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第三十六話「空に上がる声(終章)」 ケース9:ヒバリの嘘と、地上の愛情

 五月になった。


 裁判所の庭の木が、一斉に濃い緑になった。

 桜が散ってしばらくは淡い若葉色だったものが、気づけばもう夏の入口の深みを帯びていた。

 光の質が変わった。

 春の斜めの光が、少しずつ垂直に近づいている。

 影が短くなった。

 外にいると、日差しの重さを肌が感じるようになった。


 遥は通勤路を歩きながら、今年の春を数えていた。

 一月から数えれば、ヤマネ、タカ、コウモリ、ヒバリ。

 冬から春にかけて四つのケースが過ぎた。

 そのひとつひとつの法廷で、烏丸は被告人を見て、生き物の話をした。

 遥はそれを記録した。

 記録するたびに、言葉が胸に残った。

 残ったものが積み重なって、遥の中で何かになっていた。

 それが何なのか、まだうまく言えない。

 でも、去年の春に初めてこの裁判所に来たときとは、確かに違う自分がここにいる。

 電車を降りて、裁判所の方向へ歩く。

 ヒバリの声がどこからか聞こえた。

 高い空の方から。姿は見えなかった。


 執務室に入ると、烏丸がデスクで書類を読んでいた。

 今日はメモ帳が閉じていた。

 今日は新しいケースの最初の日ではない。

 柳川のフォローアップを待ちながら、この時期の烏丸はいつも少し静かだった。


「おはようございます。今日は、新玉ねぎのスープを持ってきました」と遥が言いながら弁当を置いた。

「五月の新玉ねぎは、辛みが少なくて甘いです」

「ありがとうございます。新玉ねぎが甘いのは、乾燥させていない新鮮な状態では細胞壁が柔らかく、辛み成分の硫化アリルが」

「三分の二食べてから、という約束です」

「……今日は少し、聞いてもらえますか。最後まで」

 遥がお茶を注ぎながら、少し止まった。

 烏丸が「聞いてほしい」と言うのは珍しかった。


「……今日だけ、特例で聞きます」

「ありがとうございます。硫化アリルは、加熱または乾燥によって揮発します。つまり新玉ねぎを長期間保存すると辛くなる。甘さは、水分と新鮮さが作っている」

「それはつまり」

 遥がスープを口に運んだ。

「食べるべき旬のものは、そのときに食べるべきだということですか」

「そういう解釈も、できます」

「食材も、話も、そのときに届けないと変わってしまう、ということかもしれませんね」

 烏丸が少し止まった。


「……あなたはいつも、違う場所に着地しますね」

「先生が乗り物を用意してくれるので」

 烏丸が静かに食べ始めた。

 遥はスープの温かさを手の中に感じながら、五月の光の中の執務室を見た。


 午前中に、椎名弁護士から短い報告書が届いた。

 柳川朋美は先週、友人に会ったと書いてあった。

 待ち合わせ場所はコーヒーショップだったという。

 柳川が先に着いて、友人が遅れて来た。

 最初は十分間ほど、二人とも黙っていた。

 柳川が先に口を開いた。

 本当のことを言えなくて、ごめん、と。

 友人が少しの間また黙っていて、それからこう言ったと報告書にあった。

「あなたが私のことを信じてくれていたことは、最初からわかっていた」と。

 遥はその一行を読んで、少し止まった。


 最初からわかっていた。

 言葉ではなく、三年間の電話で、声で、そこにいることで。

 柳川が届けようとしていたものは、ちゃんと届いていた。

 形は間違えたが、届いていた。


 報告書の最後に、椎名弁護士が「二人が来月また会う約束をしたようです」と書き添えていた。

「友人と会えたんですね」と遥が烏丸に渡した。

「ええ」

「先生が言った通りになりましたね。自分の声で会いに行った」

「柳川さんが動いたんです」

「でも、行くことができたのは先生の言葉があったからだと思います。先生はいつもそう言いますが、私はそう思っています」

 烏丸が少し困ったような顔をした。

 耳が赤かった。


「……そうかもしれません、少しは」

 初めて「少しは」と言った。

 遥は笑いながら、その言葉を手帳に小さく書いた。


 昼過ぎ、廊下を歩いていると、岩倉視察官と行き合わせた。

 烏丸と遥が渡り廊下を歩いているところに、向こうから岩倉がやってきた。

 細身で、背筋の真っ直ぐな人だった。

 光の当たり方によっては、温かみのある顔に見えることもある。

 でも今日の廊下の光の中では、その表情に何も読めなかった。


 岩倉が歩みを緩めた。

 烏丸も、わずかに緩めた。

「烏丸判事」

「岩倉さん」

「先日の公判、傍聴させていただきました。偽証の案件でしたね」

「はい」

「ご説諭の内容が、印象的でした」

「そうですか」

「一点、確認させてください。説諭の内容は、判決文に記録されていますか」

「されていません。発言記録として書記官の記録に残りますが、判決文の一部ではありません」

「なるほど。ありがとうございます」


 岩倉が歩き始めた。

 すれ違い際、遥を一度だけ見た。

 礼儀正しく、小さくうなずいた。

 遥もうなずいた。


 岩倉の足音が廊下の奥に消えて、遥はようやく息をついた。

 烏丸の横顔を見た。

 表情は変わっていなかった。

 でも、遥には見えた。

 肩がほんの少し、一ミリか二ミリ、上がっていた。

 力が入っていた。

 一年間、毎日見てきた人の体の変化を、遥は一ミリの単位で知っていた。

 それ以上は言わなかった。

 言わなかったが、見ていた。


 午後、羽田が執務室に来た。

「岩倉さん、廊下で先生に話しかけましたよね」

「ええ」

「いや、なんというか」

 羽田が椅子に腰をかけた。

「俺の感覚が正しければなんですけど、あの会話、説諭の記録がないことを確認した、という感じがしました」

「そういう意図かどうかは、わかりません」

「でも、記録がないならそれを問題にしやすい、という考え方もできますよね。あの場面での『なるほど』が、あまりにも満足そうで」

 遥は何も言わなかった。

 羽田の読みが、おそらく正しいと思っていた。


「先生は、何か言っていましたか、廊下で」

「何も言いませんでした、廊下の後に」

「そうですか」

 羽田が少し間を置いた。

「烏丸先生って、こういうときも動じないんですよね。俺なら絶対に顔に出るのに」

「動じていないのか、動じていても出さないのか、そのどちらかだと思います」

「どちらだと思いますか、先輩は」

 遥は少し考えた。

「動じているけれど、出さない、だと思います。一ミリだけ出ていました」

 羽田が遥を見た。

「一ミリ」

「ええ、一ミリだけ」

 羽田が少し笑った。

「先輩、すごいな」


 夕方、二人になった執務室で、遥がふと言った。

「来月、ヒメボタルの予約を取らないといけませんね」

 烏丸の手が、書類の上で少し止まった。

 止まり方が、読んでいた文章の区切りとは違った。


「七月ですね」と烏丸が言った。

「あの夜のことを、ときどき思い出します」

「どんなことを」

「先生が一人で来ていたこと、と」遥が少し考えた。

「雨が降ってきたこと。それでも待っていたこと。ヒメボタルは、それでも出てきたこと」

「覚えていますか、ヒメボタルは雨の翌日の方が出やすい場合があると言いましたね」

「ずっと前に、教えてもらいました。先生に言われたことは、覚えています」

 烏丸がゆっくりと書類を置いた。


「あの夜、先生が来年も来ます、と言いましたね」

「言いました」

「今年も来ますよね」

「来ます」

「じゃあ今年も、来年の話をしましょう」

 遥がお茶を一口飲んだ。

「来年も来ますか」

「来ます」

 烏丸が静かに言った。

「あなたが来るなら」


 執務室の空気が、少しだけ温度を上げた。

 遥は窓の外を見た。

 五月の夕暮れがゆっくり深まっていた。

 空に、薄い光がまだ残っていた。


「七月まで、あと少しですね」

「ええ」

「今年は、晴れるといいです」

「晴れると思います」

 烏丸が窓の外を見た。

「晴れの日を、選んで行けばいい」


 その「選んで行けばいい」という言葉が、遥には何かのように聞こえた。

 晴れの日を、二人で選んで行けばいい、という意味として。

 確かめなかった。

 でも、確かめなくて良かった。


 帰り支度をしていると、机の上に新しいファイルが置かれていた。

 今日の後半に届いていたらしく、遥は気づいていなかった。


 表紙を見た。

 令和七年第百十二号。

 業務上横領。

 被告人の名前は石橋 隆。

 四十三歳。

 会社員。


「先生、新しいファイルが来ています」

「見ました」

 烏丸の声が、いつもと違った。

 遥は烏丸を見た。

 烏丸は窓の外を向いていた。

 夕暮れの空を見ていた。

 いや、見ていないかもしれなかった。

 目は外に向いていたが、見ているものがそこにない、という感じがした。


「先生?」

「はい」

「どうかしましたか」


 長い間があった。

 烏丸のための間だった。

 遥は待った。

 急がなかった。

 この人が用意した言葉を出すまで、待つことが遥にはもうできるようになっていた。


「……少し前に、似たような事件がありました」

 遥はその言葉を聞いて、ペンを持った。

「似た、というのは」

「業務上横領で、被告として来た人がいました。以前に」

「先生が担当された案件ですか」

「はい」

「……どんな案件でしたか」

 また、間があった。

 今度はさっきより長かった。


「また、そのうちに」

 烏丸がそう言った。

 でも今回の「また、そのうちに」は、いつものものとは違った。

 いつもは「言わなくていいこと」として閉じる言葉だったが、今回は「いつか言わなければならないこと」として閉じた言葉だった。

 その違いを、遥は感じた。


 遥はファイルを手帳の隣に置いた。

 そして手帳を開いて、今日初めて書かなかった場所に、一行だけ書いた。

「また、そのうちに」

 胸ではなく、手帳に書いた。

 残しておかなければならないものだと思ったから。

 この「そのうち」は、もう遠くない。


 烏丸がコートを取って立ち上がった。

 今日も一緒に廊下を出た。

 電灯を消した後の執務室に、五月の夕暮れの光が窓から差して、石橋隆のファイルだけをぼんやりと照らしていた。

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