第三十五話「空に上がる声(後編)」 ケース9:ヒバリの嘘と、地上の愛情
判決の朝、スマートフォンに兄からメッセージが届いていた。
「試用期間が終わった。来月から正式採用になった」とだけ書いてあった。
そのあとに、本の絵文字がついていた。
遥は出勤しながら、そのメッセージを二度読んだ。
短い文章だった。
でも、その短さが好きだった。
長々と説明しなくていい状態になった、ということだから。
執務室に入って弁当を置いたとき、烏丸が「今日、何かありましたか」と聞いた。
「なぜわかるんですか」
「顔が、少し違います」
「兄から、正式採用が決まったとメッセージが来ました」
「それは」
烏丸が少し止まった。
「良かったです」
「ええ。本の絵文字がついていました」
「それは」
烏丸がまた止まった。
「……本人が選んだということですね」
「そうです。先生らしい喜び方ですね」
「本と一緒に生きていくということを、絵文字で表したんだと思います」
遥は笑いながら、弁当箱を開けた。
今日は鶏のから揚げにした。
判決の日は、少しだけ力が出るものを入れる気がして。
「から揚げです。三分の二食べてから」
「……今日は、黙って食べます」
「先生がそう言う日は、難しい判決の日、という印象があります」
「……そうかもしれません」
論告と弁論は先週、終わっていた。
検察官は「宣誓した証人が意図的に虚偽の陳述を行った事実は重く、裁判制度の根幹を揺るがす行為として相応の刑事責任を問うべきである。懲役一年を求刑する」と述べた。
椎名弁護士は「被告人の動機はDV被害を受ける友人を守るためであり、私利私欲はなかった。友人のDV被害そのものは事実であり、被告人は三年間にわたりその証人であり続けた。行為の違法性は認めるが、情状を最大限考慮し執行猶予を求める」と述べた。
今日、被告人の最終陳述があった。
「友人を守りたかった。その気持ちは、今でも変わりません」
柳川の声は静かだった。
法廷でいつもと同じ、曇りのない目をしていた。
「でも、やり方が間違っていました。私の嘘が友人の裁判を難しくした。そのことが、今も一番つらいです」
少しの間があった。
「友人に、謝りたいです。会えるかどうか、わかりませんが」
「弁論を終結します。判決は来週の木曜、午前十時に言い渡します」
一週間後、四月の終わり。
庭のヒバリが今日も鳴いていた。
朝から空の高いところに上がって、ぴーちくぱーちくと複雑な声を出し続けていた。
遥はそれを聞きながら、今日の弁当を食べ終えた。
午前十時、第三法廷。
「起立」
烏丸が入廷した。
傍聴席は今日も少なかった。
柳川の弁護人と、一人だけ来た見知らぬ女性がいた。
友人かもしれなかった。
「着席。令和七年第九十四号、偽証被告事件の判決を言い渡す」
「主文。被告人を懲役六月に処する。この裁判確定の日から三年間、その刑の執行を猶予する」
柳川が目を閉じた。
それだけだった。
「理由を告げる。被告人が宣誓した証人として虚偽の陳述を行った事実は証拠の結果によって明らかである。偽証罪は司法の事実認定の過程を直接歪める行為であり、被告人は行為の違法性を十分に認識していた。その刑事責任は軽くない」
「しかしながら量刑にあたって次の事情を考慮する。被告人の動機はDV被害に苦しむ友人を守ることにあり、私的な利益を目的としていない。詐取した利益はなく、友人のDV被害は事実として認定された。被告人は本件を全て認め、行為の結果として友人の裁判に悪影響を与えた可能性についても深く理解し、反省している。前科前歴がなく、この法廷において一貫して誠実であった。以上を総合考慮し、刑の執行を猶予することが相当と判断した」
烏丸が書類を閉じた。
「柳川さん、少し待ってください」
「ヒバリという鳥を、知っていますか」
柳川が顔を上げた。
「ヒバリは春になると、地面から垂直に上昇しながら鳴きます。何十メートル、時に百メートルほど上がって、その場で羽ばたきながら声を出し続ける。その声は、一キロ先まで届くと言われています。遠く、高く、まっすぐ届く声です」
「あなたが法廷で証言した声も、ある意味では、そういうものでした。届けようとした。届けたかったものは、本物でした」
柳川が静かに聞いていた。
「でも、一つだけ違うことがあります」
「ヒバリが鳴く声は、ヒバリ自身の声です。ヒバリ自身が見てきたもの、経験してきたことから出る声です。あなたが証言した内容は、あなた自身の経験ではなかった。他の誰かの場所に立って、鳴いた」
「あなたが友人に届けるべき声は、何だったと思いますか」
法廷が静かになった。
「おそらく、『私はあなたの言葉を信じている』という声だったのだと思います。三年間、あなたは友人の話を聞き続けた。電話で泣きながら語る声を、聞き続けた。その三年間は、あなた自身の経験です。あなたが見ていないことを見たと言う必要はなかった。『私はあなたから三年間、何度も聞いた。あなたの声を信じている』と、そのまま証言することができた」
遥はペンを持ったまま、手が止まった。
「法廷は、高い場所です。高い場所では、本当のことが最も遠くまで届きます。嘘は高いところでは、すぐに見える。ヒバリが空高く上がるとき、嘘の声では上がれない。空気が薄すぎて、すぐに落ちる」
「三年間の猶予があります。その間に、友人に会いに行ってください。謝罪のためではなく、あなた自身の声で話しに行くために。嘘のない声で。それが、あなたにできる、最も遠くまで届く声です」
「ヒバリは、どれだけ高く上がっても、最後は地面の巣に戻ります。その巣に、あなたの友人がいます。戻ってください。自分の声で」
柳川の目が、かすかに動いた。
これまでずっと「何かを決めた目」をしていた。
その目が、少しだけ解けた。
でも崩れなかった。
解けた上で、前を向いていた。
傍聴席の女性が、静かに目を閉じた。
廊下に出ると、羽田が壁に背中をつけた。
「今日の説諭、一番好きかもしれません」
「どのあたりが」
「あなた自身の声で証言することができた、というところです。柳川さんは嘘をつかなければ役に立てないと思っていた。でも先生は、本当のことを言うだけでよかったと言った。それが、ああいう人に一番必要な言葉だったと思って」
遥はうなずいた。
「嘘をつかなければ助けられない、というのは、思い込みだったんですね」
「そうです。三年間聞き続けた、という事実が、すでに証言だったと」
「烏丸先生は毎回、その人が見えていないものを、一番自然な言葉で見えるようにしますよね」
「ええ」遥が廊下の窓を見た。「それが、説諭の中身だと思います」
夕方、遥が帰り支度をしていると、烏丸が言った。
「今日の兄上のメッセージ、朝教えてくれましたね」
「ええ」
「本の絵文字が、良かったです」
「先生も、本が好きですか」
「あまり読みません。でも、誰かが本を選ぶ、ということが好きです。本と一緒に生きるということを選んだ人が、その近くにいるということが」
遥はコートを手に取りながら、烏丸を見た。
「今日の判決、難しかったですか」
「どの判決も、難しいです」
「いつもより、少し重そうでした」
「そうですか」
烏丸が立ち上がった。
「岩倉さんのことが、少し、頭にありました」
「来月から、動きが出ると大河内先生がおっしゃっていました」
「ええ」
「先生は、どうするつもりですか」
烏丸が少しの間、考えた。
「今まで通りにします」
「それだけですか」
「それだけです」
烏丸がコートを着た。
「ヒバリは嵐が来ても、同じ場所から飛び上がります。春の間は、同じ声で鳴き続けます」
二人で廊下を出た。
庭のヒバリは、もう地面に降りていた。
草の間のどこかに、巣があるはずだった。
今日もそこに帰っていく。




