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第八話「ミツバチの蜜と毒(終章)」 ケース2:働き蜂の代償

 判決から三日後、遥は公判調書の清書をしていた。


 書記官の仕事の中で、公判調書の作成は最も根気のいる作業の一つだ。

 審理の経過、証拠調べの内容、各当事者の発言要旨を、法律の定める様式に従って正確に記録する。

 令和六年第五〇九号の調書は、証人尋問こそなかったものの、被告人質問の分量が多く、清書に丸一日かかると見込んでいた。


 執務室には遥一人だった。

 烏丸は今日、別の事件の合議のため終日会議室にいる。

 羽田も同行している。

 根岸さえ子は午後から別の業務で外に出ていた。


 遥はキーボードを打ち続けた。

 第二回公判の被告人質問の部分を、一言一言、照合しながら入力していく。

「名前を呼んでくれる場所だったから、です」

 加藤みどりの言葉が、文字になった。


 遥は一瞬、指が止まった。

 でもすぐに続けた。

「会社では、私の名前を呼ぶ人は誰もいませんでした」

 次は判決の言い渡しの部分。

 主文、理由。

 遥はそれも正確に打ち込んでいった。

 そして、説諭の部分に差し掛かった。


 書記官は、公判調書に説諭の内容を記録する義務はない。

 法的な決定事項ではないから。

 でも遥は、この法廷が始まってから、烏丸の説諭を全て手書きのノートに書き留めることにしていた。

 それは遥が自分で決めたことで、誰かに言われたわけでも、規則に定められているわけでもない。

 ただ、残しておきたかった。


 遥はノートを開き、自分の手書き文字を読み返しながら、改めてキーボードを打った。

「ミツバチの働き蜂は、巣のために一生を費やします――」

 打ちながら、そのとき法廷で聞いた烏丸の声が戻ってきた。

 穏やかで、低くて、急がない声が。


「あなたは十二年間、会社という巣のために飛び続けた」

 遥の指が、少し遅くなった。

「その巣は、あなたの名前を呼ばなかった」

 遅くなった。

 もっと。


「これからは、自分のために飛んでください」

 指が、止まった。


 遥はしばらく、画面を見ていた。

 自分のために飛んでください。

 その言葉が、頭の中でもう一度繰り返された。

 今度は加藤みどりに向けられた言葉としてではなく、もっと別の方向から、遥自身の中に入ってくるような感触で。


(私は、誰のために飛んでいたんだろう)


 兄のことを思った。

 あれは遥が大学三年生のときだった。

 兄が勤めていた会社で横領事件が起きた。

 真犯人は別にいた。

 でも証拠が曖昧で、最初に疑われたのは兄だった。

 起訴はされなかった。

 でも職場には居られなくなった。

 噂は広がり、転職先も続かなかった。

 兄は今、実家に戻って、細々とアルバイトをしている。


 あの頃から、遥は法律に関わる仕事がしたいと思い始めた。

 理由は「人を守りたい」だった。

 それは本当だった。

 でも、もう一つの理由があったことも、遥は知っていた。

(私が法律の場所にいれば、もし何かあったとき、兄を守れるかもしれない)

 司法試験を目指した三年間、落ち続けた三年間、それでも書記官になって裁判所に来た理由の奥に、いつも兄がいた。

 兄のために飛んでいた。

 法律に傷つけられた兄のそばに、法律の側の人間としていることで、何かを償いたかったのかもしれない。

 ミツバチの針のように、誰かのために使って、でも自分の腹を裂いていたのかもしれない。


(私は、自分のために飛んでいたのか)

 画面の中の文字が、少しぼやけた気がした。

 遥は目を強く瞬いた。

 そうしたら、不意に後ろで物音がした。

 振り向くと、烏丸が立っていた。

「合議が早く終わりました」と彼は言った。

 静かな声で。

「邪魔でしたか」

「いえ。びっくりしただけです」

 烏丸は自分のデスクに荷物を置いた。

 それから、立ったまま少し遥を見た。


「調書の清書ですか」

「はい。もう少しで終わります」

「急がなくていいです」

 烏丸が湯呑を二つ出して、お茶を淹れた。

 遥のデスクに一つ置いた。

 いつものことだった。

 でも今日は、なぜかその動作が、普段より丁寧に見えた。


「ありがとうございます」

「……説諭の部分を、清書しているんですね」

 遥は少し驚いて烏丸を見た。

 画面を見ていたのか、と思ったが、烏丸はデスクの方を向いて座り直していた。

「見えましたか」

「ノートが開いていたので。わかりました」

 遥はノートを見た。

 自分の手書きで、烏丸の説諭が書いてある。


「書き留めていたんですか」と烏丸が聞いた。

 義務でもないのに、という含みのある声ではなかった。

 ただ、確認しているような声だった。

「はい。残しておきたかったので」

 少しの間があった。

「……ありがとう」

 烏丸が言った。

 小さな声だったが、今日のそれは、いつもより重かった気がした。


 遥はお茶を一口飲んでから、画面に向き直った。

「烏丸先生、少し聞いてもいいですか」

「はい」

「先生は、説諭をするとき、自分が言いたいことを言っているんですか。それとも、相手が聞きたいことを言っているんですか」

 烏丸はしばらく考えた。

「両方、かもしれません。その人を見て浮かぶ言葉を言っているので。その人が聞きたいかどうかは、言ってみるまでわからない」

「自分のために飛んでください、という言葉は」

「……加藤さんに必要な言葉だと思いました」

「先生自身は、言われたことがありますか。自分のために飛んでいい、と」

 烏丸が、少し止まった。

「ないと思います。言ってくれる人が周りにいなかったので」

「……そうですか」


 遥は画面を見た。

「私も、なかったです」

 言ってから、言いすぎたかもしれない、とまた思った。

 でも取り消さなかった。

 今日は二度目だった。

 烏丸がデスクの向こうで、静かにお茶を飲んでいた。

 それから、少しして言った。

「築地さん」

「はい」

「あなたは、自分のために飛んでいいと思います」

 遥は手を止めた。

「それは、先生が言いますか」

「言いました」

「…………」

「言っておきたかったので」


 窓の外で、鳥が一声鳴いた。

 ウグイスかどうか、今度も確かめる間はなかった。

 遥は画面に向き直り、残りの清書を続けた。

 指が、さっきより軽かった。


 その日の午後、新しいファイルが烏丸のデスクに届いた。

 令和六年第五八二号。

 罪名の欄に「名誉毀損、業務妨害」とある。

 遥がファイルを受け取って内容を確認していると、烏丸が覗き込んだ。

「次の案件ですね。第一回公判の期日は?」

「来週の木曜日です」


 烏丸がファイルの一枚目を見た。

 被告人の職業欄には「無職(元会社員・主婦)」とある。

「どんな事件ですか」と遥が聞いた。

「SNSでの誹謗中傷です。被害者は、飲食店を営む女性」

 遥はその一行を読んだ。

「……難しそうな事件ですね」

「そうですね。加害者も被害者も、それぞれの暗闇の中にいることが多い案件です」

 烏丸はファイルを遥に返した。

「次はホタルの季節ですね」

 それだけ言って、判例集に向かった。

 遥はファイルを棚に収めながら、ホタルの季節、という言葉を聞いた。

(もう、そこまで来ているんだ)


 窓の外、五月の空は夕暮れに変わりかけていた。

 どこかで最初のホタルが光る夜が、そう遠くないところに来ていた。

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