第三十七話「ウグイスの帰る藪(前編)」 ケース10:声が届く先に、藪がある
五月のある朝、ウグイスが鳴いた。
正門を入ったところで、遥は立ち止まった。
「ホーホケキョ」と一声、庭のどこかから聞こえた。
姿は見えなかった。
ウグイスはいつもそうだ。
声だけが先に来て、鳥の体はどこかに隠れている。
一年前もここで同じ声を聞いた、と遥は思った。
この裁判所に来た最初の日だった。
四月の終わりで、今より少し肌寒かった。
勝手がわからないまま正門をくぐったとき、「ホーホケキョ」と鳴いて、遥は歩を止めた。
あのときと同じ庭、同じ声、同じ立ち位置。
でも今の遥は、あのときとは違う。
一年間、この場所でたくさんのものを聞いた。
裁かれる人の声、法律の言葉、烏丸の説諭、羽田の独り言、大河内の遠回しな忠告。
積み重なったものたちが、あのとき立っていた自分と今の自分の間に、厚みを作っていた。
「ウグイスですね」
後ろから声がした。
振り返ると、烏丸が立っていた。
珍しく、正門の手前から一緒になった。
「聞こえましたか」と遥が言った。
「ええ。一年前もここで鳴いていました。あなたが来た日に」
「先生も覚えていたんですか」
「あなたが立ち止まった場所が、今と同じだったので」
遥は少しの間、それを持った。
あの日の自分が立ち止まった場所を、烏丸は覚えていた。
何かを記録する必要があったわけでも、意味があったわけでもない。
ただ見えたから、覚えていた。
それがこの人だった。
「ウグイスは渡り鳥ではありません」
烏丸が庭を見ながら言った。
「春だけではなく、一年中ここにいる。冬の間も藪の中にいて、声を出さないだけです。声を出さないときも、そこにいる」
「見えないだけで、いる」
「ええ。声が届くから存在していると思いがちですが、声が聞こえなくても、場所は変わっていない」
遥は烏丸の横顔を見た。
そしてふと気づいた。
今日の烏丸は、何かを考えながら話していると思った。
ウグイスの生態を語りながら、ウグイスのことだけを話してはいない、と感じた。
でも何を話しているのかは、まだ見えなかった。
執務室に入ると、石橋隆のファイルが昨日と同じ場所に置いてあった。
遥は弁当を置きながら、そのファイルを見た。
烏丸はすでに席についていた。
今日はメモ帳を開いていなかった。
珍しかった。
新しいケースの最初の日に、烏丸はいつも生き物のメモを最初に書く。
今日は、書いていない。
ファイルだけが、デスクの上にあった。
「今日のお弁当は新じゃがの煮物と卵焼きです」と遥が言った。
「シンプルですが、今日はそういう気分でした」
「ありがとうございます」
「先生、昨日ファイルを読みましたか」
「読みました」
「何かわかりましたか」
「公判を見てから、考えます」
烏丸が食べ始めた。
今日は生き物の話をしなかった。
何かを言いかけて、言わなかった様子もなかった。
ただ、静かに食べた。
それが逆に、遥には多くのことを語っていた。
「昨日、また、そのうちに、と言いましたね」と遥が言った。
「ええ」
「そのうちが、来ましたか」
烏丸が少し止まった。
「……もう少し、待ってください。聞く準備ができていないのではなく、言う準備が、まだです」
「わかりました」
それ以上は聞かなかった。
遥はお茶を飲みながら、窓の外を見た。
五月の光が庭に降りていた。
ウグイスはもう鳴いていなかった。
でも、どこかにいる。
午前中、大河内裁判長が執務室を訪ねてきた。
ノックをして入ってきた大河内は、今日は珍しく書類を持っていた。
A4の白い紙で、司法行政の書式だった。
「烏丸くん、一つ伝えなければならないことがある」
大河内が書類を机に置いた。
烏丸が立ち上がって、一度読んだ。
遥も離れたところから、表紙に目が届いた。
「審査申立受理通知」と書いてあった。
「岩倉視察官から、当裁判所における説諭行為の適法性および相当性について、司法行政に対して正式な審査申立が提出され、受理されました」
大河内が落ち着いた声で言った。
「これにより今後、記録の提出要請と、あなたに対する聴聞手続きが行われる可能性があります」
烏丸が書類を一度置いた。
「具体的にはどういう過程になりますか」
「まず、これまでの説諭の記録と判決文の照合を求めてくる。次に、説諭の法的根拠についての見解書を提出するよう求められるかもしれない。その後、審査委員会が開かれる可能性がある」
「裁量行為の範囲内という判断は変わりますか」
「今のところは、私はそう考えています。でも審査申立が受理されたということは、形式上の手続きは始まったということです」
大河内が烏丸を見た。
「烏丸くん、今まで通りやってください。ただ、法廷の記録は今後さらに丁寧にお願いします。記録が守ってくれます」
「はい」
「遥さん」
大河内が遥を見た。
「書記官として、記録の精度を今まで以上に上げてほしい。あなたの記録が、守りになります」
「わかりました」
大河内が出ていった。
執務室が静かになった。
遥は手帳を手に取り、今聞いたことを整理して書いた。
書きながら、手が少し速くなっていることに気づいた。
焦りではない。使命感というものが、こういうふうに手に出るのかもしれない、と思った。
「先生」遥が書きながら言った。
「はい」
「記録、取ります。全部」
烏丸が少し間を置いた。
「……ありがとうございます」
午前十時、第三法廷。
「起立」
烏丸が入廷した。
被告人席に、石橋 隆が座っていた。
遥の第一印象は「古い人」だった。
四十三歳という年齢より、ずっと年老いて見えた。
田中のような強さも、村田のような整い方も、柳川の決意の目もなかった。
ただ、長い間重いものを持ち続けた人が、その荷物をどこかに下ろしてきた後のような、空虚な落ち着きがあった。
光のない目ではなかった。
むしろ、光を持つことに疲れた目だった。
烏丸が席についた。人定質問が始まった。
「お名前をお聞かせください」
「石橋 隆です」
「生年月日は」
「昭和五十七年、十一月七日です」
遥は記録を取りながら、烏丸の手元を見た。
石橋の名前と生年月日を書いたとき、烏丸のペンが一瞬、止まった。
羽田には見えなかったと思う。
遥には、見えた。
「ご住所は」
質問が続いた。
烏丸は続けた。
止まったことを誰にも見せなかった。
でも遥は知っていた。
あの一瞬が何を意味するか、まだ全部はわからなかった。
でも、何かが動いたことは、わかった。
「検察官から起訴状を読み上げてください」
検察官が立った。
「被告人は、株式会社フジカワ・ロジスティクス経理部主任として会社の資金を管理する業務に従事していたにもかかわらず、令和三年六月から令和七年一月にかけて、業務上自己の占有する会社の資金二千二百万円を着服横領した」
「被告人にお聞きします。ただいまの内容について、間違いや付け加えたいことはありますか」
「間違いはありません」
石橋が言った。
「全て、認めます」
声は、静かだった。
しかし諦めではなかった。
受け入れている声だった。
「弁護人から確認します」
弁護人の松村弁護士が立った。
四十代の、落ち着いた男性だった。
「被告人は起訴事実を全て認めます。横領の動機については、亡父への負債返済という事情があり、情状として詳しく述べます。次回の被告人質問にて」
「承知しました。次回、証拠調べと被告人質問を行います。期日は追って調整します」
「起立」
廊下に出た。
「今日の被告人、どんな印象でしたか」と羽田が遥に聞いた。
「古い人、という感じがしました」
「古い?」
「年齢より年老いて見える、という意味です。何かを長く背負ってきた人の顔でした」
「動機が亡父への負債返済、というのが気になりました。お父さんはどういう経緯で借金を作ったんですかね」
「まだわかりません。次回の被告人質問でわかると思います」
羽田が少し考えてから言った。
「先生、今日、人定質問のときに何かありましたか」
「何かとは」
「なんか、一瞬だけ止まった気がして。被告人の名前を書いたとき」
遥は羽田を見た。
「そうですか」
「見えましたか」
「……見えませんでした」
遥が言った。
「気のせいかもしれませんね」
羽田が「そうですかね」と言いながら廊下を歩いていった。
遥はその場に少し残った。
嘘をついた。
一回だけ。
羽田には見えなかった、と言ったが、見えていた。
でも羽田には教えない方が良いと思った。
それは烏丸が自分で言う話であって、遥が話す話ではない。
守ることにした。
こういう守り方があると、ここに来てから覚えた。
夕方、遥が書類を整理していると、烏丸が静かに言った。
「ウグイスはなぜ、姿を見せないと思いますか」
遥はペンを止めた。
「体の色が、茶色で地味だからだと聞いたことがあります。葉の陰にいると、見えにくい」
「そうです。ウグイスはメジロとよく混同されます。春を告げる緑色の美しい鳥をウグイス色と呼ぶ習慣がありますが、本物のウグイスは茶色です。地味で、目立たない。でも声だけは、遠くまで届く」
「先生が最初にウグイスを説諭に使おうと思ったのは、いつですか」
「……ずっと前から、と思っていましたが」
烏丸が少し間を置いた。
「今回が、最初から決まっていたのかもしれません」
「どういう意味ですか」
烏丸が窓の外を見た。
庭はもう暗くなっていた。
どこかにいるウグイスは、声を出していなかった。
「石橋さんの父親のことを、私は知っています。十年前、被告として来た人です。業務上横領で、懲役二年の実刑判決を受けました。私が担当した案件でした」
遥は手帳を開いた。
でも書かなかった。
ただ持った。
「当時、私は判決を下しました。法律通りに。量刑も適切だったと今でも思っています」
烏丸が続けた。
「でも、説諭をしませんでした。あの人が出所した後のことを、判決文の中に書かなかった。法廷の中で言葉をかけなかった」
「なぜ、しなかったんですか」
「わかりません」
烏丸が静かに言った。
「できなかったのか、しなかったのか、今でも判然としません。あのころの私は、もう少し、法律だけが全てだと思っていたのかもしれない」
遥はその言葉を、ゆっくりと受け取った。
「石橋克己さんは、出所後、仕事を見つけられなかったと聞いています。借金をして、息子に迷惑をかけた。三年前に独居死をした、と松村弁護士の資料にありました」
「読みましたか」
「今日、届きました」
「そうですか」
「先生の十年前の判決が、石橋克己さんの人生の分かれ目になった、と思いますか」
長い沈黙があった。
遥は急がなかった。
この人の言葉を待つことは、もう遥の体に馴染んでいた。
「関係していると、思っています」
烏丸が言った。
「直接の原因かどうかはわかりません。出所後の環境、本人の選択、社会の受け入れ方、いくつもの要素がある。でも、あのとき一言だけ言っていれば、違う可能性があった、とは思い続けてきました」
「十年間、思い続けてきたんですね」
「ええ」
遥は手帳に、一行だけ書いた。
「十年間」とだけ。
「今回の石橋さんのお父さんへの言葉を、今からでも届けることができますか」
烏丸が遥を見た。
「息子さんに届けます。父親に届けるための、もう一つの方法として」
「そのために、今回の説諭があるんですね」
「そうです。今回は、そのためにあります」
遥はその言葉を聞いて、手帳を閉じた。
書ける量を超えたと思ったのではなく、書くより持っていたかったから、閉じた。
「先生、岩倉さんのことについては、どう思っていますか。今日、正式に手続きが始まったことについて」
「今まで通りにします」
「怖くはありませんか」
烏丸が少し考えた。
「怖い、というより」
ゆっくり言った。
「今まで届けてきた言葉が、間違っていたかどうかを問われることは、きつい、です。正しかったかどうかは、自分でも確信が持てないので」
「正しかったと思います」
遥が言った。
「私は、そう思っています」
「あなたはそう思っていてくれているんですね」
「ええ」
「……ありがとうございます」
烏丸が立ち上がった。
コートを取った。
窓の外の庭は暗くなっていたが、まだウグイスがどこかにいる気がした。
声は出していなかった。
声を出さないときも、そこにいる。
「帰りましょう」と遥が言った。
「ええ」と烏丸が言った。
二人で廊下に出た。
電灯を消した後の執務室に、石橋隆のファイルが残った。




