第五話「ミツバチの蜜と毒(前編)」 ケース2:働き蜂の代償
四月の中旬、緑ヶ丘地方裁判所の庭から桜の花びらが消えた。
代わりに、つつじが咲き始めていた。
遥は第一回公判の前日、執務室で被告人の調書を読んでいた。
加藤 みどり。
四十一歳。独身。
株式会社ナカムラ物産、経理部主任。
業務上横領。
令和五年四月から十二月にかけて、十三回、三百八十万円。
調書を読み進めるほど、遥の手が少しずつ重くなった。
加藤は供述の中でこう述べていた。
「毎晩、終電近くまで会社にいました。でも、誰にも感謝されたことはなかったと思います。ミスをすればすぐに怒鳴られました。月に一度、精神科に通っていました。あの店に行くと、名前を呼んでくれる人がいた。それだけで、少し息ができました」
遥はそこで一度、調書から顔を上げた。
(息ができました)
その一文が、なぜか胸のあたりに引っかかった。
遥の兄は、法律に守られなかった。
守られるはずなのに、守られなかった。
加藤みどりは、守られる場所を自分で作ろうとして、間違えた。
どちらが正しかったかとか、どちらが悪かったかとか、そういうことではなく、どちらも追い詰められていた、ということだけは、遥には確かにわかった。
「築地さん、その書類は読み終わりましたか」
烏丸の声で、遥は顔を上げた。
「はい、今ちょうど」
「明日、よろしくお願いします」
それだけだった。
でも遥には、その「よろしく」が普通のそれと少し違う重さで届いた気がした。
翌朝、第三法廷。
午前十時。
「起立」
廷吏の号令で全員が立った。
烏丸が入廷した。
黒い法服。
一歩一歩、軽くなく、でも重くもない歩き方で、裁判長席に着いた。
「着席。これより令和六年第五〇九号、業務上横領被告事件の第一回公判を開廷する」
遥は書記官席で記録用紙を広げた。
被告人席に、加藤みどりが座っていた。
小さい人だ、と遥は思った。
背が低いというより、全体が縮まっているような印象だった。
肩が前に入り、視線はずっと机の一点に向けられている。
法廷に入ってから一度も顔を上げていなかった。
烏丸が静かに口を開いた。
「人定質問を行います。お名前をお聞かせください」
「……加藤、みどり、です」
「生年月日は」
「昭和……五十七年、六月、十四日です」
「住所は」
加藤が答えた。
烏丸はそれを確認し、検察官に目を向けた。
「起訴状の朗読をお願いします」
検察官が立ち上がった。
「公訴事実。被告人は、株式会社ナカムラ物産において経理を担当し、同社の経理業務を通じて会社の預金口座を管理する業務に従事していた者であるが、令和五年四月十八日から同年十二月二十一日までの間、前後十三回にわたり、同社の普通預金口座から被告人の名義口座に合計金三百八十万円を送金し、もって業務上自己の占有する他人の物を横領したものである。罪名及び罰条。業務上横領、刑法第二百五十三条」
法廷に、静かな時間が流れた。
烏丸が加藤に向き直った。
「ただいま検察官が読み上げた起訴状の内容について、間違っている点や、付け加えたいことはありますか」
加藤は少し間を置いてから、首を振った。
「……ありません」
「認否を確認します。起訴状に書かれた事実について、認めますか」
「……はい、認めます」
「弁護人からも確認します」
弁護人が立ち上がった。
「被告人は起訴事実を全て認めており、争いはございません。弁護側としては、被告人の動機の背景にある職場環境、精神的健康状態、および被害弁済の完了をはじめとする情状について、充分な審理をお願いしたいと考えております」
「承知しました。では証拠調べの手続きに入ります」
烏丸は検察官と弁護人を交互に見た。
「本件は事実に争いがないことから、証拠調べについては書証を中心に進める方針でよろしいですか。双方に異議はありますか」
「異議ありません」と検察官が言った。
「同じく異議ありません」と弁護人が続けた。
「では検察官、証拠の請求をお願いします」
証拠調べが始まった。
送金履歴、口座の記録、精神科の診断書、職場の残業記録。
数字と書類が積み重なっていく中で、加藤みどりはずっと、机の一点を見ていた。
遥は記録を取りながら、その横顔を、ときどきちらりと見た。
休廷になった。
廊下に出て、遥は水を一口飲んだ。
隣に羽田がいた。
「今日の被告人の方、静かでしたね」と羽田が言った。
「ええ」
「全部認めてる。弁済も終わってる。それでもここに来るんですよね、やっぱり」
「そうですね」
「俺、あの人を見てて……なんか」
羽田は言葉を探すように少し止まってから、続けた。
「なんかうまく言えないんですけど、あの人がどういう日々を送ってたか、書類読んだだけじゃわからないなって、思いました」
遥は羽田を見た。
「それ、烏丸先生に言いましたか」
「え、なんで」
「言ってみてください。喜ぶと思うので」
羽田がちょっと照れたような顔をした。
昼になった。
今日の弁当は筍ごはんと、鶏の塩麹焼き、菜の花のからし和え。
春らしい献立だった。
「筍ごはんです」
「ありがとうございます」
烏丸は今日は少し早く箸を取った。
一口食べた。
「美味しいですね」
「ありがとうございます」
「筍は、地下茎で繋がった竹の子供です。親の竹は地下でネットワークを持っていて、栄養を分け合っている。竹林というのは一見それぞれが独立しているようで、地下では全部つながっている」
「先生、それ食べながらでも言えるんですね」
「すみません」
「いいえ、面白かったです」
烏丸が、少し意外そうに遥を見た。
「面白かった、ですか」
「ええ。竹林って全部つながってるんですか。知らなかったです」
「そうなんです。だから一本切っても、すぐに別の場所から芽が出てくる。ある意味で、切れない存在なんですよ」
烏丸がそう言った瞬間、遥はなんとなく、加藤みどりのことを思った。
会社という竹林の中で、一本の竹として立ち続けようとした人のことを。
「先生は、今日の被告人の方を見て、何か思いましたか」
烏丸は箸を置いた。
少し考えてから、言った。
「小さかったですね。体がではなく」
「……ええ」
「ずっと机の一点を見ていた。怯えているのではなく、疲れているように見えました。長い間、疲れ続けた人の顔でした」
遥はうなずいた。
「私もそう思いました」
「次の期日で、もう少し話が聞けると思います」
烏丸はまた弁当に視線を戻した。
菜の花を一口食べた。
「菜の花は苦いですね」
「春の味です」
「はい。でも、美味しい」
遥は少し笑った。
烏丸も、少しだけ口元が緩んだ。
夕方、執務室に戻ると、デスクの上に一枚の付箋が貼ってあった。
羽田の字で、こう書いてあった。
「先生に言いました。『それが大事なことです』って言われました」
遥は付箋を見て、また少し笑った。
窓の外、裁判所の庭のつつじが、夕日の中で赤く光っていた。
どこかで蜂が飛んでいるかもしれなかった。
加藤みどりは今日、どこへ帰ったのだろう、と遥は思った。
一人の部屋に、帰ったのだろうか。




