第六話「ミツバチの蜜と毒(中編)」 ケース2:働き蜂の代償
第二回公判の朝、遥は執務室に入るなり、烏丸が補充尋問の草稿を書いているのを見た。
珍しいことだった。
通常、裁判官からの補充質問は、弁護人と検察官の尋問が終わった後、その場で判断して行うものだ。
事前に草稿を書くほど準備する判事は、そう多くない。
「おはようございます。補充尋問を書いているんですか」
「草案です。使うかどうかはその場で決めます」
「何を聞くつもりですか?」
烏丸は少し間を置いた。
「加藤さんが、どういう職場でどういう日々を過ごしていたか。それを、加藤さん自身の言葉で聞きたいんです。調書は事実を記録したものですが、言葉の呼吸まではわからないので」
言葉の呼吸。
遥はその表現を、手帳には書かなかった。
でも、胸のあたりにしまった。
午前十時、第三法廷。
「起立」
全員が立った。
烏丸が入廷し、裁判長席に着く。
「着席。令和六年第五〇九号、業務上横領被告事件、第二回公判を開廷します」
被告人席の加藤みどりは、今日も前回と同じように肩を落として座っていた。
ただ、今日は少しだけ顔の向きが違った。
真下ではなく、やや前を向いていた。
「本日は被告人質問を行います。弁護人から始めてください」
弁護人の田中弁護士が立ち上がった。
五十代半ばの、落ち着いた口調の男性だった。
「加藤さん、今日は正直に話してください。私から聞きます」
加藤がかすかにうなずいた。
「ナカムラ物産の経理部に配属されたのはいつですか」
「十二年前、です。平成二十六年の四月に」
「十二年間、同じ部署ですね。その間、残業はどのくらいありましたか」
「……毎日、夜の十時か十一時くらいまでは会社にいました。月に一度か二度、終電を逃したこともありました」
「残業代は出ていましたか」
「名目上は出ていましたが、実際に申請できる上限が決まっていました。三十時間までしか申請してはいけないと、暗黙の了解がありました」
「実態は何時間でしたか」
「六十時間から、多い月は八十時間以上だったと思います」
田中弁護士が一枚の書面を取り出した。
「これは加藤さんの職場の入退館記録をもとに作成した残業時間の集計表です。証拠として既に提出しておりますが、裁判長、確認のため引用してよろしいですか」
「どうぞ」と烏丸が言った。
「加藤さん、令和四年の一年間で、あなたの実際の残業時間の合計は八百七十三時間です。月平均にすると七十二時間。これは過労死ラインと言われる月八十時間に近い数字です。この事実について、何か言いたいことはありますか」
加藤は少しの間、黙っていた。
「……そうなんだ、と、今思いました。数字にしたことがなかったので」
「精神科への通院を始めたのはいつですか」
「令和三年の夏です。眠れなくなったので」
「通院していることを、職場の人に話しましたか」
「……言えませんでした。言ったら、弱い人だと思われると思って」
法廷の中が、静かだった。
遥は記録を取りながら、ペンが少し止まりそうになった。
「横領を最初に行ったのは令和五年四月です。その直前に何かありましたか」
「……三月に、私が担当していた決算で、私のミスではない数字の誤りがありました。でも上司に、お前のせいだと言われました。二時間、会議室で一人で立たされました」
「その後ですね」
「はい。あの日の夜、初めて振り込みをしました」
「計画していましたか」
「していませんでした。気がついたら、やっていました」
田中弁護士が書類をめくった。
「ホストクラブに通うようになったのは、いつからですか」
「令和四年の秋頃から、です」
「なぜそこに行くようになったんですか」
加藤は少しの間、手元を見ていた。
それから、ゆっくり言った。
「名前を呼んでくれる場所だったから、です。会社では、私の名前を呼ぶ人は誰もいませんでした。お前、とか、経理、とか、そういう言い方をされていたので」
法廷が、また静かになった。
遥は視線を記録用紙から上げた。
加藤の横顔を見た。
泣いていなかった。
ただ、淡々と話していた。
その淡々さが、遥には逆に重かった。
泣く体力も、もうないのかもしれない、と思った。
検察官からの反対尋問は、十分ほどで終わった。
横領の事実関係の確認と、返済の経緯の確認のみで、事実に争いはないため、それ以上の追及はなかった。
「では、裁判官から補充質問をします」
烏丸が少し前に体を傾けた。
加藤と目が合った。
加藤が、微かに身を固くした。
「加藤さん、一つ聞かせてください。十二年間、ナカムラ物産で働いてきた中で、仕事が楽しかったこと、誇らしかったことは、ありましたか」
法廷に、一瞬の沈黙が走った。
検察官が少し顔を上げた。
弁護士が静かにペンを置いた。
加藤は、今日初めて、長い時間をかけて答えを探した。
「……ありました」
「どんなときですか」
「決算が締まったときです。何百万というお金の流れを、一円も狂わずに合わせられたとき。それだけは、自分がちゃんとやれたと思えました」
烏丸はうなずいた。
「その仕事を、あなたは十二年間続けてきた」
「はい」
「わかりました。ありがとう」
それだけだった。
加藤がまた、机の一点に視線を落とした。
でも今度は、最初とは少し違う種類の静けさに見えた、と遥は思った。
午後、論告が行われた。
検察官が起立した。
「論告申し上げます。被告人は、業務上の地位を利用して、長期間にわたり会社の資金を横領したものであり、その態様は、計画性こそないものの、十三回にわたる反復継続した行為であって、社会的信頼を著しく損ないました。被害総額は三百八十万円に及びます。被害弁済は完了しておりますが、弁済は逮捕後に親族が肩代わりしたものであり、被告人の自発的な回復とは言えません。また、職場環境や精神的健康状態を情状として考慮するにしても、それが犯行を正当化する理由にはなりません。以上の諸般の事情を総合考慮し、被告人を懲役二年に処することが相当であると考えます」
検察官が着席した。
次に田中弁護士が立ち上がった。
「弁護側の弁論を申し上げます。被告人は本件犯行の全てを認め、真摯に反省しております。また、被害弁済は全額完了しており、被害会社との間には示談が成立しております。犯行の背景には、過労死ラインに迫る長時間労働、適切な評価を受けられない職場環境、それに起因する精神的健康の悪化がありました。これらは犯行の原因を形成する重要な情状であり、被告人の責任を一定程度軽減する事情として考慮されるべきです。被告人は現在、精神科での治療を継続しており、再犯の防止に向けた環境も整えられています。以上を考慮し、刑の執行を猶予する判決を求めます」
「では、被告人から最終陳述をお願いします」
加藤が立ち上がった。
声が小さかった。でも、はっきりと聞こえた。
「……申し訳ありませんでした。会社の方々に、ご迷惑をおかけしました。もう、しません」
それだけだった。
烏丸が書類を見て、また加藤を見た。
「弁論を終結します。判決は来週火曜日、午前十時に言い渡します。以上をもって、本日の公判を終了します」
「起立」
全員が立った。烏丸が退廷した。
廊下に出た遥は、少しの間、その場に立ち止まった。
「大丈夫ですか」
隣に羽田がいた。
「大丈夫です。ちょっと、聞いていてしんどかっただけです」
「俺もです」羽田が珍しく、まっすぐな顔で言った。
「名前を呼んでくれる場所、って聞いたとき」
「ええ」
「それだけで、三百八十万円使ってしまったんですね」
「使ってしまった、というより、そこにしか居場所がなかったんだと思います」
羽田はしばらく黙っていた。
「……俺、あの人の判決文の草案、後で読んでもいいですか。先生がどう書くか、見てみたくて」
「烏丸先生に直接聞いてみてください。たぶん、見せてもらえると思うので」
夕方、遥が帰り支度をしていると、烏丸が窓の外を見ながら言った。
「築地さん、少しだけ庭に付き合ってもらえますか」
断る理由がなかった。
遥はコートを持って一緒に出た。
四月の夕方は、まだ少し肌寒かった。
庭のつつじが、低い陽光の中で濃く赤かった。
烏丸はつつじの前でしゃがんだ。
一匹の蜂が、花の中に潜り込んでいた。
「ミツバチです。今日も来ていますね」
遥もしゃがんだ。
蜂は花粉を脚に積みながら、また別の花へ移った。
「……加藤さんのことを考えていたんですか」
「ええ」
「何を思いましたか」
烏丸は蜂を目で追いながら、ゆっくり言った。
「あの人は、十二年間、巣のために飛び続けた。その蜜は、全部巣に収められた。でも、あの人自身には、何も残らなかった。そういう話だと思いました」
遥は蜂を見た。
また花の中に消えた。
「来週、どんな話をするつもりですか」
「まだわかりません。でも、ミツバチの話はしようと思っています」
烏丸が言った。
静かで、でも確かな声で。
遥は、その横顔を、夕日の中で少しだけ見た。
(この人は、判決の前からもう、被告人に話しかけている)
法廷の外で、ずっと。
蜂が、また花から出て、どこかへ飛んでいった。




