第三十九話「ウグイスの帰る藪(後編)」 ケース10:声が届く先に、藪がある
判決の朝、五月の空は高かった。
この季節の光は真上から来る。
影が短く、地面が明るい。
冬の斜めの光に慣れた目には、少し眩しいくらいだった。
遥は裁判所の庭を歩きながら、庭の木の濃い緑を見た。
一月前は若葉の薄さがあったのに、今はもう深い緑になっていた。
季節は、いつも少しずつ先に行く。
今日で、石橋隆の判決が出る。
遥は出勤しながら、この一年を思った。
ウグイス、ミツバチ、ホタル、ツバメ、蝉、コオロギ、ヤマネ、タカ、コウモリ、ヒバリ。
そしてウグイスに戻ってくる。
春に始まり、春に終わる。
生き物たちが人の言葉になって、法廷を通り抜けていった。
その言葉の全てを、遥は手帳に持っていた。
今日の説諭は、どんな言葉になるのだろう。
執務室に入ると、烏丸が窓の外を見ていた。
書類も、メモ帳も、開いていなかった。
ただ外を見ていた。
遥が入っても振り向かなかった。
だから遥も、隣に立って外を見た。
庭のどこかに、ウグイスがいる。
声は聞こえなかったが、いることはわかった。
しばらく、二人で黙って外を見た。
「今日のお弁当は、だし巻き卵と蕗の煮物です」
遥が静かに言った。
「ありがとうございます」
「先生、今日は三分の二のルールを、少し緩めます」
烏丸がゆっくり遥を見た。
「緩める、とは」
「食べながら話していいです。いつでも。何の生き物の話でも」
烏丸が少し困ったような、でも何かが解けたような顔をした。
「……ありがとうございます」
「今日だけです」
「わかりました」
烏丸が静かに食べ始めた。
しばらくして言った。
「ウグイスの声域は、人間の声より広いです。人間の声帯が出せない高さと低さを、あの小さな体が出す。なぜ声だけが、あれほど遠くまで届くかというと、藪の中から出るので、障害物を回り込む形で音が伝わるからです。直線ではなく、回り道をして届く」
遥はお茶を飲みながら聞いた。
「回り道をして届く声が、遠くまで届く」
「ええ」
「今日の説諭も、そういうものかもしれませんね。十年前から回り道をして、今日届く」
烏丸がだし巻き卵を食べながら、少し止まった。
「……そうかもしれません」
論告と弁論は先週、終わっていた。
検察官は「四年間にわたる継続的な横領であり、その額と期間に鑑みて相応の刑事責任を問うべきである。懲役三年を求刑する」と述べた。
松村弁護士は「被告人の動機は亡父の借金返済という情状であり、私的な浪費はなかった。父の服役後の社会的孤立と経済的困窮という背景が、被告人の判断を追い詰めた事情は否定できない。全面的に起訴事実を認め、深く反省している。前科前歴のなさと誠実な態度を踏まえ、執行猶予を求める」と述べた。
石橋の最終陳述は短かった。
「父に間に合わなかったことが、一番の後悔です」
少しの間があった。
「でも、一つだけ言わせてください。父は、真面目な人でした。間違えましたが、真面目な人でした。それだけは、どこかに残しておきたかったので」
法廷が静かになった。
遥はその言葉を書き留めながら、少しだけ手が止まった。
「真面目な人でした」という一文が、石橋克己への弔辞のように、法廷に浮かんだ。
五月の後半、判決の日。
午前十時、第三法廷。
「起立」
烏丸が入廷した。
今日の傍聴席に、岩倉視察官がいた。
左端の席に、背筋を真っ直ぐにして座っていた。
遥は気づいて、羽田も気づいた。
烏丸も、気づいていた。
見なかったが、気づいていた。
「着席。令和七年第百十二号、業務上横領被告事件の判決を言い渡す」
「主文。被告人を懲役三年に処する。この裁判確定の日から五年間、その刑の執行を猶予する」
石橋隆の体が、わずかに前に傾いた。
傾いてから、また戻った。
「理由を告げる。被告人が四年間にわたり二千二百万円を着服横領した事実は証拠の結果によって明らかである。経理担当という職務上の立場を利用した行為であり、その額と期間は重大である。刑事責任は軽くない」
「しかしながら量刑にあたって次の事情を考慮する。被告人の動機は亡父の借金返済にあり、私的な享楽への支出はなかった。亡父・石橋克己氏が服役後に社会復帰の機会を充分に得られず、経済的に追い詰められた事実が背景に存在する。被告人は起訴事実を全て認め、深く反省している。前科前歴がなく、本法廷において誠実であった。以上を総合考慮し、刑の執行を猶予することが相当と判断した」
烏丸が書類を閉じた。
「石橋さん、少し待ってください」
ウグイスという鳥は、声だけが届く鳥です、と烏丸が言った。
「春になると、あの鳥は藪の中から声を出します。ホーホケキョ、と。声は遠くまで届く。一キロ先まで届くこともある。でも鳥の姿は、ほとんど見えない。茶色い羽根で、葉の陰に隠れている。声を聞いた人は、緑色の美しい鳥を想像することが多いです。でも本物のウグイスは、地味で、目立たない。声だけが、実物より遠くへ行く」
石橋が静かに聞いていた。
「あなたのお父さんについて、調書と記録を読みました。石橋克己さんは、三十年近く、会社のために働いてきた方でした。一度、間違えた。でもその間違いが、その方の全てではなかった」
法廷の空気が、静まった。
「お父さんが出所した後の十年間、あなたはずっと傍にいようとしていました。仕事の転落を見ていた。借金を知ったとき、助けようとした。病室で隣にいた。その最後の日、何も話せなかったと、あなたはおっしゃいました」
石橋の肩が、少し動いた。
「でも聞いてください。あなたが隣にいたこと、それ自体が、声でした。ウグイスが声を出さないときも藪の中にいるように、あなたはお父さんの藪の中にずっといた。言葉にならなかった言葉が、病室にあった。それは届いていた、と私は思います」
遥はペンを持ったまま、記録を取り続けた。
手が震えないように、意識して、ゆっくり書いた。
「あなたの行為は、正しくありませんでした。でも、その行為の中に、一つだけ本物のことがありました。父が望む方法で助けたかった、とおっしゃいました。それは本物でした。四年間、あなたはお父さんの声を聞いていた。そして応えようとした。声の出し方を間違えましたが、聞き続けていたことは、本物です」
石橋の目が、揺れた。
「お父さんはなぜ、あなたに来なくていいと言ったか、考えたことがありますか」
烏丸が少し間を置いた。
「あの方は、あなたに見せたくなかったのだと思います。変わっていく自分を。小さくなっていく自分を。それでも来るあなたを、見たくなかったのではなく、来るあなたに見られたくなかった。見せたくないほど、あなたのことを大切にしていた」
石橋の目から、涙がひとすじ落ちた。
拭かなかった。
「ウグイスは声だけが届く鳥です。姿が見えなくても、声は届く。お父さんの姿は、もう見えません。でも声は、あなたの中にある。あなたが今日ここで言った言葉、父は真面目な人でした、あの言葉がそうです。お父さんの声が、あなたを通して届いた」
法廷が、完全に静かになった。
遥は記録を取る手を少し止めて、すぐに続けた。
止まってはいけない。
今日の言葉は全部、記録に残さなければならない。
「五年間の猶予があります。その間に、一つだけお願いがあります。前歴を持ちながら、もう一度立ち上がった人たちのことを、少し調べてみてください。そういう人がどうやって春を見つけたかを。それが分かれば、お父さんが辿れなかった道が少し見えてくるかもしれない。見えれば、あなたはお父さんの代わりにその道を歩くことができます。それがもう一つの、届け方です」
「ウグイスは毎年、同じ場所に戻ってきます。藪が変わらない限り、春になれば声を出す。あなたの中の藪も、変わりません。五年後も十年後も、そこにお父さんの声がある。声を出してください。届かなくていい。声を出し続けることで、あなたの春が来ます」
石橋が、両手を膝の上で重ねた。
うつむいた。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、空虚ではなかった。
病室で父の隣に座っていた人の目が、今、少しだけ違う色をしていた。
廊下に出ると、岩倉が待っていた。
烏丸が出てきたとき、岩倉がゆっくり近づいた。
遥と羽田も少し後ろにいた。
「烏丸判事」
岩倉が静かに言った。
「先ほどの説諭についてです。被告人の亡父の経歴に言及されましたが、その情報の取得経路と、それを法廷で発言することの適正手続きについて、確認させていただきたい」
そのとき、大河内裁判長が廊下の向こうから来た。
今日の公判を傍聴していたはずで、法廷を出るのが遥たちより少し遅かったらしかった。
「岩倉さん」
大河内が穏やかに言いながら烏丸と岩倉の間に入った。
「少しよろしいですか」
「はい」
「今日の説諭について、記録を確認しました。被告人の亡父の情報は、弁護人が提出した証拠書類に含まれていました。その書類は適法に取調べされています。そこに含まれる情報を被告人に語ることは、証拠に基づいた訓告の範囲内です」
「しかし、亡父の人格評価のような発言は」
「亡父の人格評価ではありません」
大河内が静かに言った。
「書類に記載された事実——三十年の就労歴——をそのまま述べた。評価ではなく、事実の確認です。裁判所法に基づく訓告として、適法です」
岩倉がしばらく沈黙した。
「審査委員会の判断を待ちます」
岩倉が言った。
「もちろんです」
大河内が答えた。
「私の見解書にも同様の見解を記載します。委員会で論じましょう」
岩倉がうなずいて、廊下を歩いていった。
その背中が、角を曲がって消えた。
遥は大河内を見た。
大河内が遥を見て、小さくうなずいた。
「記録が守ってくれる」と言っていた。
今日、それが形になった。
廊下に烏丸と二人だけになった。
羽田は先に行っていた。
大河内も、戻っていった。
静かな廊下の窓から、五月の光が入っていた。
「先生の言葉は、正しかったです」
遥が言った。
烏丸が遥を見た。
「今日の説諭が、ですか」
「それもです。でも」
遥が少し間を置いた。
「十年前のことも、含めて」
「十年前は、言葉がありませんでした」
「でも、先生はその後、言葉を探し続けた。見つけた言葉を、毎回届けてきた。だから今日の言葉があった。十年間の回り道が、今日の声になった。ウグイスの声が障害物を回り込んで届くように」
烏丸が少しの間、廊下の光の中に立っていた。
「……ありがとうございます」
烏丸が言った。
「そう言ってもらえると」
「先生が言った言葉です。回り道をして届く声が、遠くまで届く、と。自分の言葉が、先生に届いてよかったです」
烏丸の耳が、赤かった。
「そんな大したことを言った覚えはありませんが」
「覚えていなくても、届きました」
夕方、執務室に戻って書類を片付けながら、遥が言った。
「岩倉さんの審査委員会、どうなりますかね」
「大河内さんの見解書が提出された後に、委員会が開かれます。結果がどちらに出るかは、わかりません」
「怖いですか」
「少し。でも」
烏丸が窓の外を見た。
「今日の説諭は、怖れながら出しませんでした。今日は、ただ届けたかった。怖れより、届けたいという気持ちが、大きかった」
「届きましたよ」
遥が言った。
「石橋さんの目が、変わっていました」
「見えましたか」
「見えました。空虚だった目が、最後には少し違う色をしていた」
「そうですか」
烏丸が少し安堵したような顔をした。
「それであれば」
遥はコートを手に取った。
今日の手帳は、いつもより字が多かった。
説諭の全部を書いた。
一言も落とさなかった。
記録が守ってくれる、と大河内が言った。
今日の記録は、守るためだけでなく、遥自身が持っていたかった。
「先生、帰りましょう」
「ええ」烏丸が立ち上がった。
二人で廊下を出た。
正門のところまで来たとき、どこかから聞こえた。
「ホーホケキョ」
夕暮れの中の、ウグイスの声だった。
遥と烏丸は、どちらも立ち止まった。
姿は見えなかった。
でも、声はそこにあった。
藪のどこかから、確かに届いていた。
「来年も、ここにいますね」
遥が言った。
「います」
烏丸が言った。
「毎年、春になれば声を出す」
遥は烏丸の横顔を見た。
夕暮れの光の中で、少し眩しそうにしていた。
「先生も、毎年ここにいますか」
烏丸が遥を見た。
「います」
「確認しておきたかっただけです」
遥が少し笑った。
「では、帰りましょう」
二人で正門を出た。
五月の夕暮れが、長く、静かに続いていた。




