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第三十四話「空に上がる声(中編)」 ケース9:ヒバリの嘘と、地上の愛情

 第二回公判の朝、あさりの炊き込みごはんを作った。


 春のあさりは身が太い。

 出汁が出るから、調味料は少なくていい。

 蓋を開けると磯の香りがして、春の台所になった。


「あさりごはんです」と遥が言った。

「ありがとうございます。あさりはマルスダレガイ科の二枚貝で、春から初夏にかけて産卵前の時期が旨みの最も強い季節です。タウリンの含有量が」

「三分の二食べてから、という約束です」

「……条件を一点だけ確認させてください。あさりごはんは混ぜごはんなので、三分の二という区切りが」

「全体量の三分の二です」

「……了解しました」

 烏丸が静かに食べ始めた。

 遥は今日の記録用紙を確認した。

 今日の公判で柳川朋美が何を話すか、おそらく烏丸はもう見えている。

 でも遥には、まだ見えていなかった。


 証拠調べは、二種類の記録を中心に進んだ。


 一つ目は、元の裁判(友人のDV案件)における柳川の証人尋問の記録だった。

 宣誓し、「令和六年九月二十日、友人宅において、友人の夫が友人に対して暴力を振るう場面を直接目撃した」と述べている。

 詳細まで述べられた証言だった。

 時刻、場所の様子、友人の状態。

 遥は記録を聞きながら、その証言がいかに具体的かを感じた。

 本当に見たかのように語られていた。


 二つ目は、柳川がその日実際にいた場所を示す記録だった。

 交通系ICカードの利用履歴と、駅の防犯カメラの映像から、柳川は九月二十日、友人宅から十五キロ離れた別の区の駅にいたことが確認された。

 偽証の発覚は、友人の夫側の弁護人による調査からだった。


「弁護人の意見は」

「採用に異議ありません。事実は認めています」

「採用します。では被告人質問に移ります」


「柳川さん、友人とはどのくらいの付き合いですか」と椎名弁護士が聞いた。

「大学時代からです。十五年になります」

「友人のDV被害について、知っていましたか」

「知っていました。三年前から聞いていました」

「どんな被害を」

「夫から叩かれたり、物を投げられたり。友人が電話してきて、泣きながら話すことが続いていました。病院に行くほどではないと言っていたので、外から見えにくかったと思います」

「証人として呼ばれたとき、どう思いましたか」

「助けられると思いました」

 柳川がゆっくり言った。

「三年間、何もできなかったから。やっと、何かできると」

「実際には、その日その場所にいなかった」

「いませんでした。でも、友人がずっと訴えてきたことは本当のことです。私は何度も聞いていた。それを言いに来た、という気持ちでいました」

「今は、どう思っていますか」

 柳川が少し間を置いた。


「間違っていた、と思っています」

「なぜ」

「友人を、傷つけてしまったかもしれないので」


「あなたは宣誓の意味を知っていましたか」検察官が立った。

「知っていました」

「偽証罪という罪があることも」

「知っていました」

「知りながら、虚偽の証言をした」

「はい」

「友人から、証言を頼まれましたか」

「証人になってほしい、とは言われました。でも、内容については頼まれていません」

「内容は、あなた自身が作った」

「はい」

「なぜ、見ていないのに見たと言ったのですか」

「見ていないと言ったら、役に立てないと思ったので」

「役に立てない、というのは」

「私が見た、と言わなければ、証言に意味がないと思いました。友人のことを信じてほしかったので」

「友人を信じてもらいたいと思って、あなた自身は嘘をついた」

 柳川が少し止まった。

「……そうなります」


「裁判官から補充質問があります」

 烏丸が静かに口を開いた。

「柳川さん、あなたの証言が虚偽だと判明した後、友人とどんな話をしましたか」

「怒っていました。友人が」

「なぜ怒っていたと思いますか」

「わかりませんでした。最初は」

 柳川がゆっくり言った。

「でも、後から気づきました」

「何に気づきましたか」

「私が嘘をついたことで、友人がついた嘘みたいになってしまったかもしれない。友人は本当のことを言っていたのに、私が嘘をついた証人になったことで、友人の訴え全体が信用されにくくなった、と」

「そのことに、証言のときは気づいていましたか」

「……気づいていませんでした」

「今は」

「わかっています。友人の弁護人から説明を受けました。私の偽証が発覚したことで、友人の証言全体の信頼性が、裁判所の中で揺らいだと」

「友人を守ろうとした行為が、友人を傷つけることになった」

「はい」

 柳川の目が、わずかに揺れた。


「守れませんでした。助けようとして、邪魔をしてしまいました」

「わかりました」

 烏丸が静かに言った。

「ありがとうございます」


 廊下に出た。

 三人とも少し重かった。

 羽田が最初に口を開いた。


「友人を守ろうとした行為が、友人を傷つけた、か」

「そうですね」

「それって、知らなかったとはいえ」

 羽田が壁に背をもたせた。

「一番つらいパターンだと思います。悪意でやったわけじゃないのに、結果が最悪で」

「ヒバリが地面に巣を作るのに、空で鳴く、ということを先生が言っていました」

 遥が廊下の窓を見た。

「柳川さんは、空で鳴いた。でも地面の巣を、壊してしまった可能性がある」

 羽田がそれを聞いてうなずいた。


「今日の会議のことですが」と羽田が言った。

「何かありましたか」

「岩倉視察官が出席して、一つ発言をしていました。説諭の記録と内容の標準化について検討する必要がある、という内容で。大河内さんが、それは別の機会に、と止めていましたけど」

「標準化」遥が繰り返した。

「裁判官によってばらばらなのが問題だ、という考え方らしくて。烏丸先生の説諭のことを、直接は言わなかったですけど、全員がわかっていたと思います」

「そうですか」

「何か、空気が変わったんですよね、あの発言から。大河内さんが止めてくれたので、その場はそれで終わりましたけど。岩倉さん、静かに引きましたが、引いた感じじゃなかったです」


 夕方、遥は書類を整理しながら、烏丸を見ていた。

 烏丸は窓の外を見ていた。

 ヒバリの話でも、柳川の話でも、岩倉の話でもなく、ただ外を見ていた。

 いつもと違う、と思った。

 何が違うのかはっきりとは言えなかった。

 表情は同じ。

 声も同じ。

 動作も同じ。

 でも何かが、ほんの少し固かった。

 こわばっている、とまでは言えないが、いつもの烏丸の「ただそこにいる」という感じが、今日は少し少なかった。


「先生」と遥が言った。

「はい」

「何かを考えていますか」

「柳川さんのことを」

「岩倉視察官のことは」

 烏丸が少し止まった。


「……そちらも、少し」

「今日の会議の発言、羽田さんから聞きました」

「そうですか」

「先生の説諭が、対象になっているんですよね」

 烏丸がようやく遥を見た。


「あなたに、心配をかけるつもりはありません」

「心配はしていません」

「そうですか」

「先生がどうするかを、見ていたいと思っています」

 烏丸が少しの間、遥を見た。

 それから窓の外に目を戻した。


「ヒバリは、どれだけ高く上がっても、最後は地面に戻ります」

「ええ」

「私も、そうします」

 遥はその言葉を手帳には書かなかった。

 でも、胸のどこかに、丁寧に置いた。

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