第三十八話「ウグイスの帰る藪(中編)」 ケース10:声が届く先に、藪がある
第二回公判の朝、遥は弁当を作りながら今日のことを考えていた。
証拠調べと被告人質問がある。
石橋隆が何を語るか、弁護人の資料で概要は読んでいた。
でも、読んだことと聞くことは違う。
遥はそれをこの一年で学んでいた。
記録は骨格だ。
血と体温は、法廷でしか手に入らない。
今日の弁当は、蕗の煮物と鮭の塩焼きにした。
飾らない、力のある組み合わせを選んだ。
執務室に入ると、烏丸はすでに書類を読んでいた。
「おはようございます。今日は蕗と鮭です」
「ありがとうございます」
それだけだった。
続きがなかった。
蕗の成分の話も、サケが遡上する話も、出てこなかった。
烏丸が生き物の話を自分からしないのは珍しかった。
遥は何も言わずにお茶を注いだ。
空白を埋める必要はないと思った。
今日は、そういう朝だった。
証拠調べは淡々と進んだ。
経費精算書の改ざん記録が弁号証として提出され、四年間にわたる二千二百万円の横領の全容が数字として法廷に示された。
石橋はその全てを認めた。
弁護人が提出した証拠の中に、父・石橋克己の経歴書と死亡記録があった。
克己は十年前、業務上横領で実刑二年の判決を受けた。
出所後は職を転々とし、消費者金融から借金を重ね、三年前に六十五歳で孤独死した。
発見したのは息子の隆だった。
遥はその記録を書き留めながら、烏丸の横顔を見た。
烏丸は書類を見ていた。
表情は動かなかった。
でも、克己の死亡日時が読み上げられたとき、ペンが一瞬止まった。
半秒もないほどの、小さな間だった。
「証拠調べを終わります。被告人質問に移ります」
「石橋さん、お父さんはどんな方でしたか」と松村弁護士が聞いた。
「真面目な人でした」
石橋が言った。
「仕事も一生懸命で。だから横領と聞いて、最初は信じられなかった。でも本人が認めたので」
「服役中は面会に行きましたか」
「最初は月一回行きました。でも父が、来なくていいと言い出して。それからは年に一度くらいになりました」
「出所後の様子は」
「仕事が見つかりませんでした。前歴があると難しくて。転職を何度もして、最後はコンビニのアルバイトをしていました。元の知り合いに会いにくいと言っていた。会うたびに、少し小さくなっていった気がします」
「借金については」
「消費者金融から少しずつ借りて、大きくなっていたのを隠していたんですが、一度だけ相談に来ました。本当に珍しいことで。もう少し若ければ自分でなんとかできたのに、と言っていた。俺に頭を下げるのが、つらそうだった」
「それで横領を始めたのですか」
「父の借金を返すために少しずつ始めました。でも父が病気になって入院費用も重なって、歯止めが利かなくなりました」
松村弁護士が一度、書類を見た。
「お父さんが亡くなったのはいつですか」
「三年前です。独り暮らしで、二日間発見されなかった。俺が気づいて連絡しました。入院もしていたので、急に、ということではなかったんですが」
石橋が少し間を置いた。
「でも、間に合わなかったと思っています、ずっと」
「違法だとわかって横領を続けた理由を、もう少し聞かせてください」と検察官が立った。
「止め方が、わかりませんでした」
「正規の手段はありましたか。生活保護など」
「父が嫌がりました。申請しようとしたら怒って。プライドの問題だったと思います」
「あなたが違法行為をせずに助ける方法が、なかったとは言えない」
「……そうかもしれません。でも」
石橋が少し止まった。
「父が望む方法で、助けたかったので」
「裁判官から、補充質問があります」
烏丸の声が、静かに法廷に落ちた。
いつもより短く、区切ったような声だった。
「石橋さん、一つだけ聞かせてください」
「はい」
「お父さんと最後に話をしたのは、いつですか」
石橋がゆっくり顔を上げた。
「死ぬ、二日前です」
「どんな話をしましたか」
長い沈黙があった。
「……何も、話せませんでした。俺も、父も。病室で、ただ隣にいました」
烏丸がうなずいた。
「わかりました。ありがとうございます」
それだけだった。
遥はペンを持ったまま、動けなかった。
いつもなら補充質問は三つか四つ続く。
今日は一問で終わった。
でもその一問の重さが、遥には、四問分以上に感じられた。
石橋の「何も話せませんでした」という答えと、烏丸の「わかりました」が重なった瞬間、法廷の空気が変わった気がした。
羽田もペンを止めていた。
午後、大河内の執務室で何かが起きていると、羽田が廊下で教えてくれた。
「岩倉さんが今日、大河内先生のところに行きました。見解書の提出要求らしいです。廊下まで声が聞こえて」
「どんな内容でしたか」
「烏丸先生の説諭に法的根拠があるかどうか、正式な見解書を書いて提出してほしいという話でした。岩倉さんは、説諭が被告人への情状的干渉に当たるなら適正手続きの問題が生じると言っていた。大河内さんは、裁判官の職務として認められていると反論していました」
「決着は」
「ついていませんでした。岩倉さんが『審査委員会の場で論じたい』と言って出ていきました。大河内さんはその後、しばらく扉を閉めていて」
遥はその話を聞いて、手帳に一行書いた。
「適正手続き」と「情状的干渉」という二つの言葉を。
これが今後の論点になると思った。
「烏丸先生に、言いますか」と羽田が聞いた。
「言います。先生が知るべきことです」
夕方、執務室に二人になった。
遥が岩倉の見解書要求を伝えると、烏丸は短くうなずいた。
「予想していました」
「先生の説諭が、情状的干渉に当たるという主張ですね」
「岩倉さんはそう考えています。司法の中立性と統一性という観点から、裁判官が個別に感情的な言葉を被告人に向けることは、越権であるという立場です」
「先生はどう思いますか、その主張を」
烏丸が少し間を置いた。
「間違っていないと思います。一面では」
遥が顔を上げた。
「岩倉さんの考え方には、筋があります。司法は感情から独立していなければならない。裁判官が被告人に感情移入することで、判断が歪む可能性がある。その危惧は、正当です」
「でも先生は、やめない」
「やめません。でも、岩倉さんが間違っているとは思わない。二つの正しさが、ここでぶつかっているんです。どちらが勝つかより、どちらが今の法廷に必要かを、審査委員会が判断することになる」
遥はその言葉を聞いて、何かが腑に落ちた。
烏丸は岩倉を否定しない。
否定しないまま、やめない。
それが烏丸の強さで、そして孤独さだった。
「先生」
遥が静かに言った。
「十年前のことを、もう少し聞かせてもらえますか。石橋克己さんのことを」
烏丸が少し止まった。
それから、うなずいた。
「秋でした。十年前の十月です。業務上横領、一千八百万円。経理担当として十五年真面目に働いてきた人が、資金繰りの苦しさから少しずつ手をつけ始めた。典型的なケースでした」
「判決は」
「懲役二年、実刑です。前科はなかったが、額と期間を考えると適切な量刑でした。法律に照らせば、正論でした」
「説諭は」
「しませんでした」
遥はただ聞いた。
「あのころの私は、判決文の外のことを法廷で語ることを、仕事の範囲外だと思っていました。事実を認定して、法律に照らして、判断を下す。それが全てだと。間違いではありませんでした。でも、それだけでもなかった」
「何が、足りなかったんですか」
「あの人が法廷を出た後のことを、私は一度も考えなかった。石橋克己さんは五十二歳で法廷を出て、二年服役して、五十四歳で社会に戻った。五十四歳で前歴を持って、もとの業界には戻れなくて。当時の私には、そこに言葉をかけることが、できなかった」
「できなかったのか、しなかったのか」
烏丸が遥を見た。
「どちらも正しいと思っています。言葉を持っていなかった部分と、出そうとしなかった部分と。あのころの私は、感情的に関わることが、公正な判断を歪めると思っていた。今でも、その怖れは完全には消えていません」
「でも今は、届けている」
「ええ。届けることが、変える可能性を持つと、今は信じているので」
遥は窓の外を見た。
五月の夜が、庭に降りていた。
「大河内先生が、おっしゃっていました。先生のことを。昔から同じだ、どこ行っても一人で鳥を見てる、と」
「大河内さんはそういうことを言いますね」
「でも少し、違う気がします」
遥が言った。
「先生は鳥を見るだけでなく、今は声をかけている。それが説諭だと思います。鳥を見るだけだった人が、声をかけるようになった。それが、この十年で変わったことじゃないですか」
烏丸が少しの間、遥を見た。
「……あなたはいつも、良いところに着地しますね」
「先生が教えてくれたんです、この一年で」
短い沈黙があった。
静かで、温かかった。
「あの人の息子さんが、今ここにいます」
烏丸が静かに言った。
「私があのとき言えなかったことを、今回言います。石橋克己さんへの言葉を、石橋隆さんを通じて届けます。間に合うかどうかはわかりません。でも、届けます」
「届けてください」
遥が言った。
「必ず」
烏丸がコートを取った。
遥も立ち上がった。
二人で廊下を出た。
廊下の窓の向こうに、五月の夜空があった。
星がいくつか出ていた。
どこかでウグイスが、最後の一声を出した。
それから静かになった。
藪の中に帰ったのだろう。
声を出さなくても、そこにいる。




