第七話「ミツバチの蜜と毒(後編)」 ケース2:働き蜂の代償
判決の朝、遥はいつもより少し早く執務室に着いた。
烏丸はすでにいた。
でも今日は書類を読んでいなかった。
窓の外を、ただ見ていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
振り向いた顔は、いつもと変わらなかった。
でも遥には、この人が今日の言葉をもう決めている、ということが、なんとなくわかった。
遥はお弁当を置き、コートを脱ぎ、自分のデスクに向かった。
窓の外、五月の空は薄い青だった。
午前十時。
「起立」
第三法廷に全員が立った。
烏丸が入廷し、裁判長席に着く。
その一歩一歩を、遥はいつも通りに記録する。
いつも通りに。
でも今日は少しだけ、手の中のペンに力が入った。
「着席。令和六年第五〇九号、業務上横領被告事件の判決を言い渡す」
加藤みどりが座っていた。
今日は薄い灰色のジャケットを着ていた。
前回より少しだけ、背筋が伸びていた。
「主文。被告人を懲役二年に処する。この裁判確定の日から三年間、その刑の執行を猶予する」
加藤の肩が、かすかに動いた。
「理由を告げる。被告人が業務上横領の事実を犯したことは、証拠調べの結果により優に認定できる。犯行の期間はおよそ八ヶ月、回数十三回、総額三百八十万円に及んでおり、被害の規模は軽視できない」
烏丸は一度書類から目を上げ、また戻した。
「しかしながら、量刑にあたっては次の事情を考慮する。被告人は月平均七十時間を超える長時間労働に従事していたこと、精神的健康の著しい悪化により医療機関への通院を要する状態にあったこと、犯行に計画性がなく、追い詰められた精神状態の中での衝動的な行為であったこと。被害弁済は全額完了していること。前科前歴がなく、捜査に全面的に協力したこと。公判を通じて真摯な反省が認められること。精神科治療の継続と、今後の生活基盤の整備が確認されていること。以上の諸般の情状を総合考慮し、刑法第二十五条第一項の規定により、主文のとおり刑の執行を猶予することが相当と判断した」
烏丸が書類を閉じた。
退廷しようとした加藤を、静かな声が止めた。
「加藤さん、少し待ってください」
法廷が、静まった。
烏丸は加藤と正面から向き合った。
手を膝の上に置いて、少し前に体を傾けた。
急がない。
追い詰めない。
ただ、話しかける、という姿勢だった。
「ミツバチという生き物の話を、聞いてもらえますか」
加藤がうなずいた。
「ミツバチの働き蜂は、巣のために一生を費やします。花から花へ飛んで蜜を集め、幼虫の世話をして、巣を守る。一匹が一生かけて集める蜂蜜の量は、スプーン一杯分にも満たないと言われています」
烏丸の声は穏やかだった。
法廷の空気を緊張させるような声ではなく、庭先で話すような、静かな声だった。
「あなたは十二年間、会社という巣のために飛び続けた。月に七十時間を超えて飛び続けた。でも、その巣は、あなたの名前を呼ばなかった。労いも、感謝も、あなたには届かなかった」
加藤の手が、膝の上でゆっくりと閉じた。
「ミツバチの針は、一度使えば、自分の腹が裂けて死にます。身を守るための唯一の武器が、同時に自分の命を奪う。あなたがあの店に使ったお金は、そういうものだったかもしれません。心の渇きを、一時しのぐための針だった。でも、その蜜は本物の甘さではなかった。あなた自身が本当に欲しかったものは、お金で買える蜜ではなかったはずだから」
遥はペンを持ったまま、動けなかった。
記録を取らなければならない。
でも手が、少し止まった。
「これからは、自分のために飛んでください」
烏丸が、ゆっくりと続けた。
「巣のためでも、誰かのためでもなく、あなた自身が蜜を味わうために。三年間の猶予は、そのための時間です。あなたは十二年間、充分すぎるほど飛んだ。次は、自分の花を探してください」
法廷が静かだった。
加藤みどりは、うつむいたまま、しばらく動かなかった。
それから、音もなく、涙が一粒落ちた。
机の上に、小さな染みを作った。
加藤はそれを拭おうとして、でも手が追いつかなかった。
涙は、二粒目も、三粒目も、静かに落ちた。
烏丸は何も言わなかった。
ただ、待っていた。
急かさなかった。
しばらくして、加藤が小さく言った。
「……ありがとう、ございます」
「はい」
「自分のために飛んでいいんですか」
「飛んでいい」烏丸が言った。
「飛ぶべきです」
法廷が終わって、廊下に出た。
遥は少しの間、窓の外を見ていた。
羽田が隣に来た。
「泣きましたね、今日」
「……ペンが止まりました」遥は正直に言った。
「記録、ちゃんと取れましたか?後で確認します」
「大丈夫だと思います。俺も似たような状態でしたし」
羽田がぽつりと言った。
「『自分のために飛んでいい』、か」
「ええ」
「俺、先生に判決文の草案を見せてもらったんです」
「どうでしたか」
「……完璧でした。条文も引用も論理も。でも草案の隅に、小さく、ミツバチのメモが書いてあって」
遥は羽田を見た。
「『針を使えば死ぬ。自分のための蜜を』って書いてあった。判決文の隅に、そんなこと書く人、見たことないです」
遥はまた窓の外を見た。
(そうか。あの人はあそこにも、書いていたんだ)
法廷の外で。
草案の隅で。
庭でミツバチを見ながら。
ずっと、話しかけていた。
夕方、遥が帰り支度をしていると、烏丸が声をかけた。
「築地さん、少し歩きませんか。帰り道の途中まで」
遥は手を止めた。
「帰り道、違う方向ですが」
「知っています。遠回りになりますが、構いませんか」
遥は一秒、考えた。コートを取って立ち上がった。
「構いません」
裁判所の前の遊歩道を、二人で歩いた。
五月の夕方は明るく、風が少しあった。
街路樹の若葉が揺れていた。
烏丸は歩きながら、ときどき植え込みや木の方へ視線をやった。
何かを探しているのかもしれなかった。
何も探していないのかもしれなかった。
「今日の説諭は、いつもより優しかったと思います」と遥は言った。
「そうですか」
「加藤さんに対して、特別に思うことがあったんですか」
烏丸は少し間を置いた。
「十二年間、名前を呼んでもらえなかった人に、裁判官として名前を呼ばれるのが、最後の場所になってしまってはいけない、と思いました」
遥の足が、わずかに止まった。
そのまま、また歩いた。
「……先生は、そういうことを、考えているんですね。法廷に立つ前から」
「考えていないと、言葉が出てこないので」
「判決文の草案の隅に、メモを書くんですね」
烏丸が遥を見た。
少し驚いたような顔だった。
「羽田くんから聞きましたか」
「はい」
「……恥ずかしいですね、それは」
「恥ずかしくないです」
遥はまっすぐ前を見て歩きながら、言った。
「今日の説諭で、自分のために飛んでいい、という言葉を聞いたとき、私も少し刺さりました」
烏丸が静かに聞いていた。
「誰かのために飛び続けてきた部分が、私にも少しあるので。法律に関わる仕事を選んだのも、そういう理由があって」
言いすぎたかもしれない、と遥は思った。
でも、取り消さなかった。
烏丸は、しばらく黙って歩いた。
それから、ゆっくりと言った。
「あなたが書記官になった理由を、私はまだちゃんと聞いていなかった」
「……長い話になります」
「長くても、聞きたいです」
遥は烏丸を見た。
横顔を見た。
いつもの、表情の読みにくい横顔だった。
でも今日は、その横顔が、少しだけ遥の方に向いている気がした。
「いつか、話します」
「はい」
「でも今日じゃなくていいですか」
「もちろんです」烏丸が言った。
「急ぎません」
遊歩道に、夕日が長く伸びていた。
植え込みの中から、鳥が一羽飛び立った。
何の鳥かはわからなかった。
でも遥には、ウグイスではないということだけはわかった。
ウグイスは、まだ藪の中にいる。
でも、いつか。
声が聞こえた気がして、遥は少しだけ、足を遅らせた。




