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第四話「ウグイスの鳴く藪」(終章) ケース1:届かぬ想いと境界線

 桜が満開になった週の、水曜日の朝のことだった。


 緑ヶ丘地方裁判所へ向かう遊歩道を歩いていた遥は、足を止めた。

 聞こえた。

 ホーホケキョ、という声が、道沿いの植え込みの奥から、一度だけ。

 遥はしばらく立ったまま、声のした方を見た。

 葉の茂りはまだ薄く、植え込みの奥は見通せた。

 でも、鳥の姿は見えなかった。

(……いるのに、見えない)

 遥はそのことを、なんとなく覚えておこうと思った。


 執務室に入ると、烏丸はいつもの場所にいた。

 今日は判例集ではなく、一枚の書面を持っていた。

「おはようございます。今日は早いですね」

「少し早く来ました」

 烏丸の声が、いつもとわずかに違った。

 遥はコートを脱ぎながら、その書面に目をやった。

「水島さんの件ですか」

「ええ。先ほど担当保護観察官から連絡が来まして」

 烏丸は書面をデスクに置いた。

「被害者側の弁護人から、水島さんの謝罪書面を受け取った旨の通知がありました。被害者の方は、内容を確認した上で、直接の接触を求めない条件のもと、謝罪を受け入れる意向を示されたそうです」


 遥は一瞬、返す言葉を探した。

「……よかったですね」

「ええ」

 烏丸は小さくうなずいた。

 それだけだった。

 喜びを表に出す人ではない。

 でも遥には、そのうなずきに込められているものが、少しわかる気がした。

 届いたのだ、と。あの日の、ウグイスの話が。


 午前中の執務は、次の案件の公判準備で埋まった。

 令和六年第五〇九号、業務上横領被告事件。

 被告人は四十一歳の女性で、都内の中規模企業で経理を担当していた。

 第一回公判の期日は来週の火曜日に指定されていた。


「公訴事実の要旨を確認します」と烏丸が言った。

「期間は令和五年四月から十二月、横領総額は三百八十万円、方法は会社口座から自己名義口座への不正送金、回数は合計十三回。争いはないですね、認否は?」

「調書では全面的に認めています。弁護側は情状酌量を主として争う方針です」

「情状の内容は」

「深夜残業が常態化した職場環境、精神科への通院歴、動機に計画性がなかったこと、全額の弁済が完了していること。以上の四点を主な根拠としているようです」


 烏丸は静かに書類を見た。

「弁済は完了しているんですね」

「はい。逮捕後に親族が立て替えて、全額返済しています」

「……そうか」

 烏丸はそれきり黙って、書類に視線を落とした。

 遥はその横顔を、少しだけ見た。

(またもう、考え始めている)

 遥には、もうそれがわかった。

 判決をどう組み立てるかではなく、被告人の人間をどう理解するか、を。


 昼になった。

 今日の弁当は鶏の照り焼きと、春野菜の炒め物だった。

 ふきのとうを少し入れた。

「今日はふきのとうが入っています。春の山菜です」

「知っています。フキは雌雄異株で、ふきのとうは花のつぼみです。ちなみに食用にするのは主に雌株で」

「先生」

「はい」

「一口食べてから話してください、って先週も言いました」

「……そうでした」


 烏丸は箸を取り、黙って一口食べた。

「美味しいですね」

「ありがとうございます」

「ふきのとうの苦味が、春という感じがします」

「それは素直な感想ですね」

「生き物の話ではなく、素直な感想を言えましたか」

「はい、言えました」

 遥は思わず笑った。

 烏丸がわずかに首を傾げた。

「笑いましたか」

「笑いました。すみません」

「なぜ」

「先生が、自分で採点しているのが可愛かったので」

 烏丸は一拍止まって、また弁当に向き直った。

 耳が、ほんのわずかに赤くなったように見えた。

 遥はそれに気づいたが、気づかないふりをした。


 夕方、執務の区切りがついたところで、遥が窓の外に気づいた。

 烏丸がいなかった。

 三分ほど経ってから、一階の庭に出てみると、裏の植え込みの前に烏丸が立っていた。

 今日は双眼鏡を持っていない。

 ただ、しゃがんで植え込みの根元を見ていた。

「先生?」

「ここに来てみてください」

 遥は近づいてしゃがんだ。

 桜の根元に、白い小さな花が咲いていた。

 その花の上で、一匹の蜂がゆっくりと動いていた。

「ミツバチです」と烏丸が言った。

「もうこの時季から来ているんですね」

「桜の蜜を採りに?」

「ええ。花から花へ、ひたすら集め続ける。あの体の大きさで、相当な仕事量です」

 遥は蜂をじっと見た。

 小さな体が、花の中に潜り込んで、また出てきた。

 また別の花へ行く。

「働き者ですね」

「そうです。ミツバチの働き蜂は、一生のうちに集める蜂蜜の量が、スプーン一杯ほどだと言われています」


 遥は聞きながら、来週の被告人のことを少し思った。

 十三回、三百八十万円。

 会社という巣のために働き続けた人のことを。

「先生、次の案件もう考えていますか」

 烏丸はしばらく間を置いた。

「観察していると、自然に重なってくることがあると言ったでしょう」

「はい」

「来週の方の話は、まだ調書しか読んでいません。でも、蜂を見ていたら、少し浮かんできました」


 遥は蜂をもう一度見た。また花の中に消えた。

(この人は、こうやって考えるんだ)

 公園でホオジロを双眼鏡で追いながら、ウグイスを探しながら、こうして庭の蜂を見ながら、次の被告人のことを考えている。

 法廷の外で、ずっと、考え続けている。


 夕日が、裁判所の庭に低く差し込んでいた。

 桜の花びらが数枚、風もないのにはらりと落ちた。

「先生」

「はい」

「今日、裁判所に来る道でウグイスの声を聞きました。姿は見えなかったですけど」

 烏丸が遥を見た。

 少し目を細めた。

「それは、いい朝でしたね」

 遥はうなずいた。

 それだけだった。

 でも、その短い言葉が、妙にあたたかかった。


 帰り際、根岸さえ子が廊下で遥を捕まえた。

「築地ちゃん、今日も庭にいたでしょ、二人で」

「虫の観察につきあわされました」

「蜂?」

「ミツバチです。スプーン一杯の蜜の話をされました」

 根岸さえ子は目を輝かせた。

「あの先生が生き物の話してるとき、すっごく楽しそうな顔するのよ、知ってた?」

「……知りませんでした」

「法廷では絶対しない顔よ。あんた気づいてなかった?」

 遥は少し考えた。

 気づいていた、と思う。

 ただ、まだうまく言葉にできなかった。


 遥は裁判所の正門を出て、来た道を戻った。

 遊歩道の植え込みの前を通った。

 今度は声が聞こえなかった。

 もう夕方だから、鳥は深い藪に戻っているのだろう。

 でも、いることは知っている。

 春になれば、必ずそこにいることを、遥は今日から知っている。

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