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第三十三話「空に上がる声(前編)」 ケース9:ヒバリの嘘と、地上の愛情

 桜が散り始めていた。


 満開のうちに雨が来て、花びらが一気に落ちた。

 地面に薄く積もった花びらが、翌朝の光の中で白くなっていた。

 それを踏まないように歩くのが、なんとなく毎年の習慣だった。


 遥は出勤しながら、今朝の電話のことを考えていた。

 兄から、昨夜電話があった。

 書店員の研修に入ったという。

 本の整理と接客を少しずつ学んでいる。

「本の並び方に法則があって、それが面白い」と言っていた。

 声が明るかった。

 電話の最初の一言から、そう感じた。


 執務室に入ると、烏丸がいつも通りデスクにいた。

 今日も、メモ帳が開いていた。


「おはようございます」

「おはようございます。今日のファイルは、珍しい罪名です」

「ファイルよりお弁当を先に」と遥が弁当を置きながら言った。

「たけのこです。春の筍は」

「三分の二食べてから、という約束です」

「……筍の話が途中ですが」

「食べながらでも話せます。先生がいつも言っていることです」

「……そうですね」

 烏丸がゆっくり食べ始めた。

 遥はお茶を注ぎながら言った。


「兄から電話がありました。書店員の研修に入ったそうです」

「それは、良かったです」

「声が明るくて。春のせいかもしれないと思いました」

「人の春も、季節の春と同じで、いつ来るかは決まっていません」

 烏丸が少し間を置いた。

「でも、来ます。必ず」

「先生は、それを信じていますか」

「信じています。根拠はありませんが」

 遥はお茶を飲みながら笑った。


 ファイルを確認した。

 被告人の名前は柳川 朋美。

 三十五歳。

 会社員。

 一般的な事務職だった。

 既婚、子なし。


 罪名は偽証罪。

 刑法第百六十九条。


 事実の概要を読んだ。

 今年の一月、ある民事裁判の証人として宣誓した上で、虚偽の陳述を行った。

 案件は柳川の友人の夫に対するDV被害に関する裁判だった。

 柳川は「令和六年九月二十日、友人宅において、友人の夫が友人に対し暴力を振るう場面を直接目撃した」と証言した。

 しかし、その日柳川は友人宅にいなかった。

 証言は全て作り話だった。


「友人を守るために、ですか」と遥が言った。

「そう読めます」

「友人は本当にDVを受けていたんですか」

「調書によれば、その事実自体は認められています。ただし証拠が不足していた」

「証拠がないから、柳川さんが証拠になろうとした」

「そうなります」

 烏丸がメモ帳を開いた。

「ヒバリという鳥を知っていますか」


 遥は窓の外を見た。

 庭に、小さな茶色の鳥がいた。

「あれですか」

「そうです。スズメより少し大きいですが、地味な見た目です。でもあの鳥は春になると、地上から垂直に上昇しながら鳴く。七十メートル、高い時は百メートルほど上がって、その場でホバリングしながら複雑な声で歌い続ける」

「空に上がりながら歌うんですね」

「しかし巣は地上にあります。地面の草の中に、隠すように作る。空に上がる鳥が、地面に生きている」

 遥はその言葉を少し持った。


「空に上がる声で嘘をついた、と検察官が書いていましたね、表紙に」

「ええ」

 烏丸がファイルを閉じた。

「法廷は空に近い場所です。宣誓して、真実を語ることを誓った場所で、嘘をついた。でも、嘘をついた理由は地上にあった」


 午前十時、第三法廷。

「起立」


 烏丸が入廷した。

 被告人席の柳川朋美を見て、遥は少し驚いた。

 普通の人だった。

 これまでの被告人たちは、何らかの形で「特別な人」に見えた。

 しぼんでいた人、確信に満ちた人、疲れ果てた人。

 でも柳川は、電車の中で隣に座っていてもわからないような、普通の三十代の女性だった。

 ただ、目が、曇っていなかった。

 何かを決めた人の目だった、と遥は思った。

 決めた上で今日ここに来ている、そういう目だった。


「着席。令和七年第九十四号、偽証被告事件、第一回公判を開廷します」

「人定質問を行います。お名前をお聞かせください」

「柳川 朋美です」

「生年月日は」

「昭和六十四年、三月十九日です」


 住所の確認が終わり、検察官が起訴状を読み上げた。

 偽証の経緯が、淡々と語られた。

 法廷に来た日付、宣誓の事実、虚偽陳述の内容。

 聞けば聞くほど、その証言がどれだけ丁寧に作られていたかがわかった。


「被告人にお聞きします。ただいまの内容について、間違いや付け加えたいことはありますか」

「事実は、認めます」

 静かな声だった。


「弁護人から確認します」

 今回の弁護人は、三十代の男性弁護士、椎名弁護士だった。

「被告人は偽証の事実を認めます。ただし、その動機はDV被害を訴える友人を守るためであり、友人のDV被害そのものは事実に基づいています。量刑においてその背景を情状として訴えたい」

「承知しました。次回、証拠調べと被告人質問を行います」

「起立」


 廊下に出た。

「普通の人でしたね」と羽田が言った。

「そうですね」

「なんか、そういう人が一番、こわいというか」

「こわい、というのは」

「何かをしそう、ということではなくて」

 羽田が歩きながら言った。

「誰でもあああなり得る、という意味で。俺も、親友が困っていて、なんとかしてやりたいと思って、気づいたら一線を越えてた、ということが、なくはないな、と」

「あります、そういうことが」

「先輩もですか」

「経験はないですが、そういう気持ちはわかります」

 遥が廊下の窓を見た。

「好きな人が傷ついているとき、嘘でもなんでも使いたくなることが、きっと誰にでもある」

 羽田がしばらく黙っていた。


「先生はどう思うんでしょうね、ああいうとき」

「わかりません。でも、今日の公判を見ていた顔は、いつもと同じでした」

「判断する前に、まず聞く、という顔ですよね」

「そうです」


 夕方、遥が書類を整理していると、羽田が廊下から顔を出した。

「そういえば、岩倉さんがいくつか話を聞きに来ていたんですよ、今週」

「岩倉視察官が」

「法廷の記録の管理方法とか、書記官の業務量とか、説諭に関する記録の有無とか」

「説諭に関する記録の有無、ですか」

「そうなんですよ。なんで記録を取るのか、とか。義務があるのか、とも聞かれて」

 遥はペンを止めた。


「義務があるのか、という聞き方をした」

「はい。でも、義務はありませんよね、説諭って」

「ありません。裁判官の裁量行為です」

「そうですよね。ちょっと変な聞き方だなと思って」

 羽田が首を傾けた。

「それだけです。お疲れ様でした」

 羽田が出ていった。

 執務室が静かになった。


「先生、聞こえていましたか」と遥が言った。

「聞こえていました」

「どう思いますか」

 烏丸がしばらく窓の外を見た。

 庭のヒバリは、もうどこかへ行っていた。

「岩倉さんは、物事を記録と義務から考えます。説諭が義務でないなら、不要だと考える」

「そういう考え方をする方なんですか」

「そういう方です」

 烏丸が書類に戻った。

「でも、今は今回の案件を考えます。岩倉さんのことは、またそのうちに」


 遥はその「またそのうちに」を、胸の中にしまった。

「そのうち」が来るまでの時間が、もうそんなに長くないかもしれない、という予感と一緒に。

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