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第四十話「ウグイスの帰る藪(終章)」 ケース10:声が届く先に、藪がある

 七月になった。


 梅雨が明けた翌朝、空が変わっていた。

 高く、青く、遠くまで続いていた。

 夏の空は、春とは違う強さを持っている。

 光が真上から来て、影がほとんどない。

 裁判所の庭の木が、その光の中で鮮やかな緑を返していた。


 大河内から連絡が来たのは、梅雨明けの三日前だった。


 審査委員会は、烏丸の説諭を裁判所法に基づく訓告として適法と認定した。

 岩倉視察官の審査申立は退けられた。

 大河内が執務室に来て、それだけ伝えた。

 烏丸は「ありがとうございました」と言った。

 大河内が帰りかけて、振り返って遥を見た。

「あなたの記録が守ってくれた。本当に」とだけ言って、出ていった。

 遥はその言葉を、手帳の最後のページに書いた。

「記録が守ってくれた」と。


 岩倉視察官はその後、別の裁判所へ異動になったと聞いた。

 廊下で最後にすれ違ったとき、岩倉は遥にだけうなずいた。

 言葉はなかった。

 でも、その目には敵意がなかった。

 正しいと思ったことを、正しいと思ったやり方でやった人の目だった。

 遥はそれを、静かに受け取った。


 そして七月になった。

 ヒメボタルの季節が来た。


 約束の日の朝、烏丸が執務室に入ってきたとき、カメラバッグを持っていた。

 仕事用の書類鞄と一緒に。


「今日、持ってきたんですか」

 遥が聞いた。

「忘れずにいられるか心配だったので、朝から持ってきました」

「几帳面ですね」

「心配性です」

「……先生が心配性だとは思いませんでした」

「こういうことに関しては」

 烏丸が少し止まった。

「忘れたくないことには、用意をします」


 遥はお茶を注ぎながら、少し笑った。

 今日のお弁当は、枝豆と鮭おにぎりを別に包んで、夕方の林道用も準備してある。

 去年の幕間の夜、一人で行った烏丸は何も食べなかったに違いない。

 今年は違う。


「今日の弁当は、夕方分も用意しました。林道で食べましょう」

「それは」

 烏丸が少し間を置いた。

「……考えていませんでした」

「思いついたので」

「ありがとうございます」


 今日の仕事は午前中で終わる段取りにしていた。

 午後は二人とも、夏休みの有給を入れてあった。


 午後、裁判所を出た。

 電車を乗り継いで、山の入口の駅で降りた。

 駅前のバスに乗って、林道の入口まで行く。

 去年と同じルートだった。

 でも去年は遥一人で、烏丸は別のルートで先に来ていた。

 今年は最初から、同じバスに乗った。


 バスの中、並んで座った。

 窓の外に山が近づいてきた。

「先生、去年もこのバスに乗りましたか」

「別のバスを使いました。こちらの方が近かったんですね」

「去年は先に来ていたんですね」

「ええ。雨が降り始めていたので、早めに」

「先生が先にいて、私が後から来て、二人でヒメボタルを見た」

「そうです」

「今年は逆じゃないですか。最初から一緒に来た」


 烏丸が窓の外を見た。

 山の緑が窓を流れた。

「そうですね」とだけ言った。

 その一言に、何もなかった。

 でも、その一言の重さを、遥は感じた。

「最初から一緒に来た」ということが、今年の全てだった気がした。


 林道を歩いた。

 七月の夜の山は、音が多かった。

 蝉が鳴いていた。

 川の音がした。

 木の葉が夜風に動いた。

 足元の土が、昨日の雨で少し柔らかかった。

 懐中電灯の光が、二人の足元を照らした。


「ヒメボタルは、雨の翌日の方が出やすい場合があります」と烏丸が言った。

「ずっと前に教えてもらいました」

 遥が言った。

「だから今日を選びました」

「覚えていましたか」

「先生に言われたことは、覚えています」

 烏丸が少し止まった。

 それから、また歩き始めた。


 林道を進むにつれ、目が暗さに慣れてきた。

 木の形が、夜空を背景に黒く浮かぶ。

 星が出ていた。

 梅雨明けの最初の夜は、こういう星空になることがある。

 光が多すぎない。

 ちょうどいい夜だった。


 おにぎりを食べた。

 林道の脇の石の上に座って、二人で食べた。

「枝豆と鮭です」と遥が言った。

「今日のために作りました」と。

 烏丸が「ありがとうございます」と言って、黙って食べた。

 生き物の話はしなかった。

 今日はそれでいい、と遥は思った。


 ヒメボタルが出た。

 最初の一つは、林道の脇の草の中から、ふわりと浮いた。

 黄色い点滅が、短い弧を描いて消えた。

 遥は息を止めた。


 それから次々と出てきた。

 木の根元から、草の間から、夜の空気の中へ。

 昨年と同じ場所だった。

 昨年と同じ光だった。

 でも今年は、隣に烏丸がいた。

 それだけで、光が違って見えた。


 烏丸がカメラを構えた。

 シャッター音が静かにした。

 何度か、向きを変えて、また撮った。

 遥はその隣に立って、ヒメボタルを見ていた。


 一つの光が、二人の間を通り過ぎた。

 ほんの一瞬、遥の目の前で点滅して、消えた。


「きれいですね」と遥が言った。

「ええ」

「去年も、きれいでした」

「今年の方が」

 烏丸がカメラを構えたまま言った。

「きれいです」

 遥はその言葉を、しばらく持った。


 カメラのファインダーを覗いているから、烏丸は遥の顔を見ていない。

 それでも言った。

 去年より今年の方がきれいだと。

 去年と何が違うか、言わなかった。

 でも、何が違うかは、わかった。


 しばらく経って、遥が言った。

「来年も来ますか、先生」

 烏丸がカメラを下ろした。

「来ます」

「私も来ます」

「知っています」

 二人の間に、ヒメボタルの光が一つ、通り過ぎた。


「来年も、また聞きますよ、同じことを」

 遥が言った。

「また答えます」

「毎年、同じことを確認するんですね、私たちは」

「ウグイスも」

 烏丸が少し間を置いた。

「毎年、同じ声で鳴きます。確認が必要だから鳴くわけではありません。でも、聞いていい声です」

「そうですね」

 遥が空を見た。

「聞いていい声だから、聞く」

「ええ」


 また沈黙になった。

 ヒメボタルが飛んでいた。

 音もなく、光だけが動いていた。

 この光には音がない。

 でも遥には、何かが聞こえる気がした。

 この光が語るものが。


 烏丸がカメラをバッグに納めた。

 今日の写真はもう充分撮った、という動作だった。

 そして、ただ立って、ヒメボタルを見た。

 カメラなしで、ただ見ていた。

 遥もカメラを持っていないから、ただ見ていた。

 二人で、ただ見ていた。

 その時間が、遥には一番、好きだった。


 帰り道、林道を戻った。

 来るときより、二人の間が少し近かった。

 気がついたらそうなっていた。

 二人とも何も言わなかった。

 林道は狭い。

 それだけのことだった。


 途中、遥の足が根に引っかかった。

 ほんの少し、よろけた。

 烏丸の手が、すぐそこにあった。

 遥の腕を、一瞬だけ支えた。


「大丈夫ですか」

「はい。ありがとうございます」

「足元、気をつけてください」

「はい」

 それだけだった。

 でも、その一瞬の温かさが、遥の腕に残った。

 歩きながら、残った感覚を持った。

 残してよかった、と思った。


 星明かりの下、二人で林道を歩いた。

 蝉の声が続いていた。

 川の音が遠くなった。

 木の向こうに、麓の光が見えてきた。


 遥は歩きながら、この一年を思った。

 ウグイスが鳴いた春の朝、初めてこの裁判所に来た日。

 烏丸が最初に言った言葉が何だったか、もう正確には覚えていない。

 でも、その声は覚えている。

 低くて、静かで、ここにいることを当然としている声。


 その後の一年で、どれだけの言葉を聞いたか。

 法廷で、廊下で、執務室で、この林道で。

 生き物の話、判決の理由、三分の二のルール、フナムシの友達の話、待つことが苦ではない、という言葉。

 届かなくても言い続ける。

 声を出し続けることで、飛べる。

 回り道をして届く声が、遠くまで届く。


 記録に書いたものも、書かなかったものも、全部持っている。

「先生」

「はい」

「この一年、ありがとうございました」

 烏丸が少し止まった。

 歩みを止めて、遥を見た。


「私の方こそ」

「何をですか」

「……見ていてくれたことを」

 遥はそれを聞いて、前を向いた。

「まだ見ています」

「わかっています」

「来年も見ます」

「知っています」

 烏丸が歩き始めた。

 遥も並んで歩いた。

 二人の足音が、林道の土の上に落ちた。


 麓の光がもう近かった。

 そこまで出れば、バス停がある。

 電車に乗って、街に戻る。

 明日の朝、また裁判所の正門をくぐる。

 執務室に入る。

 弁当を置く。

 三分の二のルールが始まる。

 新しいファイルが来る。

 また生き物の話になる。

 そういう日々が、これからも続く。

 それが、遥の思う幸福の形だった。


 林道を出たところで、遥は少し立ち止まった。

 振り返って、山の方を見た。

 ヒメボタルはもう見えなかった。

 木の中のどこかにいる。

 光を止めて、草の中に戻っている。

 でも、いなくなったわけではない。


 ホーホケキョ、と聞こえた気がした。

 でも七月にウグイスは鳴かない、と遥は知っている。

 春の鳥で、夏には声を止める。

 聞こえたのは、記憶の声だった。

 一年前の朝、正門の前で立ち止まったあの瞬間の。


 記憶の声が、今夜の空気の中に混じって、遥の耳に届いた。

「行きましょう」と烏丸が言った。

「はい」と遥が言った。

 二人でバス停の方へ歩いた。

 夏の夜が、まだ長く続いていた。


 あの鳥は今日も、藪の中にいる。

 声を出さないときも、そこにいる。

 春になれば、また鳴く。

 それがわかっていれば、冬も越えられる。



 ―― 完 ――

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