それだけのことだよ。見えるから見てる。聞こえるから聞いてる。説諭は、そこから出てくる」
「ただ、見えるから」
遥が繰り返した。
「それだけですか」
「人を見るのに、理由がいるかね」
大河内が桜の木を見ながら言った。
「ただ見えてしまう人間が、ただ聞こえてしまう人間が、裁判官という仕事を選ぶと、ああなる。それだけのことだと、私は思っているよ」
遥はその言葉を、しばらく持った。
「大河内先生は、烏丸先生のことを長く知っているんですね」
「十五年ほどかな。若いころから変わらない。どこ行っても一人で鳥を見てる、というのは、比喩だけではなくて、本当に一人で見てるんだよ、あの人は。ずっと」
「ずっと、一人で」
「そうです」
大河内が立ち止まった。
「だから、あなたがそこにいることが」
そこで止まった。
「いることが、なんですか」
「良いことだと思います、私は」
大河内がまた歩き始めた。
「岩倉くんのことも、頭に置いておいてください。来月あたりから、動きが出るかもしれないので」
「動き、とは」
「見ていればわかります」
大河内が廊下の角を曲がりかけて、振り返った。
「烏丸くんが一人で立っているように見えても、隣にいる人のことを、彼は気づいていますから。あなたが思うより、ちゃんと」
それだけ言って、大河内は曲がり角の向こうへ消えた。
遥は廊下に一人残った。
渡り廊下の窓から、桜の花びらが一枚、外を横切った。
午後、執務室に戻ると、烏丸が書類を読んでいた。
「大河内先生とお話ししていました」と遥が言った。
「そうですか」
「烏丸先生のことを、少し話してもらいました」
「どんなことを」
「鳥を見るみたいに、人を見てる、と言っていました」
烏丸が少し止まった。
「大河内さんはそういうことを言いますね、昔から」
「先生は、どう思いますか。その言葉」
「否定はしません」
烏丸が書類に戻った。
「ただ見えてしまうので、見ている。それだけです」
「それだけ、なんですね」
「ええ。あなたが見えるから、見ています」
遥は少しの間、その言葉の着地点を探した。
「……それは、私が見える、ということですか」
「そうです」
烏丸が静かに言った。
「あなたはよく見えます。だから、見ています」
遥は窓の外を見た。
桜が、午後の光の中で揺れていた。
その向こうに、空が青かった。
帰り際、桜の木の下を通った。
「七月が近づいてきましたね」と遥が言った。
「ええ。三ヶ月と少しです」
「ヒメボタルは、今年も同じ林にいますか」
「います。あの種類は同じ場所に年々現れます。環境が変わらない限り」
「良かった」
「何が」
「来年も、という約束をしていたので。去年と同じ場所にいるなら、会えますね」
烏丸が少し歩みを止めた。
「来年も、という約束を、覚えていましたか」
「覚えています。全部覚えています」
遥は烏丸を見た。
烏丸は少し、困ったような顔をした。
耳が赤かった。
「……七月が来たら、また行きましょう」
「はい」
二人で桜の下を歩いた。
花びらが一枚、遥の肩に落ちた。
烏丸が気づいて、何も言わずに取った。
遥は止まらずに歩き続けた。
でも、肩のあたりが少しだけ、温かかった。
翌週、新しいファイルが届いた。
令和七年第九十四号。
偽証。
被告人の名前は柳川 朋美。
三十五歳。
会社員。
表紙の備考欄に、担当検察官の走り書きがあった。
「被告人は、空に上がる声で嘘をついた」とだけ、書いてあった。
遥はその一行を読んで、烏丸を見た。
烏丸はすでに読んでいた。
窓の外を見て、何かを考えていた。




